第31話
翔琉は自分がいつ眠ったのか分からなかった。肌に触れる生暖かい息を感じて目覚めた。
佳織はまだ眠っていた。翔琉の胸にもぐりこむようにして穏やかな寝息を立てている。彼女の息遣い以外、あるのは空調システムの静かな唸りだけだった。
枕元のデジタル時計に目をやる。午前四時二十七分。二時間は寝たのか、とあやふやな計算をした。喉の渇きを覚えてベッドを抜け出す。佳織は身体を横にして両手を前に投げ出す格好になった。
冷蔵庫には大小様々な瓶や缶が並んでいた。ミネラルウオーターか、炭酸飲料か?……迷った末にウーロン茶の缶をとって飲んだ。
「……待って……」
彼女の声がした。
ベッドに眼をやる。寝言らしい。彼女はまだ眠っていた。
付き合い始めたころ、彼女はベッドに入る時も化粧をしたままだったけれど、今はスッピンだ。胸から下は毛布に隠れているが、腰と膝を曲げているのがシルエットでわかった。その形が子供のころに見た蝶の蛹に似ていると思った。彼女は鏡の前に座って初めて蝶になる。
蝶は早朝に羽化する。同じように、人眼を避けてチェックアウトする有名人がいるかもしれない。……植松孝平の自信に満ちた顔を思い浮かべてクローゼットを開けた。翔琉のグレーのスーツと彼女の紺色のスーツが夫婦のように並んでいた。
ロビーに下りた時には午前五時を回っていて、ちらほら人の姿があった。ほとんどがホテルのスタッフで一日の始まりの準備に余念がない。
ロビー全体が見渡せるソファーに腰を下ろした。そこからなら、エレベーターホールからフロント、外に並ぶタクシーまで見通すことができた。
デジタルカメラのレンズを通して画角を確認する。フロントにいるのは凛とした雰囲気のあるホテルマンだった。まるでハーフのような面立ちの彼は、試合に臨む剣士のように姿勢が良かった。ズームすると瞳が青い。日本もグローバル化の潮流から逃れられないことを実感した。
エレベーターから、ぱらりぱらりと宿泊客が吐き出されてくる。早朝からゴルフや観光に出向く者たちだ。彼らは剣士のようなホテルマンの前に立ち、チェックアウトの手続きを済ませて外へ行く。電車の駅が近いというのに、皆、タクシーに乗った。
「ん……」
翔琉のアンテナを刺激したのは、昨夜、展望レストランで植松孝平と一緒だったビジネスマンだった。
孝平の動向は経済に影響を及ぼす。経済状況そのものはゴシップ誌には無用だが、孝平の行動にはニュース価値があった。投資家や経営者、一部のビジネスマンは彼を信頼しており、一部の庶民は憎んでいるからだ。とはいえ多くの庶民は、彼が提案した政策によって自分が失業したり、非正規社員に甘んじなければならなくなったりしていることを理解していない。
ビジネスマンはスーツ姿でゴルフのキャディバッグを担いでいた。昨日は接待ゴルフで孝平をもてなしたのだろう。彼とつながっているなら、何かネタになるかもしれない。……カメラのレンズを彼に向けた。
彼は何者だろう?……カメラのズーム機能を使って、チェックアウトの手続きを終えたスーツの襟を写した。社章を付けていれば孝平との取引の一端を知ることができるかもしれない。が、相手はそんなことを百も承知しているようで、襟に社章はなかった。
声をかけてみようか。……腰を浮かしかけて動きを止めた。出入り口に向かう彼の顔に貼りついた焦り、全身にまとった切迫感がそうさせた。
彼はひどく慌てていた。普通ならロビー係に持たせるキャディバッグを自分で背負い、ガチャガチャいわせながら走るように外に出た。彼がスーツケースとキャディバッグをタクシーのトランクに積み込む様子を見ながら、レストランでの様子を思い出した。ゴルフの後ならカジュアルな服装をしていそうなものだが、その時も彼はスーツ姿だった。昨日も今日も、彼はゴルフをしなかったことになる。
何のためのキャディバッグだったのだろう?……ロビー係に預けなかったそれが無性に気になった。思い至ったのは、孝平に贈る賄賂だった。キャディバッグにはそれが入っていたのではないか?
事件だ!……頭の中で声をあげ、彼にインタビューをしようと立ち上がった。が、走り出すより早く、彼を乗せたタクシーは動き出していた。タクシー会社名と車番をメモし、彼の素性は後日、調べることにした。
腰を下ろすことなく、エレベーターに向かった。早めに朝食を済ませ、ホテルから出てくる孝平を待ち伏せようと決めていた。彼は昨夜、レストランで一緒だった女性と泊ったに違いない、と記者の勘が言うのだ。二人が同じホテルから出てくる写真を撮るだけでも十分なスクープだ。
〝経済界のドン、燃える秋の夜の密会〟……頭の中に浮かんだ写真のタイトルに心が踊り、エレベーターが到着する電子音を聞き逃した。
目の前のドアが開いたのに気づいて無造作に足を進めると、スマホを操作しながら降りてきた女性とぶつかりそうになった。スタイルの良いエキゾチックな容貌の美女だった。
翔琉は立ち止まり、見とれた。彼女は足を止め、スマホから視線を上げた。その黒い瞳が、どけ! と言っていた。
「失礼」
翔琉は慌てて二歩、右によけた。
彼女は少しだけ頭を下げると、何事もなかったように歩みだす。その肩にハーフ用のゴルフクラブケースを担ぎ、全財産が入りそうな大きなスーツケースを引いていた。
翔琉は彼女の姿を眼で追った。細身のパンツスーツが身体の線を明瞭にしていた。ウエストが引き締まっていて、尻はプリプリと肉感的だ。その背中でゴルフクラブケースが丸い尻に押し上げられて上下に揺れている。クラブとクラブがぶつかる金属音はなかった。
彼女の後姿に見惚れているとドアの閉まる電子音が鳴る。翔琉は慌ててエレベーターに乗り込んだ。
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