第38話

 天音のメガネはウイスキー・ボトルの横にあった。それを取った方が可愛い、と孝平が言ったのを思い出した。男性がよく言う台詞だけれど、そんなありきたりなストーリーに乗っかって彼の機嫌を取ったことを恥じた。

「誰だった?」

 ベッドから声がする。

「爆破予告があったので、警察の捜査が入るそうです」

 詳しい説明をする前に、彼が顔色を変えた。

「私を狙っている奴がいるのか?」

「そこまではわかりません」

「役立たずが……」

 それが自分のことか、ホテルのスタッフのことかは分からなかった。ただ嫌な気持ちになった。

 孝平がスーツケースから新しい下着とシャツを取り出して身支度を整えはじめる。

天音はシャワーをあびたかった。彼のように下着も換えたい。が、緊急事態だ。昨日のものを身に着けると、顔だけさっと洗って孝平と共にスイートルームを出た。

 エレベーターの前には身体の大きな機動隊員がいて宿泊客が避難するのを見守っていた。

「私が狙われているのか?」

 孝平が詰問する。機動隊員は表情一つ変えず、今のところ何もわからないと事務的に応じた。

「どいつもこいつも……」

 彼はいら立ちを隠さずエレベーターに乗った。中には外国人夫婦と天音も知っている俳優の御船冨貴雄がいた。愛人でもあるのか艶っぽい女性が一緒だった。彼と面識があるのか、孝平は会釈したものの口はきかなかった。

 エレベーターが五階に止まると、久能久門が乗ってきた。彼は孝平を一瞥すると、ぷいっと向きを変えて壁際に立った。

 天音は久門のファンだった。彼が書いた小説はもちろん、雑誌のインタビュー記事などもすべて読んでいる。多くの場合、彼の顔写真は観葉植物に隠れていたり、帽子のつばに隠れていたりしてはっきりしないが、小さなものは全体が分かるものがあった。それらを頭の中でひとつのイメージにしていた。そして今、思い描いていた顔が目の前にあって胸が熱くなった。

 最新作の〝腐った権力者〟は良くなかった。貧者や負け犬のひがみを真面目に読まされたような気がした。とはいえ、沢山ある作品の中の失敗作のひとつにすぎないだろう。彼に対する評価は変わっていない。

 平時なら声をかけ、サインも頼みたいところだが諦めた。何分、孝平と一緒なのだ。久門に声をかけたら、そのことに触れないわけにはいかない。今は孝平を暗殺者の手から守るのが最優先事項だ。

 電子音が鳴り、エレベーターが一階に停まる。降りた宿泊客は列を作ってロビーに向かった。カッカッと反響する靴音は、ホテルの関係者に対する抗議のようだ。

 部長は避難したのだろうか?……周囲をぐるりと見まわした。それらしい姿はなかった。

「ご迷惑をかけて申し訳ありません」

 支配人でもあるのか、ルームキーを集める五十代の紳士が平身低頭していた。宿泊客たちは、そんな彼に向かって冷たい視線を投げた。彼も爆弾を仕掛けられた被害者のはずだ。天音は同情を覚えた。

 ドアマンの誘導に従って建物を出た宿泊客の多くが、通りをうめるパトロールカーや機動隊の車両の数に驚いて足を止めた。天音は振り返って建物を見上げた。

 この中で、警察車両に乗ってきた多くの警察官が爆発物を探しているのに違いない。それはあの人のためか?……視線を、先を行く孝平に戻す。彼はホテル名の入ったバスの手前で足を止め、宿泊客を誘導しているホテルマンに文句を言っていた。

「ハイヤーではないのか?」

「申し訳ありません。緊急事態ですので」

 ホテルマンの誠実そうな声がした。

「私にバスに乗れというのか。こんな車を用意する時間があるなら、ハイヤーだって用意できたはずだ。配慮が足りないのだよ。私がその気になれば、朧グループなどこの世から消し去れるのだぞ」

 脅迫めいた言葉を投げる彼から、天音は離れたかった。

 ふと眼をやった先に、ホテルから出てくる御船冨貴雄にレンズを向ける人物がいた。グレーのスーツ姿の男性だ。彼もファンなのだろうか?……そんなことを考えていると当人に声をかけられた。

「ねえ、君。勤め先は? 植松幸平会長と同伴したよね?」

 彼は、こちらがうっかり返事をしてしまいそうな人懐っこい笑みをしていた。

 同伴!……クラブのホステスが頭に浮かぶ。接待で銀座のクラブに、何度か足を運んだことがある。そこのホステスと自分が同じ人間だとは信じられなかった。まるで別次元に暮らす生物だ。

「あなたは……?」

 身分を問いかけながら、彼がマスコミの人間に違いないと思い至った。最後まで言葉にせずに、急いで孝平の側に寄った。彼はまだ、ホテルマンに文句を言っていた。

「会長、お止め下さい。写真を撮っている人が多いです。マスコミもいるようです」

 忠告すると彼も人目は気にするようで、クレームを言う口を閉じた。

 あの男性が寄ってきて名刺を出した。受け取った孝平はそれを一瞥しただけで天音によこした。

 天音は、そこに印刷された出版社は知らなかったが、雑誌名にはおぼろげながら記憶があった。美容院か喫茶店で手に取ったことがあるのかもしれない。

「今回はどんな会合ですか?」「プライベートですか? もしかしたら不倫とか?」

 彼がボイスレコーダーをマイクのようにして質問を重ねた。

「ウルサイ、ノーコメント」

 孝平はノーコメントを繰り返し、逃げるようにバスに乗り込んだ。

 記者の質問は天音に向けられたが無視した。バスに乗り込むとき、ホッとした表情のホテルマンの顔が目に留まった。

 ステップを上がり、乗客に視線を走らせた。下層階に泊まっていた部長が先に乗っているのではないか、と考えたのだが彼の姿はなかった。

「どうして私が……」

 バスに乗り込んだ後も、孝平はぶつぶつ不平を言い続けていた。天音は彼と距離を取りたくて後ろの席に座ろうとしたが、彼に腕を取られて仕方がなく隣に座った。

 二人の身体が密着する。狭い、と彼が文句を言うかと思ったが違った。彼は天音の太ももに手を置き、何かの作業でもするように指を動かした。

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