第27話

 志戸の思索を天音の声が断ち切った。

「私たちと会長は利害が一致するから、裏切らないとお考えですね?」

「もし私が撃たれるようなことがあるなら、それは君たちが積極的に情報をもらした場合だよ」

 うなずいた孝平が、冷たい視線を志戸に向けて口角を上げた。

 志戸は脅迫されたと感じた。今度ばかりは反発を覚えたが、顔は気持ちに反して笑っていた。

「私たちが植松さんを売るはずないではありませんか」

金蔓かねづるだからだろう?」

 彼が皮肉めいた笑みをつくる。

「いやですよ、植松会長。信用してください」

「そうしよう。信じる者は救われるというからな」

 孝平は真顔だった。その表情に彼の不安を見た。彼のような人物でも、いや、彼のような男だからこそ、命が惜しいのだろう。健康にもかかわらず、撃ち殺されるなど人生の効率が悪すぎる。

 ヴィアンド肉料理が運ばれてくると、孝平がワイングラスを掲げた。

「これは命の水だ。三人の生命と成功に乾杯」

 心にもないことを。……胸の内で応じながら、志戸もワインをあおった。

 命が狙われているならそうすべきではなかったが、孝平は杯を重ねた。志戸はそれに付き合った。食事が終わるころには、したたかに酔っていた。

「日本の警察は優秀だ。まして銃の少ない社会でそれを使ったのだから、今回の事件には注目が集まる。逮捕は時間の問題だろう。一週間もあれば、私は自由になれる」

 顔を赤くした孝平が天音の瞳を見つめて手を握った。それを、志戸は黙って見ていた。たとえ重要な取引相手とはいえ、部下をセクハラ被害から守るのも務めのひとつだが、それができなかった。天音がどんな反応を示すのか、見てみたかった。

 孝平は左手で彼女の手を握り、右手で手の甲をそっと撫でていた。その右手が彼女の肩まで上っていくかもしれない。志戸はそんな想像をしていた。

 天音の瞳は揺れていた。時折、志戸に向くそれは、助けを求めているようにも、志戸を試しているようにも見えた。

「植松会長。酔いすぎではありませんか?」

 彼女の赤い唇が言った。

「秘書を置いてきたのでね。仕事を手伝ってくれる者がいない。どうだね、君。アルバイトをしないか?」

 孝平は彼女だけを見ていた。彼にとって志戸は空気も同じだった。

 天音の目が志戸に向くと、孝平のそれも志戸に向いた。

「波野君、彼女のプライベートに口をはさむつもりはないだろう?」

 彼によって、志戸の透明度が増した。

「もちろんです」

 無力な自分に対する失望と煮えたぎるような嫉妬が胸の中で渦巻いていた。

 デセールデザートのバニラアイスクリームが運ばれてくると、孝平が天音の白い手を解放した。二人は何事もなかったようにそれを口に運んだが、志戸は手を付けることができなかった。

「部長、アイスクリームはお嫌いでしたか?」

 天音に訊かれても返事ができず、首を振ってそれに代えた。アイスクリームが嫌いなわけではなかった。むしろ酔った時には好んで食べた。ただ、その時は手を伸ばすことができなかった。

「いいや……」

 彼女が忘れたころにつぶやき、それがとけて形を失うのを見ていた。

 アイスクリームがミルク色の液体に変わる。まるで自分が生まれる前の姿に戻ったようだ。突然、吐き気を覚えた。

「失礼」

 そう言い残し、慌てて化粧室に駆け込んだ。

 ――ゲェー……――

 トイレで吐いた。音とともに、食べたばかりのものが便器を埋める。様々なものが一緒くたに混じったそれは、自分の内臓の一部のようだった。

 脳内の悪意も、それらの中にあるだろうか? それらが全部、体内から排出されたらいい。

 酸っぱい臭いが鼻につく。それを消したくて水を流した。便器の中が清浄な色に代わると同時に再び吐いた。今度は胃液だけだった。便器の中が半透明のレモン色に変わった。

「部長、大丈夫ですか?」

 天音の声だった。酔いすぎて幻聴を聞いたのだと思った。男子トイレに彼女が入るはずがない。

 背中を優しい手が上下した。そうして初めて、彼女がそこにいることを実感した。自分がこの世に存在することも……。

 嬉しさで叫びたかったが、上司としての立場がそうさせなかった。慌てて水を流した。

「すまない。大丈夫だよ……」

 レモン色の液体が透明に変わっていた。

 なんとか立ち上がると化粧台に移動し、蛇口からほとばしる流水で口をすすぎ、顔を洗った。

「植松さんを待たせてはいけないよ」

 ハンカチで顔を拭きながら、洗面化粧台の鏡に映る彼女に向かって話した。そうできたのは、彼女が自分を案じて来てくれた、そうした安堵からだった。

「会長が様子を見てくるようにとおっしゃったのです」

 その返事には少しへこんだ。彼女は心底自分を思って来てくれたのではなかったらしい。

「そうか……」

 続く言葉が見つからない。諦めて、化粧室を出た。

 孝平はテーブルにいて誰かと携帯電話で話していた。狙撃事件の経過を確認しているようだった。

「まだ狙撃地点さえ特定できていないそうだ。日本の警察は何をやっている」

 電話を切った彼は、志戸の体調のことなど歯牙にもかけなかった。

「警察も狙撃の捜査など不慣れでしょうから」

 志戸は警察を擁護した。

「グローバル化の時代なのだ。サイバー攻撃はもちろん、銃犯罪程度のことを想定していなければ困る」

 彼は不機嫌そうに言って席を立った。

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