第49話
権力の一部に座していた者が、何か大きな心境の変化でもあったのだろうか? まさかそれが原因で命を奪われたわけではないだろう。……〝Capital〟を元に戻し、ガラスにあいた穴に目をやった。見たいのは、その延長線上にある建物だ。
「よかったら、これをどうぞ」
背後から声がした。振り返ると楓香が双眼鏡を差し出していた。張り込みなどで使うものだ。
「ありがとう」
双眼鏡を受け取ると、彼女が割れていない方の窓から三百メートルほど先にある四階建てのビルを指した。緑色の大きな看板が目立つ。
「おおよその弾道は解析が済んでいます。犯人は、あの信用金庫の屋上から撃ったと考えています。現在……」
征義は双眼鏡を覗きながら彼女の説明を聞いた。捜査本部は周囲の防犯カメラのチェックを行い、容疑者のあぶり出しと侵入経路を特定しようとしているらしい。
「なるほど……。簡単に入れるビルなのかい?」
四階建てのビルなら、上りやすい外階段があるかもしれないと思った。双眼鏡で確認できる範囲内には、貯水タンクとエアコンの室外機が数台、見て取れた。どれも平凡なものだ。
「信用金庫ですから、比較的セキュリティーが高く、その辺りで苦戦しています」
「外階段は?」
「ありません」
「屋上に薬きょうや射撃残渣、足跡は?」
「皆無です」
「なるほど……。外階段がないとなると、昼間の信用金庫の屋上に上るのは難しいだろうな」
「はい」
征義は信用金庫の先に並ぶビルに双眼鏡を向けていた。その中でスナイパーが姿を潜められそうなビルは一つしかなかった。信用金庫の三倍ほどの距離にあるビルだ。距離はあるが信用金庫のビルより数階は高いだろう。そこから緩やかな放物線を描くライフル弾の弾道を想像した。
「信用金庫でないとすると、あのビルあたりか……」
「どのビルですか?」
征義は彼女に双眼鏡を渡して指差した。
「ずいぶん遠いですよ。とても狙撃は無理です」
彼女が双眼鏡をのぞきながら言った。
「九百から千メートルというところだろう。君には無理だろうな」
「警部補にはできるのですか?」
彼女の瞳が征義に向いた。
「無理だ。射撃は苦手だからね。ライフルは使ったことがないが、拳銃では、的に当てられるのはせいぜい百メートルだ」
「それなら……」
征義は、彼女の反論を言葉で制す。
「ゴルド紛争を知っているかい? その戦場にミラージュというスナイパーがいたらしい」
「それが何か?」
「ミラージュはたった一発で目標を仕留め、幻のように消える」
「それでミラージュ……」
「二千メートル距離の狙撃もやってのけたらしい。紛争終了後、彼が金で殺しを請け負っているという噂がヨーロッパの裏社会にある」
「確かに撃たれたのは一発だけですが、そのミラージュの仕業だというのですか?」
「そうは言わない。ただ、九百メートルあるからといって捜査の対象エリアから外すのは、自分の能力で他人を量る愚か者だということだ」
自分が愚か者といわれたと思ったのか、楓香は逃げるように双眼鏡を覗いた。
「あんな遠くから……。ん、ビルの上に誰かいます。何をしているのかしら?」
「貸してくれ」
彼女から双眼鏡を取り上げようとした時、ポケットの中のスマホが震えた。真幾からの電話だった。
『現場にいるのでしょう。何かわかりましたか?』
「段取りをつけてもらってありがとう。狙撃地点のおおよその見当がついた」
『ほう……』
「そんなことを聞きたかったのか?」
『要件が二つあります。ひとつは雨宮の件です。先輩の顔を立てて釈放しました』
「それは良かった。お互い、良心の
『それは調べる必要がないと……。上からの指示です』
「どういうことだ?」
またもや忖度か、外務省辺りから横やりが入ったのだろう。……苦いものを覚えた。
『先輩のお陰で先生が色々教えてくれました。この日本にもキロ狙撃をやってのけるスナイパーがいるそうです』
「ん……」おかしなことを言うと思った。「……そいつが本星だというのか?」
――ギャン――
窓の網入りガラスが鳴って真幾の声をかき消した。征義はボディーブローに似た圧力を感じたが、強靭な肉体でそれに耐えた。
ガラスを貫通した弾丸が征義の胸を貫いて書棚の六法全書にめり込んだ。楓香の顔が征義の血を浴びて赤く染まった。
「キャー!」
征義は、揺れる意識の中で彼女の悲鳴を聞いた。彼女に目を向けようとすると、身体がバランスを崩した。
なんだ?……自分の身に起きたことが理解できなかった。全身から力が抜けていく。膝から床に崩れ落ちると、手を離れたスマホが床を滑って楓香の足に当たって止まった。
『先輩は知りすぎたそうです』
スマホの中で声がした。
そうか、俺は真幾の出世に邪魔な存在だったのだな。迂闊だった。……そう気づいた時、征義の命は燃え尽きた。
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