第9章 泊美玖

第32話

 ――ふぁん……、フロント奥の事務室、泊美玖とまりみくはあくびをかみ殺した。

 ホテル・ミラージュでは二十四時間、担当者がフロントに立っている。さすがに深夜は座っているけれど……。交代要員は裏の事務室にいて、お客様が複数になったら飛び出して行って対応する。

 その日は美玖と屋戸吾練やどあれんが夜の当番だった。事務所で彼女があくびをしているということは、カウンターには吾練が立っているということだ。

 美玖は鏡に顔を映した。瞼がはれぼったく顔全体にむくみを感じる。ルージュが落ちてないことにはホッとした。

「あー、夜勤はこれだから……」

 頰をさするとざらついた感覚があって、ため息がこぼれた。

「肌もあれちゃうわ」

 髪に櫛を入れながら壁のデジタル時計に目をやる。それはいくつも並んでいて、ハワイ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ロンドン、パリ……、世界中の主要都市の時刻を表示していた。日本の時刻は午前五時五十分。帰国するために空港に向かう外国人や、ゴルフ場や観光地に向かう宿泊客がチェックアウトしてもおかしくない時間帯だった。

 席を立ち、背伸びをする。終業時刻の午前七時まで時間があった。フロントをのぞいてみる。背筋の伸びた吾練の背中があった。

 十歳ほど年上の彼は母親がアニメ好きのフランス人で、背は高く髪はブラウン、瞳は澄んだブルーという魅力的な容姿をしている。これまでの人生の半分を日本で、半分をフランスで過ごしたらしい。その甲斐あってか、フランス語も英語も堪能で、大学では浮世草子を研究していたとあって、日本人以上に日本人的な思考をしていた。彼の言葉を借りれば、人間の理想はさむらいらしい。とても礼儀正しく自制的でユーモアに欠け、半面、とてもエロ好みだ。その背中に向かって声をかけた。

「交代しましょうか?」

「まだ大丈夫」

 彼が振り返らずに応じた。

 いつもなら喜んで交代するのに?……疑問を解いたのはエレベーターの方から向かってくる美女だった。エキゾチックな容貌に、豊かな胸と腰、引き締まったウエスト……。吾練は、彼女の対応をしたくて交代を拒否したのに違いない。

 美玖は、美女の豊かな胸に嫉妬を覚えながら事務室に戻った。刹那、電話のベルが鳴った。

 それは客室からの内線電話ではなかった。予約の電話は予約センターにつながるから、それも違う。

「なんだろう?」

 少し緊張して受話器を取った。

「ホテル・ミラージュ、フロントの泊でございます」

『キャクシツニ、バクダンヲ、シカケタ……』

 聞こえたのは機械で合成された、抑揚のない音声だった。

「え?」

『……バクハツジコクハ、ゴゼンクジ……。ヤメテホシケレバ、イチオクエンヨウイシロ』

 聞きなれない合成音に、日常的ではない単語。それでうまく聞き取れない。

「あのう、もう一度お願いします。あなたは……」

 問いただそうとすると、電話は切れた。

 ――ツー、ツー、ツー……――

 電子音が虚しく鳴っている。

 客室、爆弾、一億。……三つの単語だけが記憶にあった。

 爆弾? どうしよう?……どうしようもなくてフロントに駆け込んだ。吾練はエキゾチックな美女の清算の最中だった。

 チラッ、と彼女の視線が美玖に向く。あわてて笑みを作り会釈した。……こんな状況に至っても笑みが浮かぶのは、もはや職業病だ。

「また、ご利用くださいませ」

 吾練が頭を下げ、美女が背中を向けたのを確認してから吾練の隣に立った。

「屋戸さん、大変です」

 詰め寄るように言った。吾練は遠ざかる美女の尻、もしくは背中のゴルフクラブケースを目で追っている。

「大変なんです」

 彼の腕を引いた。

「シッ、声が大きい。何が大変なの?」

 美女が自動ドアの向こう側に行った。吾練は清掃員しかいないロビーを見回す。美玖に向けた顔の眉間に深いしわが浮かんでいた。

「変な電話がありました。爆弾がどうとかこうとか」

 できるだけ低い声で話した。

「バ、爆弾!」

 彼の声は、美玖のものよりずいぶん大きかった。

 屋戸さんだって大声を出すじゃない。……胸の内で文句を言った。

「どうしたらいいでしょう?」

「爆弾がどうとかって、本当なのかい?」

「本当です」

 そう応じると、彼がズンズン歩き出した。その手が美玖の腕を握っていた。

 彼に引きずられるようにして事務室に戻った。フロントを空けるのか、と思ったが言い出せないほど彼が怖い顔をしていた。

 吾練が電話機の記録装置を作動させる。ホテルには脅迫まがいのクレームもあるので音声はすべて録音されていた。

『キャクシツニ、バクダンヲ、シカケタ。バクハツジコクハ、ゴゼンクジ……。ヤメテホシケレバ、イチオクエンヨウイシロ』

 抑揚のない音声が流れた。

「これか……」

 彼は息をのむとすぐに受話器を取った。

「……良かったよ。昨日の暗殺事件対応で、宿泊部長が仮眠室にいるんだ」

 内線で仮眠室を呼び出した。彼は爆破予告があったことを要領よく説明して受話器を置いた。

「部長が来てくれる。泊さんはフロントを頼む。僕は課長と警備室に連絡を入れる」

 彼は再び受話器を取った。

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