第39話

 天音はうごめく指を押さえながら、窓の外、ホテルから出てくる人々の中に部長を探した。

「どうした。外に何かあるのか?」

 孝平が不機嫌そうに言った。天音が彼に関心を向けていないのが面白くないのに違いない。まるで子供だ、と思った。

「部長の姿がないものですから……」

「放っておけ」

「私がいないので、心配しているのでは……」

「いや……」孝平が天音の太ももを強い力でギュッと握った。「……彼は出来る男だが、まだ甘い。君の方が倍も優秀だろう。度胸もある。彼の後釜に座ることを考えてもいいのではないか? 何なら私が口添えしてやるぞ」

 私が部長の椅子に?……一瞬、気持ちが動いた。が、孝平にそれができたとしても、自分がその職責を全うできるとは思えなかった。実力主義を唱っている会社でも、実際は年功序列の風潮が濃い。若い、まして女性の自分に管理職が務まるとは思えなかった。何より怖いのは、孝平が自分を愛人にしようと、実際に動くことだ。

「お言葉、ありがとうございます。でも、私は未熟です。波野部長には、まだまだ教わらなければならないことがあります」

 それは事実だった。志戸は確実に成果を上げているし、同僚や部下に対する指示や指導も的確だった。

「年齢など関係ないだろう。彼の息子のことを知らないのか?」

 孝平が不可解なことを言い出した。

「部長のお子さんのことですか?」

「私が、彼に頼まれて就職の世話をしてやった。ところがどうだ。仕事が性に合わないと言って、半年ばかりで辞めてしまった」

 彼の話に驚いた。真面目な志戸が、陰で個人的な便宜を受けていたということに……。しかし、すぐに思い直した。自分たちは、会社の利益のためなら法律すれすれの行為を、いや、場合によっては違法行為でもいとわない。実際、発展途上国で役人に賄賂を渡すのは日常茶飯事だ。まして人脈を駆使するのは、当然のこと……。それが資本主義社会、いや、社会主義社会だって同じ、人間の社会というものだろう。部長が植松孝平という人脈を使って息子の仕事を斡旋してもらうことに問題があるだろうか?

「最近の若い者ときたら辛抱が足りない。私は顔に泥を塗られたよ」

 彼は志戸の息子に対する憤りをそう表現した。自分の名声に傷をつけられたことが面白くないらしい。

 思いがけず孝平と深い関係になってしまったが、精神的には志戸のほうがはるかに身近な存在だった。そんな彼の悪口を聞くのが嫌で、攻めに転じることにした。窓の向こう側には、ホテルから出てくる宿泊客にレンズを向ける記者がいる。彼を出汁だしにして、自分や志戸に、ひいては国民に対して尊大な孝平をやり込めようと思った。

「今回の爆弾騒ぎは、記者が仕組んだということはないでしょうか?」

 荒唐無稽な仮説だった。

 彼の名前は何だったかしら?……孝平に渡された名刺をハンドバッグから引っ張り出した。〝門司翔琉〟とあった。

「彼が私の命を狙っているというのかね?」

 孝平の思考の中心には、いつも自分がいるようだった。

「あくまでも仮説ですが、爆弾というのはフェイクではないでしょうか? たとえ嘘でも爆弾が仕掛けられたということになれば、客はこうして避難しなければなりません。そうやって著名人をホテルからいぶりだして写真を撮る。……同じエレベーターに乗っていたのは俳優の御船冨貴雄さんでしたよね? きれいな女性と一緒でした」

 名前を出した相手が後方にいるので声を潜めた。

「ああ、彼は御船といったか。顔を知っているので頭は下げたが……。にしても、私をタヌキやムジナのようにいぶりだすとは……。三文マスコミとはいえ、仁義というものがあるだろう。雑誌は何と言ったかな?」

 彼が名刺を取って目を光らせた。

「爆弾事件をでっちあげて宿泊客のプライバシーを探っているのだとしたら、由々しきことです」

「ふむ……。それ相応の責任は取らせてやる」

 彼は名刺を胸のポケットに入れた。

「でも、会長。……証拠は何もありません。逆に、私と一緒のところを写真に撮られています。くれぐれも迂闊に動きませんよう、ご注意ください」

 下手に騒ぎ立てれば、孝平は恥をかくだろう。それが良い薬になると思った。しかし、場合によっては天音自身にも類が及ぶ。……これは男性対女性でも、高齢者対若者の戦いでもない。人間対人間の戦いだ。天音は自分も火だるまになる覚悟を決めた。

「わかっている」

 彼の返事は相変わらず強気だったが、太ももの上の彼の指は動きを止めた。

 杖を突いた金髪の美女が乗り込んでくる。前方の座席も空いているのに、彼女は天音の横を通り過ぎて二つ後ろの席に掛けた。足が不自由なら、乗り降りが楽な前方に座りそうなものなのに……。そんなことを考えながら志戸を探すために外に眼をやった。

 ホテルから老人と若い女性が出てくる。老人を支えるようにして歩く女性は、やはり愛人か?……記者が彼らにレンズを向けた。それに気づいていないのか、老人たちはすました顔でバスに乗り込み、出入り口に近い席に腰を下ろした。

 直後、バスのそばで建物を見上げていた外国人が乗り込んできた。背が高く肩幅の広い、野獣のような眼差しを持った男性だった。彼が天音の後ろに座った後、冷蔵庫のモーターが動き出したような鈍い音がした。それが彼の声だということは分かったが、話は理解できなかった。その言葉は、まったく知らない言語だった。

 ――プルル……、スマホの着信音がした。志戸からだった。一瞬、頭の中の霧が晴れた気がした。

「部長、今、どちらですか?」

 背中を丸め、声を潜めた。

『すまない。急用ができて一時間ほど前にチェックアウトした。起こしてはいけないと思って連絡が遅れた』

「会社で何かあったのですか?」

 大切な孝平の接待を後回しにしなければならないほど、重大な要件とはなんだろう?

『いや、確認したいことがあって、自宅に戻ったのだ』

「え?」

 その後は言葉にならなかった。普段、家族など持っていないように仕事に邁進する部長が、家族を優先したことが信じられなかった。

『会長の御機嫌はどうだい。そろそろ朝食の時刻だろう?』

 志戸の声で我に返った。

「部長、知らないのですか? こっちは爆弾騒ぎで大変なのです」

『爆弾?』

「今、避難用のバスの中なので……。後で説明します。お宅の方は大丈夫なのですか?」

『あ、ああ……。問題は解決したよ』

 そんなやり取りをして電話は切れた。志戸が仕事より家庭を優先したことに、憤りと同時に安堵を覚えた。

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