第8章 門司翔琉

第29話

 テレビ、ラジオ、インターネット……、報道は、国家公安委員長の狙撃事件一色に染まっていた。

 殺されるにはそれだけの理由がある。それが国家的陰謀だとしても、痴話喧嘩だとしても……。それをスクープできれば売り上げも知名度も上がるのは間違いない。小さな出版社でゴシップ雑誌に関わる門司翔琉もじかけるは、常に周囲の情報に目を光らせていた。

 彼は高身長にイケメンというルックスと、昼夜を問わず身を粉にしてつくす献身的な姿勢で女性に愛され、その愛情を利用して情報を巧みに聞き出す記者だった。

 その日は、日頃から情報元として関係を築き上げてきた警察庁の官僚、桑原佳織くわばらかおりをデートに誘っていた。ショートカットで銀縁眼鏡、濃紺のスーツ、……三十代後半という年齢を除けば、彼女は就活中の大学生のようだった。色気らしい色気はないが、そんなことは翔琉にとって何の問題もなかった。

 二人は展望レストラン、シャンパーニュのアベックシートに座っていた。目の前の窓ガラスには黄金色の反射光が列を作っており、その下に恋人同士のように並ぶ二人の姿が映っている。

 翔琉はそこに居る自分を正視することができなかった。ドンファンを気取ったところで頭の中心には照れがある。彼女の横顔や真っ白な指、あるいは薄まったハイボールのグラスに眼をやって、自分の姿が視界に入るのを避けた。佳織も同じなのかもしれない。翔琉ばかりを見つめていた。

 食事を済ませた二人は、恋人たちが愛をささやくように身体を寄せた。

「阿鼻委員長だけど、自宅とはいえ警備はついていたんだろう? 治安組織のトップなんだから」

 素朴な疑問をぶつけると、佳織は眼鏡のフレームに軽く触れた。

「もちろんよ」

「それなのに、まだ犯人が特定できないのかい?」

「委員長は二階の書斎にいたのよ。警備は門の外側にいて銃声さえ聞いていない」

「警備の警察官が目視できない場所から撃たれたということだね?」

「そうね。狙撃地点の目星はついているのだけれど、証拠が見つからなくてあやふやな状態なの。今はその周辺の防犯カメラをあたって、狙撃地点と犯人を特定しようとしているところよ」

「弾丸から、銃は特定できるんだろう?」

「私には細かいことは分からないのよ。ただ、弾丸はありふれた口径のライフル弾らしいわ」

「ふーん。使われたのはライフル銃なんだな」

 翔琉はグラスに着いた水滴をそぎ落とすように親指で拭いた。

「ふーん、じゃないわよ。それより、私から聞いたなんて誰にも言わないでよ」

「大丈夫だよ。そのために人目につかないホテルまで来てもらったんだ。秘密は守るよ」

 警備がついていたことやライフル銃で狙撃された程度のことは察しがついていた。それを恩着せがましく言われても、と胸の内で苦笑した。おそらく彼女からは有益な情報は得られないだろう。そもそも、彼女は国民が知りたい情報を持っていない。そんな風に考えると気分が楽になり、わざわざ都外に足を運んでくれた彼女を女性として見ることができた。

 最近、翔琉は度々ホテル・ミラージュに足を運んでいた。大物俳優の御船冨貴雄みふねふきおがここで人妻と逢瀬を重ねているという情報を得ていたからだ。富貴雄は隣の町に住んでいるのだが、不倫相手の主婦はわざわざ東京から足を運んでくるらしい。佳織のように……。

「内閣情報調査室も動いているんだろうね?」

 念のために訊いた。彼女の白い手をなでると、すべすべした肌の感触に感情が高ぶった。早く二人きりになって抱きしめたいと思う。

「ごめんなさい。動いているのは間違いないけど、詳細はわからないのよ。内調はガードもかたいし内閣府直轄で伝手がないの」

「国際テロ組織による暗殺という線は消えていないんだね?」

「もちろんよ。公安部は、そのつもりで動いているわ。でも私は、その可能性は低いと思う。阿鼻委員長は、政治家としては、それほど大物ではないもの。実際、あの人が亡くなっても政府は落ち着いたものよ。警察庁の運営方針が変わることもないと思う。もちろん、公安調査庁もね」

 彼女は冷徹そうな容姿に似合わず、肉体の感じやすい女性だった。声が上ずっていた。

「公安調査庁というと、法務省の機関だな」

 翔琉は頭の中のリストから、政治的なテロや宗教的なテロの項目を消した。その時、窓ガラスに映った人影に眼が止まった。

「ん?」

 思わず振り返る。男性二人、女性一人の三人組がレストランを出て行くところだった。

「どうかしたの?」

 佳織が翔琉の視線を追った。

「あの男……」

「あら、植松孝平ね」

「こんなところで悪だくみか……」

「相変わらず政府に寄生して儲けているようね。新しいデータベース構想にも食指を伸ばしているらしいわ」

「寄生虫の一種は宿主の行動をコントロールできるそうだよ。僕は、彼と政府は一体だと思う」

「持ちつ持たれつね。ああいうのを政商というのかしら……」

「僕らの納めた税金が、みんな持っていかれるわけだ」

「大げさね」

 彼女がフッと小さく笑って姿勢を戻す。あんな男より、自分の方を見ろと言っているようだ。

「そんなことないさ」

 翔琉も黒い窓ガラスに顔を向け、そこに映る彼女に目をやった。いつもより美しく見えた。半開きの唇を小さな舌でなめる様子は肉食獣のようだ。

「成長のとまった日本には、あの人たちに仕事を回す余裕などないのよ」

「それでも仕事は増えているよ。介護にIT、AI、自然エネルギー。……これから必要になる仕事は山ほどある。その代わりに社会保証であれインフラの整備であれ、切り捨てられるところは切り捨てるだろう。場合によっては必要な部分さえ切り捨てられる」

「教育とかね」

「ああ、それを尻目に、彼らは自分たちに都合のいい仕事を作り出し、言い値で売るのさ」

「馬鹿な政治家は、彼らの手のひらの上で踊らされているのよ」

「そんなことはないさ。政治家にとっても、そうした変化が新たな利権を生み出すことになるからね。古い利権と新しい利権、古い世代と新しい世代……。政治家の中でも世代間闘争が始まるだろう。もしかしたら阿鼻委員長は、そうしたことが原因で命を奪われたんじゃないのかな?」

 そう自分で言いながら、そんなことがあるはずがない、と心の内で否定した。

「大胆な仮説ね。……もう止めましょう。お酒がまずくなるわ」

 佳織が翔琉の手を取って人差し指を唇に含んだ。その指に舌がまとわりつく。何度も何度も執拗に……。

 ――チュポ……、指が解放された瞬間、彼女の唇が鳴った。小さなはずの音が、とても大きく聞こえた。

 彼女に顔を寄せ、軟体動物のような耳にキスをする。

「もうダメ……」

 彼女はブルっと震えた。

「行こう」

 ささやくと彼女が立った。肩に腕を回すと体重を預けてくる。

「お姫さま、まだ早いよ。ここはレストランだ」

「イジワル」

 官僚がオンナの眼をしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る