第18話
「十夢ちゃん、どうしたの?」
晶子が目を丸くした。真理は、彼を間近で見るのが初めてだった。
「おばちゃん、その呼び方は止めてくださいよ。おばちゃんはこれから仕事ですよね?」
苦笑を隠した十夢は答えを求めず、真理に顔を向けた。
「清掃中、不審な動きをするお客様はいませんでしたか?」
「そうそう、今そのことを話していたのよ。何かあったのかい?」
晶子が身を乗り出した。
「あ、いえ。それは話せないのですが……。あったのですね?」
彼は、迫る晶子から身を守るように胸元で両手のひらを広げた。
「何か盗まれたのかい?」
晶子が食い下がる。そうしたクレームは稀にあることだ。
「いいえ。ホテル内で起きた事件ではないのです。それより、今、深刻そうに話していたのは?……なんでもいいので教えてください」
彼は回答を避けて促した。
「909の嫌味な奴に、雨宮さんがセクハラを受けたんだよ」
「セクハラ、ですか……」
彼の声が沈んだ。
「なんだい、残念そうだね。女にとっては大変なことなんだよ」
「すみません。909号室というと……」
「違うんです」
真理は慌てて口をはさんだ。
「セクハラを受けたのは816号室です……」
それ以上、自分の口から話すのは恥ずかしかった。
「816というと
晶子が呆れたような声を上げる。
おばちゃんにも経験があるのか?……驚いて晶子の顔に目をやった。
「もう、驚くんじゃないよ。私だって女なんだから。あの先生は、女なら誰にでも声をかけるのよ。裸を描かせろ、って……。モデルを雇ったらいいのに、素人を描きたいんだって」
そうなのか。……六十代の彼女と同じに扱われたと知って、自尊心がチクチク痛んだ。
「鏡水先生には困ったものだな」
「でも大丈夫だよ。逃げるから図に乗るんだ。こっちから攻めればいいのよ。股間をこう……」
彼女が右手で何かを握る仕草をする。真理と十夢は目を丸くした。
「……ギュ、と握ってやるの。そうしたら向こうが逃げちゃうからね」
彼女が声を上げて笑うと、十夢が制した。
「おばちゃん。そんなことしたのかい? やめてくださいよ。ホテルの評判が下がります」
「鏡水先生から苦情が行ったのかい? 行ってないだろう? 言えるはずがないんだよ」
困惑する十夢にむかって、彼女が口を尖らせた。
「確かに苦情はきていませんよ。どちらかといえば鏡水先生がロビーでナンパするといった苦情が来ている」
「先生、八十歳ぐらいだろう? 日本画界の巨匠か何か知らないけど、十夢ちゃんが追い出しなさいよ」
晶子が息子にでも言うように話した。
「そうはいきませんよ。三十年以上のお得意様です。先生の紹介で泊まりに来られる方も多い」
「結局、金なのね……」晶子がフンと鼻を鳴らす。「……それでどうするの? 宿泊客が客室係にセクハラしたんだ。犯罪だよ」
「私から注意しておきますよ。それで許してもらえるかな、雨宮さん?」
十夢の視線は、否と言うのを許さないものだった。真理にしても、晶子と話しているうちに心の痛みは和らいだし、オーナーに受けた恩を想うと事件にしたくなかった。
「……はい。私は構いません。お任せします」
「とはいえ、先生の部屋の清掃担当はおばちゃんに代わってもらった方がいいですね」
彼が晶子に目を向けると「私かい!」と彼女が声を上げた。まるで漫才の掛け合いのようだった。
「では、さっそく水鏡先生に話してきましょう。あの方が自分のしたことを忘れないうちにね。おばちゃんも無茶はやめてくださいよ」
彼はそう言って部屋を出て行った。入れ替わりに三人の清掃係が入ってきた。十夢がいたので入るのを遠慮していたらしい。彼女らに晶子がパンケーキを配りだしたのをきっかけに、真理はその場を離れた。
勤務時間は午後四時までだった。時刻が来ると急いでホテルを出た。社員寮のミラージュハイツは、ホテルの北側に広がる緑地を挟んだ場所にあって、徒歩で三分ほどだった。三階建ての建物に住んでいるのは、半分ほどがホテルの従業員で、残りはホテルとは関係のない大学生や会社員だ。
自宅に帰ると譲治がベッドでぼんやりいていた。設備係の勤務は三交代制で一週間ごとに勤務時間帯が変わる。その変わり目に彼は、しばしば体調を崩していた。
「大丈夫?」
そう声をかけたものの、いつものことだから心配はしていない。
「ああ、ただの時差ボケだよ」
彼は首を振り、薄く笑った。
「佐藤さんにパンケーキをいただいたの。コーヒーを淹れるから、顔を洗ってくださいね」
「うん」
彼がよろよろと立ち上がる。電機メーカーに勤めていた時にはニューヨーク支店に配属された経験もある優秀な技術者だった。接待でハンティングまでこなすスポーツマンでもあった。今は、そのなごりはまったくない。
真理はリビングの窓を全開にした。肌に絡みつくような湿っぽい空気が外に流れていく。カーテンが激しくなびいた。窓は南向きだけれど、その部屋に日がさすのは黄昏時だけだ。目の前に岩山のようなホテルがそびえ建っているからだ。長い西日が室内に線を引いた。
ケトルをガステーブルにかけ、コーヒーカップと皿を用意した。ソファーに掛けて一息つくと浴室から漏れるシャワーの音に気づいた。五年前の雨の夜の記憶が蘇る。その日、夫が逮捕された。
「あんなことがなければ……」
自然と声が漏れる。……今頃はあの広いマンションで、子供を育てていたかもしれない。何不自由ない暮らしを想像するだけで胸が苦しくなった。
夫が警察官に暴力をふるったなどと信じていないけれど、法的な結果は出ていた。真実を明らかにしようにも、それを覆す証拠も力も、夫婦は持ち合わせていなかった。「運が悪かったのだ」そんなふうに、何度も自分を慰めてきた。
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