第17話
「あ、話に夢中になって、すっかり忘れていた。これ、お食べよ」
晶子がトートバッグから取り出した紙袋を差し出した。
他人に食べ物をやるのが彼女の好意の表現方法だ。見方をかえれば餌付けで、義理の押し売りだ。それを受け取る以上、彼女の味方にならなければならない。そうしたことは気持ちの負担になるので避けたかった。でも、受け取らなかったら受け取らなかったで、彼女が露骨に不快な顔を作るとわかっている。真理は紙袋を受け取った。
「ありがとうございます」
甘い臭いに誘われて袋の中を覗くと小ぶりのパンケーキだった。
「美味しそう。帰ったら、夫といただきますね」
「でしょう。……旦那さん、設備部にいるのよね。話したことはないけど、いい人みたいだね。文才もあるし……」
彼女は腰を上げ、壁に貼ってある労働組合新聞の前に立った。そこには真理の夫、
「これ、これ。……一つの怪物が世界をうろついている。新自由主義の怪物が。古い世界のすべての権力が、この怪物の貪欲な力の前に屈している。……そうして放置された労働分配率の低下は、もはや見えない暴力の域に達している」
彼女は、そこで読むのをやめた。
「……新自由主義とか労働分配率とか、意味はよくわからないけど、すごいわね」
「あ、違うんです。夫が考えて書いているわけじゃなくて……」
上手く説明できないので言葉を濁した。その文章の出だしは〝共産党宣言〟の冒頭の一節を譲治がアレンジしたものだった。マルクスとエンゲルスの書いたそれが労働運動を支えてきたといえる。労働組合の新聞に掲載するということで、夫はそれを利用したらしい。
文章の一部が〝共産党宣言〟をモチーフにしたものだと気づく読者はひとりもいないだろう、と夫は笑っていた。彼の推測では、労働組合の幹部でさえ〝共産党宣言〟を読んだことがないらしい。それどころか社会主義や共産主義といったものを理解しておらず、むしろ嫌悪しているということだった。
どちらかといえば真理も夫に笑われる側にいた。新自由主義も社会主義も共産主義も理解していない。それでも生活に困ることはないから学ぶつもりもなかった。自分が理解していない夫の言葉を、晶子に伝えられるはずがない。たとえ聞いたままを話しても、うまく伝わることはなくて、変な女だと思われるだけだろう。
「夫婦でここに勤めるなんて珍しいね」
彼女が何かを探るように言った。
「色々あって……。夫が失業した時、オーナーに拾ってもらったのです。それですごく感謝しています。夫なんか、オーナーを神様みたいに言うんですよ。それで、そのコラムを書いたときも、オーナーに申しわけない、なんて言っていました」
大げさな表現を使ったけれど、それは事実だった。五年ほど前、ある事件があって譲治は勤めていた電機メーカーを解雇された。〝解雇〟という事実は重かった。再就職は難しく、家賃も払えずマンションから退去を迫られた。その時、夫は死ぬつもりでいたらしい。公園のベンチでその方法を考えていた時、観光庁を訪ねた帰りの朧グループの経営者、
そうした経緯があって、真理も来栖には心底感謝している。欲を言えば、あと少し給料が高いと良いのだけれど……。収入に余裕があったら子供もつくれたのに、と思う。そうした願いはアラフォーに突入した時に捨てたところだった。
「色々?」
晶子の瞳が一瞬、光った。
真理は思わず目を伏せた。
「聞かないでおくわ。でも、気をつけなさいよ。来栖君、あ、オーナーだけど、あの人があなたたちを助けたのには理由があるはずだからね」
そう話す彼女の鼻の頭に皴ができた。
「佐藤さんは、どうしてそんなことがわかるのですか?」
「来栖君とは高校の同級生なのよ。彼、男子にも女子にも人気があったけど、友達をゲームセンターやカラオケに連れて行って、……今でいうスクールカーストのトップにい続けたんだから。まあ、三代続く朧グループのボンボンだからできたことだけど。……友達にお金を貸して奴隷のように扱っていたのよ」
「佐藤さんも……?」
「私は要領がいいからね。あの人の思うようにはならないわよ……」
彼女が冷笑を浮かべ、話題を変えた。
「……そう言えば、何かあったの? 警備の連中が奥に隠れて忙しそうにしていたわよ」
「さあ……」
朝、仕事に来てからのことを思い返して見た。印象にあるのは909号室で馬鹿にされたことと、816号室の画家に服を脱がされそうになったことだ。それは自分にとっては大事件だけれど、警備部門が問題にするとは思えなかった。報告もしていないし、自分だって晶子と話しているあいだに忘れかけていたほどだ。
――トントントン――
ノックがして二人の会話が途切れた。開いたドアから姿を見せたのは大空十夢だった。
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