第43話

 セルゲイとオリガは壁際の席に案内された。髷を結ったフランス人が同席したいと馴れ馴れしく言ってきたが断った。仕事の前後と非常時は、他人との接触は控えたい。行動が制約されるからだ。彼は筋肉馬鹿を絵にかいたようなアメリカ人の席に行った。おそらく彼らは親密な友達になれるだろう。

 ホテルマンが好きなものを注文してくれというので、二人はビーフシチューのセットとワインをボトルで頼んだ。驚いたのだろう。注文を取りに来たウエイトレスの表情が固まった。朝からワインを飲むと想像もしていなかったのに違いない。

 オリガが首をかしげて見つめると、彼女は怯えたようなぎこちない笑みを作って離れた。オリガには無意識のうちに誰かを射すくめてしまうところがある。

 料理はすぐに運ばれてきた。

「ハンバーガーショップ並みの速さだな」

 感心して見せるとオリガが賛同し、憤りをホテルマンにぶつける宿泊客と謝罪するホテルマンに目をやった。

「この国は豊かで便利だけど、誰も幸せそうではないわね」

「幸せだから文句が言えるのだ。こんな美味いものを食いながら文句が言える。それが幸せでなくてなんだ?」

 セルゲイは彼女の意見に異を唱え、ビーフシチューの肉を飲みこんだ。それは食道で溶けて胃袋に流れ落ちた。

「確かに、私たちは腐った肉を食い泥水をすすって生きてきた。けれど、人はパンのみに生きるにあらず、とマタイ伝にあるわ」

 オリガがフランスパンにシチューをつけて口に放り込む。

「だから肉を食い、酒も飲む……」

 ワイングラスを掲げて、胃袋に一気に流し込む。その様子をオリガは呆れ顔で見ていた。

はいい。安物だと思ったが、意外といけるぞ。オリガ、ガンガン飲めよ」

 空いた自分のグラスにワインを注ぐ。

「セルゲイらしい。酒さえあればパンも本も、幸福もいらないわね」

 オリガが苦笑しながらグラスを赤い唇に運んだ。

「バカにするな。冗談に決まっているだろう。この国の民を不幸にしているものがあるとするなら……」少し考えた。「……信仰かな? それがない」

「それはどうかな。我が祖国は二つの……、いえ、三つの民族と三つの信仰によって分裂した。私に言わせれば、信仰などクソだ」

「おいおい、やめてくれ。食事中だぞ」

 周囲に眼をやったが、彼女の言葉に不快な顔をする人間はいなかった。そもそも言語が理解されていないのだ。

「私の言葉など誰にも届かない。もちろん、神にも」

「オリガは神など信じていないだろう。俺にすれば、オリガが神だ」

 彼女に乾杯すると、彼女がフンと鼻を鳴らした。

「私は女優だ。……女優で人殺し」

「そういえば、女優になりたいと言っていたな。まだ子供の頃だ」

「演技のふりでもしなければ、人など撃てなかった。子供だったから」

 彼女は声を潜めた。

「根っからの人殺しだと思っていたが、そうやって自分自身を支えていたわけだ……」その時初めて、彼女が哀れに思えた。「……内戦などなければ、普通に家庭を持って、子供の世話など焼いていたのだろうな。ウーン、オリガが子供を育てている姿など、イメージできないぞ」

「ハリウッドで女優になっていたはずよ」

 彼女が微笑を浮かべた。

「なるほど、オリガは実に演技が上手い。外交官夫人の演技も、足が悪い演技も、非の打ちどころがない」

 褒めても、彼女は喜ばなかった。分かっていたことだ。

「今度は少しいい部屋に泊まったらどうだ?」

 提案するとオリガが首をかしげた。

「外交官がエコノミークラスの部屋などにいたから、従業員が不審がっていたぞ。節約したいのはわかるが……」

「豪華な部屋は落ち着かないのよ。いやな臭いで鼻が曲がりそうになる」

「やれやれ……」何度も聞いたことだが、その度にあきれる。

 その時、店内がざわついた。ホテル・ミラージュの事件がインターネットニュースで報じられ、それをみつけた宿泊客が意味不明な声を上げたのだ。人々はその情報を共有し、皆、スマホに釘付けになった。セルゲイも同じだ。

 ニュースには避難時の動画とライブ配信があった。道路に連なったパトロールカー、避難する宿泊客や従業員……、その中に自分の姿を見つけると宿泊客たちは声を上げて喜んだ。

「予告の時刻は九時だと言ったな」

 セルゲイは日本製の腕時計に眼をやった。外交官を演じるにはスイス製のヴィンテージものが望ましいが、暗殺という仕事には日本製の電波時計の方が信頼できた。うっかり時刻合わせを忘れても、それは正確な時刻を教えてくれる。もちろん、純粋な社交パーティーならヴィンテージの時計を使う。

 何を選択するか、それにはTPOがあるし、選択者の能力やセンスが試される。そうした選択によって結果が微妙に変わってくるものだ。とはいえ、時は戻らない。別な選択をした場合との比較は不可能だ。どの選択が良かったのか、正解が明らかになることはない。人間は、成功しようと失敗しようと、自分の判断を謙虚に受け入れるしかないのだ。

「あと七分ね」

 彼女も日本製のそれを見て言った。

 ネットニュースのライブ配信が、ホテル・ミラージュを見上げる警官隊や消防隊の横顔を映していた。彼らは客室のどこかで火柱が上がるのではないか、と案じているようだ。

「紛争国なら爆弾テロなど日常的だが、この国はテロに慣れていない。爆発物は発見できなかったのだろうな。どこかでドカンといくのを見守るようだ」

 口にはしなかったが、セルゲイは案じていた。オリガの大切な装備の一部が吹き飛んでしまうのではないかと。

「それはどうかしら? すべては、というのが正確なのかもしれないわね」

「一部は発見できたというのか?」

「そんなこと分からないわ。可能性の話よ」

「ただの悪戯電話だった、なんてオチもある……」

 話の続きをオリガが手で制した。瞳に光が増している。

 彼女の視線を追う。その視線は出入り口でホテルマンと話すスーツ姿の男性に向いていた。

「警察か?」

 声を潜める。彼女がうなずいた。

「私はここを離れるわ。ニイガタからコンテナ船でハバロフスクに向かう。次の仕事先で落ち合いましょう。大丈夫ね?」

 次の標的はブリュッセルだった。

「相変わらず慎重だな。こっちは任せろ。あれを回収してから行く」

スパシーバありがとう

 彼女は告げるより早く席を立ち、奥の化粧室に向かった。

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