第25話
「……とにかく、ダンのことは帰ってから話そう」
電話を切り、孝平の元に走った。向き合った彼の顔には緊張が張り付いていて、顔色も優れないと感じた。少しばかり待たされ、怒っているのだろうか?……そんなはずはない、と彼の性格から推測した。
「植松さん、どこか具合でも悪いのですか?」
尋ねた後に、いつも同行している秘書がいないのに気づいた。体調が悪いのなら尚更、秘書を連れていないのはおかしい。
「身体の方は何でもないよ。しかし、明日のゴルフはキャンセルだ。一週間ほどこのホテルに宿泊したいが、いいかね?」
彼はいつものようにわがままを言った。
彼と妻の姿が重なる。胸の奥で黒いものが渦巻いた。
「どういうことですか?」
ゴルフのキャンセルは構わない。しかし彼は、延長するホテルの滞在費も志戸の会社で負担しろと示唆しているのだ。一週間となれば百万単位の費用がいる。会社への申請の都合上、理由を聞かないわけにはいかなかった。
「実は……」
孝平は声を潜めて驚くべきことを語った。その日の昼頃、国家公安委員長が暗殺されたと。
「……彼を委員長に推したのは私だからな。それでというわけではないが、私も狙われているかもしれない」
「心当たりがあるのですね」
「いや、そういうわけでは……」
彼の顔を一瞬、困惑が過った。
「……君が心配することではないよ」
「そうですか……」
友人が相手なら、話してくれないとは水くさい……、と言うところだが、二人の間にあるのは金銭的つながりだけだ。深入りして孝平が気持ちを翻し、システムの受注に影響が生じることを案じた。
「ここに宿泊するより、警察に保護を要請したほうが良いのではありませんか?」
「国家公安員会といえば警察庁の上の組織だよ。そこのトップが暗殺されるくらいだ。警察内部に暗殺者と通じている者がいるかもしれない。居所は警察にも知られないほうがいい」
警察内部に裏切り者がいることを知っているような口調だった。
志戸は、そんなはずはないだろう、と思いながらも口にはしなかった。孝平が自分の言葉だけを信じる人間だからだ。
「では、ホテルの方は我が社で押さえましょう。一週間でよいのですね?」
「ああ、それ以上では私の仕事に支障が出るからね」
午後七時にレストランで会う約束をすると、荷物を運ぶホテルのスタッフに重厚感のあるルームキーを渡してエレベーターの前で見送った。それからホテル側と交渉し、一泊の予定だったスイートルームを七日間おさえた。
「厄介なことになりましたね」
エレベーターの中で天音がいう。二人以外に客はいなかったが、周囲を気遣うような抑えた声だった。
「ホテルマンの様子がおかしいと思ったが、大きな事件があったからだろうな」
「まだニュースにはなっていないようです」
彼女がネットニュースを見ていた。細いうなじに志戸の喉が鳴った。彼女の細い体を抱きしめたい。そう頭の芯で志戸の中の誰かが言った。彼女が部下になって三年になるが、それまで彼女を女性として見たことはなかった。
どうしてこんな時に……。志戸は自分の感情の変化に戸惑い目を閉じた。刹那、エレベーターが停まった。
「どうぞ……」
彼女に促され、慌ててエレベーターを降りた。二人の部屋は隣り合ったシングルルームで、孝平が泊まる十五階のスイートルームとは階が違う。
「それじゃ、食事に遅れないように……」
急いでドアを開け、彼女に自分の感情が悟られないよう、素早く部屋に滑り込んだ。
「はい、早めに行って、準備をしておきます」
彼女の声を背中で聞いた。
テレビのスイッチを入れると、ちょうど官房長官の緊急記者会見が始まるところだった。目の大きな官房長官が一礼して原稿を読む。
『……本日正午、阿鼻委員長が自宅で狙撃されました。救急搬送されましたが、医師の診断では即死だったということです……』
官房長官は、阿鼻の職歴を長々と並べたが、肝心の事件に関する情報はなかった。記者たちの質問にも営為捜査中と応えるだけで、孝平から聞いた以上の情報が得られることはなかった。
最上階の展望レストランへは約束の五分前に入った。二方向が一面窓ガラスのそこは、昼間なら
あるはずの満天の星空は、室内の照明の反射に負けて見えない。そうした事情もあって、テーブルの半分ほどは埋まっていたが、外に関心を向ける客はなかった。日本人は料理をせわしなく胃袋に流し込み、外国人はおしゃべりとワインを楽しんでいる。
彼らの中に孝平の命を狙う者がいるだろうか?……そんなことを考えながらぐるりと席を見回し、天音を見つけた。
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