第42話

「平和な国だと思っていたけれど、こんなこともあるのね」

 バスの前で足を止めたオリガが、ホテル・ミラージュを見上げた。その横顔に、虚無や絶望に似たものをセルゲイは見て取った。

「つまらないことを考えるなよ」

 そう告げて、彼女の視線を追った。四つ星ホテルといっても、その建物は平凡なデザインだった。

「この程度の建物なら、ゴルド共和国にもあったな」

「ホテルも国家も、重要なのは建物ではないのよ」

「何だというのだ?」

「そこにいて統治する人間よ」

「それで四つ星か……」

「星の数は変わるわ。ぼんやりしていたら星を減らして闇にのまれる。星なんて、少し曇っただけで幻のように消えてしまうのよ」

「フム……」

「私たちも同じ……。だから私たちには死が必要なの」

 彼女は分裂した祖国と自分の運命について話していた。

「今回の報酬も寄付してしまうのだろう? 少しは自分のために使ったらどうだ」

 彼女は暗殺で得た報酬の大半を祖国の再建と孤児の救済や教育に使っていた。

「壁を壊すには若い力が要るのよ」

「それは分かるが……」

「そんなことより嫌な予感がする。過去を懐かしんでいる場合ではない」

 オリガがバスに乗り込んでいく。

 セルゲイはその場を動かず、オリガの背中を見ていた。彼女は生死の境を生きる緊張感に支えられて生きている。以前からそう考えていた。

 彼女の姿がバスに消えると見るべきものを失い、目を建物に向けた。朝日を反射するそれが、砂漠に林立して光る巨大なアリ塚に見えた。

 あれはブラジルだったか?……それをブラジルのどこで見たのかはっきり思い出すことはできなかった。あまりにも忙しく世界を飛び回っているからだ。ただ純粋に、砂漠に光の塔が林立する神秘的な夜景に感動したのを覚えている。そこでオリガが撃ったのはマフィアのボスだった。

 巣が輝いたところで、自分も彼らもただのシロアリか。……虚しい気持ちで建物から出てくる人々に目をやった。蒼い顔をしたビジネスマン、髷を結ったフランス人、若い女性に支えられた老人……。清掃員の制服を着た女性たちは裏口の方からやってきた。光り輝く巨大なアリ塚が崩壊し、シロアリたちがざわざわと逃げ出しているようだった。

 老人と女性は、祖父と孫、いや、富豪とその愛人か……。そんな想像をしながら彼らに続いてバスに乗り込んだ。座席は半分ほど埋まっていて、並んだ乗客の顔には同じ不安が貼りついていた。知人と一緒の者はヒソヒソと何かを話し合っている。富豪と愛人も何やら言葉を交わしながら席に着いた。

 経営者然とした初老の男性が、隣の若い女性の太腿をなでていた。非常時にもかかわらず豪胆な人物だ。あるいはそうやって恐怖から目をそむけているのか? なでられる女性は、誰かを探すように外を気にしていた。恋人よりも大切な人間がいるというのか?

 彼らの二つ後ろの席にオリガがいた。彼女は狙撃に臨む直前のように落ち着いている。外部にあるものではなく、自分の中にある何かと対話しているのだ。視線が合うと、彼女は他人に対するようにそれを逸らした。その行為に意味はないとわかっていても、セルゲイは寂しいものを覚えた。それで彼女の前の席に座った。

「この壁、どこかで見たような気がするわ」

 後ろから独り言のようなオリガの声がした。窓から見える建物は光を失っていて、変哲もないコンクリートの固まりだった。祖国の国境に築かれた高い壁を連想させた。彼女も国境の壁を思い出したのだろう。その壁は、三つの民族を物理的に分断した。そうして平穏を得た者もいるが、友人が、同僚が、時には夫婦や親子が、その壁で引き裂かれた。

「だめだ」

 オリガが唸るように言った。

「そうだ。国境などいらない」

 セルゲイは低い声で応じた。国境に壁を作って平和を得たはずの異なる民族は、今でも時折いざこざを起こしている。壁も形があるものなら壊せるが、心の壁を壊すのは簡単ではない。コンクリートの壁を造ったところで、殺し合った歴史はもとより、心に巣くった恨みや憎しみは解消されないのだ。


 バスにホテルマンが乗り込んできて、爆破予告があったことや警察が捜査に入っていることを日本語と英語で説明し、急な移動を強いたことを詫びた。

 動き出したバスは五分ほどで目的地に着いた。食欲をそそらせるオレンジ色の看板を掲げたファミリーレストランだった。そこには別のホテルマンが待機していて、宿泊客を店内に誘導した。バスは、乗ってきたホテルマンを乗せたまま引き返した。

 店内では先に到着した宿泊客が食事をしていた。彼らの表情に不安は窺えなかったが、だからといって食事を楽しんでいるようでもなかった。中には、「仕事に遅れたらどうしてくれるのだ」とか、「宿泊代は払わないぞ」と、ホテルマンに文句をいう者がいた。日本語はよくわからないが、だいたいのことは見当がついた。どの世界でも、これ見よがしに不平不満を言うのは似たような連中だ。話の中身も変わらない。

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