第7章 波野志戸
第24話
商社マンの
現在、志戸が取り組んでいるのは、政府の巨大な情報管理システムの開発とサーバーの保守管理業務の受注だった。国内だけで完結する仕事ならIT会社の会長を務め、政府と太いパイプを持つ植松孝平が甘い汁を独り占めしてしまうところだが、新しいシステムはハードもソフトも巨大な上に、安価な保守管理を実現する必要がある。それにはインドのIT企業の協力が必要で、商社の付け入る余地があった。
元々官僚だった孝平は時の総理大臣の信任を得て秘書官を務め、人事制度を改革、新自由主義経済の方針採用を促して権力を手にした。その後、総理の交代と同時に退官、法に触れないように三年の空白期間を作ってIT企業に天下りした。当初は常務取締役で、今は代表取締役会長を務めている。今でも政府諮問機関の一員であり、経済や人事といった分野では影響力を持っている。
志戸は孝平と組んで政府や地方自治体の仕事を受注することが多かった。そのための接待は当然のこと、彼個人に対するキックバックも必要だったが、彼の口利きで得られる利益に比べれば、わずかな費用といえた。
「部長、植松会長は遅れているようですね」
同行している部下の
「確かに時間を守る植松さんらしくないな。それより……」
「何か?」
天音が小首を傾げた。
志戸は、孝平が遅れていることより、ホテルマンらの態度が気になっていた。ホテル・ミラージュは接待ゴルフのたびに利用している居心地の良いホテルだ。ところが今日に限って言えば、フロント係はもちろん、吹き抜けの二階からロビーを見下ろす警備員の視線が鋭く、監視されているようで落ち着かない。不快感さえ覚えた。
この居心地の悪さはなんだ?……警備員に目を向けると、相手は視線を逸らした。
貧乏人が嫉妬しているのだ。……不躾な視線をそう解釈した時、懐でスマホが振動した。妻からの電話だった。
『植松さんと会うのでしょ?』
「ああ、そうだが……」
志戸は声を潜めて席を立ち、柱の陰に移動した。妻とのやり取りなど部下には聞かれたくない。
『ダンのことを植松さんに頼んでみてよ』
ダンは志戸の一人息子だ。強くなってほしくて、子供のころに憧れたマンガのヒーローと同じ名前を付けた。学校は富裕層が通う私立に通わせ、大学では金のかかるクレー射撃をさせた。それもこれも富裕層のコミュニティーに入ることが、人格形成と仲間作りに役立つと考えてのことだ。
しかし実際は、志戸の思う通りにはならなかった。
昨年、ダンは、孝平の口利きで政府機関の関連団体に就職したのだが、天下り官僚たちに顎で使われるのが面白くないと言ってさっさと辞めてしまった。それからは自室に引きこもっている。
「無理を言うなよ。植松さんの口利きで就職したのに半年足らずで辞めたのだぞ。どの面下げて再就職を頼むというんだ」
引きこもるダンの気持ちはもとより、彼の就職先を斡旋してもらえと言う妻の気持ちも理解できない。
『ダンのためよ』
「本人が働きたいと言っているのか?」
志戸自身は息子と、もう三カ月も言葉を交わしていなかった。引きこもった当初はあれこれと声をかけてみたが、ろくな返事がなくて諦めてしまった。今では、息子がどんな顔で、どんな声をしていたのか、それさえ思い出せない。
血肉を分けた息子がどうなってもいいと思っているわけではない。自分が死んだあと、引きこもっていても困らないだけの財産を残してやるつもりだ。そのためにも、いや、だからこそ尚更、孝平との関係を悪くするわけにはいかなかった。
『そういうわけじゃないけど……』
彼女は何を根拠に要求してきたのだ。腹が立った。
――チッ――
思わず舌が鳴った。
『あなた、心配じゃないの?』
その声は志戸を責めていた。黙って聞いていたら、彼女が自分の感情を処理するために不平不満を並べるのが分かっている。
「まさか、心配しないはずがないだろう。このまま引きこもりを続けられたら……。そう毎日のように考えているさ。私だって親なのだ。息子の将来を思わないわけがないだろう」
また同じ話をしている。そう考えると、怒りが増幅した。それでなくても、息子が人生の敗者になったという事実に、プライドが傷ついている。勝ち組であり続けるために、自分がどれだけ多くの楽しみや喜びを犠牲にし、勉強や仕事に心血を注いできたか……。それさえせずに息子は引きこもっている。……諦めの向こう側に放置してきた感情に向き合わなければならなかった。
『だったら植松さんに頼んでよ……』
ヒステリックな電話の音声に理性的な声が重なる。「部長……」天音の呼ぶ声だ。孝平が到着したのだろう。近づいた彼女が手を挙げていた。すぐに行く、と身振りで伝えた。
『あなた、聞いてる? ちゃんと探したら、あの子に合う職場があるはずよ。植松さんに、それを訊いてよ』
彼女が、息子は悪くない。世の中が、ひいては父親が悪い、と言っているように聞こえた。
「働く意思のないものを働かせられるわけがないだろう……」
声がいら立っているのが、自分でも分かった。小さく深呼吸をしてそれを抑えた。
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