第30話
翔琉は433号室のドアを開けた。客室の中で最下層のそこは、グレードが一番低いダブルベッドの部屋だ。それ以外の部屋は宿泊費が高すぎて、会社の経費では使えない。
真っ直ぐベッドに向かう。そこに倒れ込む直前、「待って」と佳織が止めた。
「スーツが皺になるわ」
そうした点、彼女はしっかり者だった。
結婚したら良い妻になるだろう。……翔琉は思った。しかし、彼女と結婚するつもりなど、小指の爪ほどもない。
二人はそそくさとスーツを脱いだ。
「これでいいわ……」
彼女が二人のスーツをクローゼットに下げ、満足そうにつぶやいた。振り返ると翔琉に抱きつき、爪先立ちになって唇を求めた。二人はキスをしたままベッドに倒れ込む。
佳織は貪欲で、翔琉は献身的だった。二つの肉体は何度も重なった。
彼女の欲望が満たされた頃には日付が変わっていた。二人はたっぷり湯を満たした浴槽に備え付けの入浴剤を入れて手足を伸ばした。
「生き返るわー」
佳織の穏やかな声が浴室に反響する。向かい合って座った翔琉は、彼女の足を下腹部に乗せて足の裏のツボを押した。情報提供者が気持ちよく話してくれるよう、思いつく限りのことを何でもするのが信条だ。
「警察庁というところは、よほど殺伐としているんだな」
「ウチだけじゃないわよ。霞が関も永田町も、疑心暗鬼という鬼がたくさん住んでいるから、気持ちの休まる時がないの。そこを出ても公務員という看板を背負っている。国民の模範であり、
「それは、それは、お疲れさま。でも今どき、模範とか僕だとか、古臭いことを言うね」
「そんな使命感と自覚がなければ、政治家に顎で使われる官僚なんて、やっていられないわ。……でも、国民の模範を求められるのは、あなたの業界だって同じでしょ? それとも、ゴシップ誌は違うの?」
「まいったな」
翔琉は苦笑した。情報を得るために裸になっているのだ。とても品行方正な生き方をしているとは言い難い。
「君の言うとおり、僕の仕事は大手の新聞やテレビほど模範的な行動を求められてはいないね。正確さや正論とは少し離れた所に立っているのかもしれない。多少あやふやでも、世の中の核心に近いものを要求されているんじゃないかな?」
「不倫や離婚話が核心?」
「人は世界の裏側で起きていることも知りたいし、知る権利がある。けれど、それは知ったらそれで終わりだ。むしろ身近なところで起きるありふれた事件に一喜一憂するものさ。そうした事件を通して、やってはいけないことを知り、新しい社会規範を作り上げていく。まあ、それは建前だな。……誰かを叩き、誰かを笑う。小さな正義に乗っかって、自己肯定感を高めているうちに、政治家や官僚たちの不始末に対する怒りを忘れ、より大きな悪意の核心……、いや、事実そのものを忘れさせてしまう。そうすると世の中が治まるところに収まっていく」
「日本人は忘れっぽいから、小さな事件をたくさん並べて大きな事件を隠す。それは分かるけど。……それが私たちのため、というのはどうかしら」
彼女は見下したように言って翔琉を見つめる。
そんな視線にも、翔琉は慣れたものだった。
「そう思ってくれてもいい。官僚制度が近代社会を支えるシステムなら、メディアは近代民主主義を制御する情報システムだよ」
「制御?」
佳織が不服そうに首を傾げた。
「官僚が牽引車なら僕たちは民主主義を守るブレーキさ。危険を察知したら騒ぎ立てて政治家と官僚の暴走を阻止する」
「私たちは敵同士ということね」
彼女が突っかかってくる。それは彼女による試験だと分かっていた。そこで彼女の言うことをすんなり認めたら、試験は不合格。付き合う相手として価値のない馬鹿だと認定されるだろう。
「んー、敵じゃないんだ。正確に言うと、政治家がハンドルで官僚がエンジン……。メディアはスピードメーターといったところかな。それを見て国民がアクセルを踏んだりブレーキを踏んだりする。僕らは日本という乗り物を安全に走らせるために必要な装置なのさ」
「国民は国家を支えるタイヤだと思っていたわ」
それは彼女の職場の空気なのだろう。階級や階層といった言葉が脳裏をよぎった。
「官僚から見るとそうだろうね。なんだかんだ言って、君たちは上級国民さ」
「そう言う言い方、嫌いだわ。上級ってなによ」
彼女が笑った。
「より権力に近い者のことさ」
「権力闘争は苛烈なのよ。時間、お金、精神的ストレス、……たくさんの犠牲を伴うの。そうして得られたものだから、権力者とその周囲の人たちは、その犠牲に見合う対価を要求する」
「苛烈なのは政治家同士の問題だ。その対価を非力な国民に求めるのはどうかな?」
「止めましょう……」彼女が困惑した顔を振る。「……上とか下とか、あなたとそんな話はしたくないわ」
「悪かった」
翔琉は彼女を抱き上げた。
「ずっと、こうしていたいわ」
ベッドに戻ると、胸の中で佳織が言った。暗に、結婚を要求しているように聞こえた。彼女がそれをはっきり言わないのは、断られてプライドが傷つくのを恐れているのか、ゴシップ雑誌の記者との結婚そのものが彼女のプライドを傷つけるからか……。いずれにしても高すぎるプライドが、彼女が生きることの足かせになっている。
佳織の髪を指で
「僕も、ずっとこうしていたいよ」
本当にそうなのだろうか? 自分は、仕事のためなら誰とでも寝る男ではないか。今こうしているのも、半分は仕事で、半分は性欲だ。結婚は、ないな。……改めて自分に確認した。
そっと優しく、そっと。……自分に命じながら佳織の髪を梳く。繰り返していると、ほどなく彼女が眠りに落ちた。
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