第35話

 久能久門はまだ就寝していなかったようだ。……美玖は胸をなでおろした。

 ドアを開けた久門はカジュアルなシャツとスラックス姿だった。眼が充血していた。

「何事です?」

 彼はとても落ち着いていた。美玖など眼中にないといった態度で、機動隊員を怪しむように目を細めた。ところが、機動隊員が事情を説明すると態度が一変した。

「バババ、爆弾ですか?」

 美玖にも分かるほど、彼はひどく狼狽うろたえた。恐れているというより、困惑しているようだ。それまで退避を求めた三人も驚いていたが、久門のそれは、彼等とは違った種類の反応だった。

 さっきまでの落ち着きは何だったのだろう? いや、今の動揺の原因は何だろう?……確実に言えることがあった。彼は爆破予告犯ではないということだ。驚くさまが演技だとしても、あまりにも無様だ。

「パソコンは持って行ってもいいですか? 仕事に使うので……」

 彼が部屋の奥を振り返った。その視線の先に、彼が持ち込んだデスクとパソコンがあった。

「それも置いて行っていただきたい。パソコン自体を爆弾に改造するケースがありますので」

「まさか。たった今まで使っていたものです」

 久門が訴えても機動隊員は承知しなかった。久門は足早にデスクに歩み寄り、パソコンからUSBメモリーを引き抜いた。

「これとスマホは持ち出してもいいですよね?」

 彼がUSBメモリーをつまんだ指を付き出した。

「かまいません。スマホや財布程度の小物であれば、持って行ってもらって大丈夫です」

 機動隊員は了解し、廊下で久門が部屋を出るのを待った。久門の態度を怪しんだのだろう。彼は部屋を出ていく久門の背中を見ながら訊いた。

「今の客は何者です?」

「久能久門という小説家さんです。ペンネームだと思います。あ、宿泊名簿がペンネームなのは許してください。レアケースです」

 美玖は両手を合わせた。機動隊員はにこりともしない。

「あの人が久能久門ですか……」

 彼は記憶に刻みこむように言葉にすると隣のドアに向かった。


 507号室の宿泊客は、セルゲイ・イワノフとオリガという外国人夫婦だった。タブレットに表示された顧客情報では職業が外交官となっている。外交官ならエコノミークラスのツインルームではなく、もっと上位クラスの部屋に宿泊するのではないか? そんな疑問を覚えながらチャイムを鳴らした。

 すぐに室内で人の動く気配がした。すっかり作業に慣れた機動隊員が美玖を押しのけてドアの前に立った。

 ドアを開けたのは、夫のセルゲイのほうだった。機動隊員の身体はドアをふさぐほど大きかったが、セルゲイも彼に劣らない体格をしていた。機動隊員に向けた灰色の瞳には不信の色が浮かんでいた。

What's your businessなんの用だね?」

「ワワワッツ?」

 それまで強引に仕事をこなしてきた機動隊員がはじめて動揺を見せた。半歩下がり、美玖の身体を前に押す。

 美玖は、ほんの少しだけ優越感を覚えた。爆弾が仕掛けられた可能性があるので調べさせてほしいと英語で説明すると、セルゲイは拒絶した。「NO」「NO」と繰り返し、自分は外交官だから荷物をチェックされる覚えはない、と言い張った。

 もし、セルゲイがもっと上の、たとえばスイートルームか、十五階より上のデラックスツインに宿泊していたら強く言うことはできなかっただろう。本当の外交官の可能性が高いからだ。が、外交パスポートを持っていながらエコノミークラスのツインルームに宿泊する彼らは、むしろ怪しい人物に思えた。だから美玖は粘り強く応対することができた。

「スーツケースを開けることはない。機械を使って外部から調べるだけだ、と説明してくれ」

 機動隊員が腰を折り、美玖の耳元で話した。美玖がそれを通訳し、夫婦と他の宿泊客のために協力してほしい、と懇願するとセルゲイは渋々同意した。

 時刻を気にしながらも、美玖と機動隊員はセルゲイと妻が部屋を出るまでそこに留まった。同意を装い、ドアを閉められてしまうのを警戒したのだ。

 タブレットに表示された時刻は、午前七時十二分……。本来なら、とっくに家路についている時刻だった。

 早く出て行って!……心の中でセルゲイをせかした。

 姿を見せたオリガは金髪で透き通るような肌の美女だった。三十代にしては清楚なワンピースや肩から下げた小さなポシェット、白いパンプスには少女のような清楚さがあった。半面、彼女が金属製の杖をついて不自由そうに歩くのは老婆のようだ。

 杖をついていなければファッションショーのランウェイでも拍手喝さいを浴びるだろう。そう思うのは美玖だけではなかった。機動隊員も目じりを下げ、仕事を忘れたような顔で彼女の動きを追っていた。

 オリガとすれ違う時、香水の香りに混じって僅かに腋臭わきがの臭いがした。意外だった。彼女に寄り添うようにリュックを背負ったセルゲイが続く。彼から嫌な臭いはしなかった。

「ストップ!」

 機動隊員が彼らを呼び止めた。彼はオリガの美しさに惑わされて仕事を忘れてはいなかったようだ。

「リュックは置いて行ってください」

 彼が日本語で言い、美玖が通訳した。

 セルゲイは困惑の表情で妻に眼をやった。中身は彼女のものなのだろう。オリガがうなずくと、彼は渋々リュックを降ろして機動隊員に手渡した。それを受け取った機動隊員が表情を変えた。想像したより重かったようだ。彼は室内に入り、シーツの乱れたベッドの上にそれを置いた。

 腰を不自然なまでに左右に振ってエレベーターに向かうオリガ。その細い後ろ姿が美玖の感情を揺さぶった。

Patient until9時まで 9 o'clock please辛抱ください

 オリガに向かって声をかけた。彼女は振り返り、芸術作品のような笑みを返してくれた。そんな彼女とすれちがう機動隊員が二人。彼らは携帯タイプの爆発物探知機を手にしていて、扉の開け放たれた501号室へ消えた。捜査が済んだ部屋は、扉を閉めていくことになっている。万が一、室内で爆発が起きても最小限の被害で済むように。

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