第46話

 真幾はすぐにやってきた。髪をきちんと整えて黒縁メガネをかけ、高級スーツを着こなしている。官僚を絵にかいたような姿だった。

「槻田さん、まるでホテル内にいたようですね」

「ええ、先輩の推察通りです。一階のカフェで待っていました。営業はしていませんでしたがね。ロビーで声をかけようかと思ったのですが、二人でいるところを見られては、先輩が困ると思いましてね」

 後輩のくせに生意気なことを言う。……面白くないものを覚えたが、相手は高級官僚だ。感情をグッと抑えた。

「で、用件は爆弾の件かな?」

「いいえ。阿鼻委員長の件です」

「それなら容疑者を連行したじゃないか。あれは槻田さんの指示だろう? 私が話せることは何もないと思うが」

「嫌味はよしてください。雨宮譲治はまだ何も自供していない」

「自供はできないだろうな。彼はやってない」

「証拠がありますか?」

「……ない。が、それぐらいわかるさ。三カ月も彼を観察してきた」

「ここから……」

 真幾が窓辺に近寄り、カーテンを開けた。そこから雨宮夫婦が住む三階建てのアパートが見える。この部屋は、ビデオカメラで録画するにも、盗聴するにも、障害物がないので適していた。怪しげな車がアパートの周囲に停まった際に、それを確認しに行くにも近くて都合の良い。とはいえ、ひとりで二十四時間監視するのは不可能だ。

「昨日の昼時なら、雨宮は部屋で寝ていたはずだが証拠はない。私も愛人のようにつきっきりというわけにはいかないのでね」

 征義は真幾の背中に話した。

「それで?」

 彼が振り返った。

「私が彼を見たのは午後五時ごろだ。寝起きだったのだろう。ぼんやりした顔をしていたよ」

「寝起き?」

「刑事部の連中から聞いてないのか? 彼は夜勤の予定だった」

「なるほど……」

 彼が窓際を離れ、椅子に腰を下ろした。

「そもそも彼は社会主義者でさえない。四年前に取り調べをした奴が、彼を社会主義者と認定したにすぎない。功を焦ったのだろう」

「それは先輩方、公安部でしょう。前任者の批判をするのは、どうかと思いますよ」

 これだから官僚は……。そう口走りそうになったが、ぐっと堪えた。

「過ちを正すのにはばかることなかれ、と論語にもある。屁理屈をこねて誤魔化すより、過ちは認めて正すべきだ」

「正論ですね。しかし、警察の現場だって縦社会というのは同じはずです。一旦出た結論をひっくり返すのはタブーではありませんか?」

「共産党宣言や資本論を読んだからといって、暴力革命支持者とは限らないだろう。マルクス主義者など、大学の教授棟に行けば掃いて捨てるほどいる。雨宮がマルクス主義者に似たところがあるとすれば、私たちと違って真っすぐということだ。宣教師のように、信念のためなら罪を犯すかもしれない。……が、彼の場合、そのために家族や職場の仲間に迷惑をかけるようなことはしないだろう。公安部が理解している以上に良識的な人間だ。睡眠時間をつぶして人殺しに行くこともなければ、無断欠勤はもちろん、突然、仕事を辞めて逃亡することもない」

 征義は回りくどい皮肉を言った。

「世の中は、真っ直ぐな人間には厳しいものです。資本主義であれ、社会主義であれ、それが近代社会だ。そういう意味では、私たちは間違っていない。……そう思いますよ……」

 彼が軽妙な言い回しで皮肉をいなす。

 真っすぐでない人間が社会に適応した正しい人間だ、とはお笑い種だ。……征義は考えたが、口にはしなかった。

 真幾が言葉を継ぐ。

「……雨宮の思想はともかく、先輩は彼を熟知しているようです。よく調べたものですね。しかし、実行犯が別にいたらどうです?」

「雨宮が何らかの組織に入っている可能性はゼロだ。会社と労働組合、町内会、そして家族……、彼が関係を持つコミュニティーはそれだけだ。その中に、暴力革命を目指している者はいない。そのことは先月のレポートでも報告したはずだ。雨宮が誰かを雇って、という可能性もない。あの夫婦は日々の生活で汲々としている。何分、ここの給料は安い」

「そうですか……」

 彼は僅かばかり残念そうな表情を作ると話題を変えた。

「……そういえば、ここに伊賀いが先生の部屋があるそうですね。知っているのでしょう?」

 伊賀芳春よしはるは警察官僚上がりで、真幾を何かと引き立てている国会議員だ。

「任務外のことだが、目に留まるので押さえている。企業人や女と会うのに利用しているようだ」

「企業人と女か……。あの人らしい。収賄の臭いがプンプンだ」

 真幾は顔をしかめたが、心底、芳春を非難しているようではなかった。

「そちらの方面には踏み込んでいない。無駄に良心を痛めることになるからな。第一、上からの指示がない」

 征義は感情を抑えて話した。真幾が口角を上げる。

「それでいいですよ。政治家と企業の結託は国益に反するが、現体制維持にとっては必要悪です。で、先生の相手の女はプロですか?」

「そんなことが知りたいのかい?」

「念のためです」

「某国のハニートラップでも案じているのか。……複数いるが、どれも素人だな。……個別の調査はしていないが、パッと見、人妻のようだ。何か気になることでも?」

 征義は言葉を選んで話した。芳春と接触した女性の中に真幾の妻がいたからだ。彼女は政治家とのパイプをそうやって作り、陰で夫の出世を支えているのかもしれない。あるいは、真幾も承知の上なのか……。

「人妻と火遊びか……。そんなことなら放っておいてかまわないが……。マスコミに嗅ぎつけられたら面倒なことになるな。世間は不倫にやかましい」

 彼は伊賀芳春の相手の中に自分の妻がいることは知らないようだった。同情を覚えた。

「今朝、爆弾騒ぎで避難する客たちの様子を、マスコミらしい男が写真を撮っていた。嗅ぎつけられていないという保証はないな」

「そうですか。私から先生に注進しておきましょう。先生が阿鼻委員長の後に座る可能性があるのです。スキャンダルはまずい」

「なるほど。槻田さんの出世にも響くというわけだ」

 自分の女房に警告するのも忘れるなよ。……胸の内で言った。

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