第26話

 先に来ていた天音が店側との打ち合わせを完璧に済ませていた。料理だけではない。当初、窓際にセッティングされていた席を、奥まった壁際に代えさせていた。狙撃から孝平を守るためだ。周囲に高いビルはないので無用な配慮だが、志戸は彼女の処置を評価した。現実には無意味な配慮も、孝平にとっては立派な精神安定剤になるだろう。

 ほどなく姿を見せた孝平は、意外とくつろいだ顔をしていた。テーブルが窓から遠いことにも安堵しているように見えた。

「阿鼻委員長の事件、官房長官が会見を開いていましたね」

 そうした話が挨拶になった。

「まったく、物騒な世の中だよ」

 そう言いながら孝平が座った。

「それにしても、どうして阿鼻委員長は撃たれたのでしょう? ネットでは政治的なテロだとか、例の宗教団体を裏切ったことに対する報復だとか、IR関連で甘い汁を吸ったからといった推理が大半ですが……」

 天音が訊きにくいことをさらりと言葉にした。そうした図太さは彼女の長所だ。

「後釜を狙っている奴が殺した。そう言っても信じないだろうね?」

 孝平が真顔で応え、彼女がうなずいた。

「今回のシステム開発の件、関係があるのでしょうか?」

「どうしてそう思う?」

 孝平が興味を持ったようだ。身を乗り出すようにして彼女の顔を見つめた。

「植松会長が、ご自身も狙われるかもしれないとおっしゃったからです」

「なるほど、面白い推理だ。確かに今回のシステムは、長期的に見れば数百億規模のものだ。阿鼻君がその中心にいる人物なら君の推理は当たっていることになるだろう」

 シャンパンを手にしたボーイが来たので、彼は言葉を切って口元に笑みを浮かべた。

 グラスにシャンパンが注がれる。孝平はグラスを手にすると、「阿鼻君をいたんで」と言って献杯の仕草をした。志戸と天音は無言でグラスを掲げた。

 グラスに口をつけた後、「もし……」と孝平が話しはじめる。

「今回の暗殺事件とシステム開発の件が関連しているのなら……。波野君、君の命も狙われるかもしれない」

「エッ……」

 志戸は息をのんだ。自分が狙われるなど、少しも考えていなかった。

「私の推理は外れているのですね」

 天音が微笑んだ。

「ほう、どうしてそう思う?」

「もし、波野部長が狙われるような事案なら、植松会長はここにいらっしゃらなかったと思います」

「なるほど正解だ」

 彼が満足そうに口角を上げた。

 ボーイがアミュズ・ブーシエ突き出しオードヴル前菜と順に料理を運んでくる。ポタージュスープはくすんだピンク色をしていた。

「これだけは私の好みで注文させていただきました」

 天音が二人の男性に向かって微笑んだ。

「なんだね?」

 孝平が笑みを返した。

「レバーのスープです。私、貧血気味なものですから」

「なるほど。鉄分を取ることは大切だ。健康な肉体を作るためには、ね。しかし、私のような中年男には栄養が過ぎるかもしれない。今晩は眠れなくなりそうだ」

 彼が上唇をなめる。普段は上品な顔が下卑た妖怪に見えた。

 志戸と孝平の商談は、ポワソン魚料理が運ばれる前に済んだ。そもそもふたりの利害は一致している。交渉を重ねるまでもなかった。

「秘書がいなくて、不便ではありませんか?」

 志戸は気になっていたことを訊いた。孝平は女性秘書を愛人のように連れ歩いていたからだ。

「それはそうだが、隠れようと思ったら一人の方がいい。危機感のない者は外部と連絡を取るだろうからな」

「秘書の彼女でも、ですか?」

 四人で会う時、天音が秘書の話し相手をしていた。女同士であり、年齢も近いということもあったが、志戸と孝平が商談に集中できるようにするための配慮に違いなかった。天音はそうしたことができる部下だ。

「残念だが、彼女が誰かに寝返っていない保証はない」

 孝平が真顔で言う。

「まさか!」

 天音が目を丸くした。

「人はね、金を積まれたら他人など簡単に売るものだよ。まして売るのが情報なら、人を売るより簡単だ。罪悪感が少なくて済む。いや、そんなもの露ほども感じないかもしれない」

 彼は天音に向かって話していたが、志戸は自分に釘を刺しているのだと理解した。

「それなら、私たちに滞在場所を教えたのは危険ではありませんか? 私たちだって大金を積まれたら……」

 天音が言葉のキャッチボールを楽しむように朗らかに話した。

「確率の問題だよ」

「確率、……ですか?」

「殺し屋から見れば、秘書が私の居所を知っている確率は100%だ。そんな相手には金を使う価値がある。が、君たちが知っている確率は限りなくゼロに近い。それ以前に、殺し屋が私と君たちの関係を知っている確率が高くない。家族や秘書、我社の役員、政治家、官僚。そうした連中にあたっても手掛かりがない場合に限って、君たちの名前が殺し屋の脳裏に浮かぶだろう。……誰しも偏見を持っているからね。私が隠れるなら、身近な者を頼ると考える。それが常識という偏見だ。殺し屋が普通の人間なら、商談の途中で隠れ家を要求するなど考えないだろう。しかし、君たちにとって私は金のなる木だ。必ず私を守ってくれる。そう信じているよ」

 なるほど。……彼の意見が腹にすとんと落ちた。どうやら植松孝平という人間の判断基準は、徹頭徹尾、利害と効率らしい。……新自由主義経済の旗の下、運輸、通信、教育、水道といった分野で国や地方自治体が行っている事業の市場開放、及び、規制の撤廃と民営化が進められている。教育や医療、健康福祉といった分野に至るまで聖域はなく、受益者負担が求められる。事業の善悪の判定基準は、利益と効率、……それが、孝平が掲げる新自由主義だ。自分自身の安全も、その延長線上にあるらしい。

 元々新自由主義は、国家財政を健全化し、経済成長を促進しようという経済政策が母体だった。しかし、結果はどうだ。一時は様々な分野で政府の事業が見直されて関連団体や職員の削減が進んだものの、外注の仕事は増えて政府予算は増加した。

 もっとも、だからこそ志戸の商社の仕事は増えた。そうした現実があるから、志戸は様々な面において孝平の考え方を支持しており、彼が身内や秘書を頼らないという理屈ものみこめた。

 しかし、と思う。孝平は暗殺者が自分と違った伝統的な思考の持ち主だと決めてかかって安心している。もし暗殺者が新自由主義的な思考の持ち主なら、孝平の策は空振りに終わるかもしれない。それはとりもなおさず、今、彼と一緒にいる自分の責任が増したということだ。

 そんな思いをして、彼を守らなければならないのだろうか? その責任に見合う、見返りはあるのか? 今のところリスクしかないが。……考えると、ワインの量が増えた。

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