第37話

 落ち着け、早まるな。昨夜の経過も薬のことも憶測にすぎない。とにかく自分の部屋に戻ろう。まずは眼鏡だ。……天音は自分に言い聞かせて身体を起こした。

 向きを変えて足が床に着いた時だった。背後から手首をつかまれた。

「えっ……?」

 振り返ると、孝平と目が合った。その瞳は寝ぼけてなどおらず、天音の動揺を見抜いているようだった。

「慌てることはない。もう少しここにいたまえ」

 腕を引かれた。厚生省の定義ではすでに高齢者の範疇にいる彼だが、その力はとても強く、天音はベッドにひっくり返った。

「止めてください。私、こんなことをするつもりでは……」

 そこで声が詰まった。彼を怒らせて商談が壊れたら、部長に迷惑をかけることになる。

 ところが彼は、怒るどころか楽しそうに訊いてきた。

「こんなことって、どんなことだね?」

 セックスを連想する言葉を言わせたいのだろう。なんて意地の悪い男だ。サディストだ!……女性だからと軽んじられたくなかった。

「セックスです」

 はっきり言ってやる。

「危険日なので、妊娠したら……」

 そう付け加えたのは、一種、脅迫だった。就職して男性と対等にやっていこうと努めてきた。生理のことに気を使う余力などなかった。とはいえ、昨夜のことで妊娠したら責任を取ってもらわなければならない。当然の権利だ。

「昨夜もそのことは話したはずだ。お互い大人だから自己責任だと……」

「まさか……」

 自分がそんな風に話すとは思えなかったが、否定できるだけの記憶がなかった。

「酔った時のことは、忘れてしまう口なのかな?」

 彼は自信たっぷりに、意味ありげに話した。天音を、会話の内容を忘れる失礼な人間だ、とでもいうように。

「私は……」そこで口を閉じた。もし自分がそう話したのなら、たとえ酔っていたとしても、口にしたことは守りたかった。それが責任であり信用の源泉というものだ。彼の責任を追及して、これだから女は……、などと言われたくない。

「君は、約束を守る大人だ。そうだろう?」

 天音の困惑をいいことに、孝平が身体を起こして覆いかぶさってくる。

 咄嗟に両手で彼の肩を支えた。自分がしたかもしれない約束と、部長と一緒に取り組む仕事のことを思うと、強く押し返すのは躊躇われた。そうして生まれた二人の間の僅かな空間は、人格が冒されないために必要な最低限の距離だった。

「何を怖がっている?」

 彼を怒らせず、断る言葉を探した。

「いいえ。部屋に戻らないと部長が心配していると思いまして……」

「何を今更……、もう朝だ。波野君も寝ているさ」

 まだ夜だと思っていたのは遮光カーテンのせいだった。

「朝なら尚更……」

「知らないのか? 朝がいいのだよ」

 腹に硬いものが当たり、男性にも生理現象があるのを思い出した。彼が口角を上げていた。欲が具現化した妖怪のようだ。

 あなたは化け物ですか?……そんな言葉が喉をつきかけた時だった。

 ――ピロピロポン――

 来客を告げるチャイムが鳴った。

「誰か来ました……」

 天の助けとばかりに孝平の身体を強く押した。が、彼は岩のように動かなかった。

「無視すればいい」

「波野部長かもしれません」

「それなら尚更だ」

「それは私が困ります」

 ――ピロピロポン……、トントントン――

 チャイムと同時にノックの音がする。よほどの用件なのだろう。

「仕方がない。出なさい」

 彼が身体を避けた。

「私が、……ですか? ここは会長のお部屋です」

「私は裸だ」

「私も、です」

 彼の言いなりにはならない。そんな気持ちが言わせた。

 孝平が億劫そうに動く。

 彼が対応に出るのかと思いきや、床に落ちていたシャツを拾って投げてよこした。

「ほら……、新しいシステムの受注が欲しいのだろう」

 露骨な脅迫だった。

 サイテー!……人の弱みに付け込む言葉に腹がたった。が、受け入れた。プロセスは問題じゃない。すべては受注という勝利のためだ。目で、下着を探した。

 ――ピロピロポン……、三度目のチャイムに急かされた。

「早く出なさい」

 彼に肩を押された。下着を諦め、渡されたシャツを羽織る。中年男の体臭とオーデコロンの臭いがした。男物なので太ももまで隠れるのは都合が良かった。

 ――ピロピロポン……、トントントン――

 素足で走る。スイートルームは思いのほか広かった。

「はい、ただいま……」

 扉の向こうの誰かに応じ、壁の姿見で髪の乱れをなおす。眼鏡をしていないからか、映っているのが自分のようではなかった。太腿の付け根から下が露出しているのは、エロティックというより間抜けな姿だ。

 ドアチェーンがかかっていることを確認してから、身体を隠すようにしてドアを開けた。

「おはようございます。起こしてしまって申し訳ありません」

 そこにいたのはホテルの女性従業員だった。彼女が頭を下げると、背後に警察官の制服姿があって嫌な予感がした。部長の身に何かが起きたのではないか?

「実は、当ホテルに爆破予告がございまして、……大至急、避難のためにロビーに下りていただきたいのです。爆発物がどこに仕掛けられているのかわかりませんので、荷物は部屋に置いたままでお願いします」

 彼女の視線が天音の顔から素早く下がっていく。見えない身体を想像しているようだ。

「……その旨、植松様にもお伝えください。何か質問はございますか?」

 視線が顔に戻っていた。

 植松孝平の愛人と誤解されているようだ。恥ずかしさで顔が燃えた。……最悪だ!

「いいえ。すぐに下ります」

 心と裏腹、冷静な態度で応じられた。彼女の視線から逃げたくて、急いでドアを閉めた。

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