第10章 鈴木天音

第36話

 ウー、なんだか変だ。……天音は頭を抱えてうめいた。二日酔いや風邪の頭痛とは違った痛みとだるさがある。頭の天辺から腹の底まで、身体を半分に引き裂かれたような感じだ。手足の末端の感覚も鈍い。

 とはいえ生きている。……痛む頭が言った。

 懸命に瞼を持ち上げる。目に映るのは、つたが這うようなボタニカルな柄の天井、豪華な照明器具、完璧に外光を断つ遮光カーテン、ふかふかの寝具……。眼鏡をはずしているのでぼやけているのだけれど、そのくらいは分かった。

 ホテルのベッドにいる。……確信した後に、何か頼りないものを覚えた。それで自分の胸に触れ、裸だと知った。

 下腹部の表皮にはひりひりした痛みがある。けれど、そこに触れる勇気はなかった。最後にセックスをしたのは二十歳の時だった。恋人と別れる直前のことだ。男性というものに失望してから約十年、セックスとは無縁で身体がそれに慣れていない。全身の痛みはそのせいだと思った。

 昨夜、性行為に及んだ記憶はないけれど、それをしたのは間違いないだろう。まさか、部長と?……意外な驚きはあったが、不快な感情はなかった。

 ――ガッ!――

 突然、破裂音にも似た鈍い音がした。驚いて恐る恐る顔を向けると、男性の後頭部がある。音は彼のいびきだ。

 自分の目を疑った。顔は見えないけれど、白いものが混じった頭は植松孝平のものに違いなかった。

 まさか……!……慌てて目を閉じた。そうすれば、すべて無かったことになる。……そんなわけないだろう!……子供のような行動をとった自分を軽蔑した。それほど私は馬鹿じゃないはずだ。

 彼が昨夜の相手だ。……確信すると気分が悪くなった。そして妊娠の不安に襲われた。高齢だからといって、彼が種無しという保証はない。

 ――ガッ!――

 再び彼の鼻が鳴った。彼が寝返りをうち、ベッドが揺れた。

 目を開けると、目の前にシミのある孝平の横顔があった。

 どうしてこんなことになったのだろう?……昨夜のことを必死で思い返した。レストランで食事をした後、部屋で飲みなおそうと誘われた。部長の体調が悪そうだったので、孝平の機嫌を損ねないよう、自分が接待役を引き受けることに決めた。そうして孝平のスイートルームに入った。……そこまでの記憶は明瞭だった。

 頭を持ち上げる。隣の部屋に向かって衣類が、いや、隣の部屋からベッドに向かって衣類が脱ぎ散らかされていた。

 あけ放たれたドアの向こうのがリビングだ。テーブルにウイスキーのボトルとグラスが並んでいるのがぼんやり見えた。……あの酒を飲みながら、日本の未来を語り合った。いや、孝平が一方的に語った。……新たな記憶が蘇る。――重要なのは選択と集中だ――彼が気持ちよさそうに話すので、しめしめ、と思っていた。

 ――平等なんてものは建前だよ。優れた企業や君のような優秀な人間に資源を投じ、世界で戦える企業と人材を育てることが大切だ。弱い企業や意欲のない人間は、生きていられる程度に扱えばいい。いや、つぶれてもかまわない。生き残れないのは自己責任だ。その程度の奴の代わりはいくらでも補給される。……世間は日本の少子高齢化を嘆くが、東南アジアからでも中東からでも、補給する労働力に事欠くことはない。とにかく、強く優秀な人材と組織を生かすことだ。そうしなければ日本そのものがつぶれてしまう――そうした彼の意見には共感を覚えた。

 彼は、大物政治家たちの生態や無能ぶりを面白おかしく語った。――あの敗戦以来、日本の政治は三流だよ。日本の未来は、私たち経済人の肩にかかっているのだ。私たちが政治家を正しい道に導いてやらなければならない――

 彼の話は耳触りがよく、気持ちが高揚した。日頃、自分もそんな風に感じていたからだ。

 彼に合わせてアルコールの量が増えた。それを控えて彼を不快にさせたくなかった。彼が愉快になれば、自分の仕事は成功に近づく。

 予想外だったのは、彼が底抜けにアルコールに強かったことだ。吞んでいる途中で天音は音を上げた。

「会長、私の負けです。もう、これ以上は飲めません」

 敗北宣言をしたのを思い出した。すると彼が、酔い止めだといって薬をくれた。

「これで安心して飲めるだろう。そうすれば、もっと気持ち良くなるはずだ」

 そう彼が話したのは覚えているが、その後の記憶がなかった。

 もっと気持ち良くなる? 今思えば、それがセックスのことだったのかもしれない。その薬も酔い止めなどではなかったのかもしれない。……憤りを覚えたが、彼の部屋にのこのこついてきた自分の愚かさを思うと、怒りの矛先は自分に向かった。それが自己責任というものだ。

 胸に渦巻く自己嫌悪!……死にたくなった。

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