第28話

 エレベーターを待つ時、孝平が天音に声をかけた。部屋で飲み直そうというのだ。

 天音は抵抗を示さなかったが、志戸は彼の下心を察して眉をひそめた。たとえプライベートとはいえ、彼女ひとりをやるべきではないだろう。

 自分も彼女と一緒に彼の部屋を訪ねよう。嫉妬ではない。それが上司としての、いや、良識ある大人の判断だ。

「それでは私も……」

 話しかけたところでエレベーターが着いた。

「波野君は飲みすぎたようだから、部屋でゆっくり休むといい」

 孝平に機先を制された。「あ、いえ……」言葉を探しているうちに、彼がエレベーターに乗り込み、自分と志戸の客室階のボタンを押した。

 志戸は諦めた。十五階で二人が降りるのを見送り、今日は何度諦めただろう、と天を仰いだ。低い天井があった。

 自分の部屋に戻るとソファーに身体を投げ出す。これから天音たちが何をするのか想像すると、腹が焼けるように痛んだ。

「プライベートだ……」

 声にしても痛みが消えることはなかった。

「植松の奴……」

 恨み言のような声が漏れた。いつか彼を見返したいと思うが、そういう時期が来ることがないのも分かってもいた。

 ネクタイを取り、上着を脱いで放り投げる。テレビはどのチャンネルも阿鼻委員長狙撃事件を報じていた。ふと、孝平が狙われるかもしれないということを思いだした。彼の居所を知られてはいけない。

「仕方がない……」

 スマホを取って妻に電話を掛ける。彼女の口から孝平の居所が漏れることを案じていた。彼に対する感情は最悪だったが、万が一にも妻の口から居所が漏れて彼が死ぬようなことになっては後味が悪い。何よりもシステム開発の受注に支障があってはいけない。

『ダンのこと、頼んでもらえました?』

 開口一番、彼女が言った。その図々しさに腹が立った。口止めなど、彼女には効果がないことにも気づいた。

「いや。植松さんとは会わなかった。接待はキャンセルだ」

『え……?』

「ニュースでやっているだろう。国家公安委員長が狙撃された事件。植松さんはその人と親しかったらしい。そっちへ行ったよ」

 我ながらうまい噓が言えたと思った。

『そうですか……、残念だわ。それなのに……』そこで彼女の声の調子が変わった。『……どうしてあなたは帰ってこないの?』

「え……」

 墓穴を掘ったことに気づいた。

「……あ、いや。明日、ゴルフはやっていく。予約してあるのに、もったいないだろう」

 何とか乗り切った。……小さな安堵が胸を降りていく。翌日は早々に帰るつもりだったが、気持ちを変えていた。

『……そうですか』

 彼女の声が沈んだ。

「ダンはどうしてる?」

 ダンの話題を引っ張り出したのは妻の気持ちを和らげるためだった。彼の存在は夫婦共通の難題だが、彼女にとっては無限の愛情の対象だ。

『さっき、帰ってきましたよ』

「帰った?……外出できたのか?」

 酔った頭の中で驚きと喜びが錯綜する。

『それは、たまには……。なんだか嬉しそうでした。世の中が変わるかもしれないって』

「まさか……」

 ダンがライフル銃を構える。そんな姿が脳裏を過った。……クレー射撃は金のかかるスポーツだから競技人口がすくない。そんな世界なら良い成績を上げて自信もつくし、経歴に箔がつくかもしれない。富裕層との人脈もできるだろう。そう考えて志戸が勧めたのだ。今考えれば、とんだ親バカだった。不安で頭がいっぱいになった。

「……ダンは手ぶらだったか?」

『なんです?……ギターケースを持っていましたけど……』

「ギター?」

 息子がギターを弾いていたことさえ知らなかった。

『あなた、どうかしたの? おかしいわよ』

「明日、私が帰るまでダンを部屋から出すな」

 そう指示して電話を切った。ギターケースの中身が、正真正銘ギターであることを祈った。

 ――アハハハハ――

 笑い声に意識を奪われる。テレビのバラエティー番組でダンと年頃の似た芸人たちが笑っていた。世の中は平穏無事で、狙撃事件などなかったように……。

 今頃、ダンも孝平も笑っているような気がする。

「くそ……」

 いら立ってテレビの電源を落とした。

 どうして……。その言葉が頭の中でぐるぐる踊った。〝どうして……〟の先にどんな言葉が続くのか、考えても納得のいくものを見つけることができなかった。

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