第5章 雨宮真理
第16話
雨宮真理は清掃係用の休憩室に飛び込んだ。無人だった。
崩れるようにベンチに座り、ブラウスのボタンを改めて直した。
――ハァ――
深刻な吐息をついた。恐怖と嫌悪を吐き出すと、ついさっき経験した事実が映像のように思い出されて目尻が濡れた。ホテル・ミラージュで清掃の仕事を始めてから四年、今日のような経験をしたことはなかった。両手を胸に当てて破裂しそうな心臓の鼓動を抑えた。
「何かあったのかい?」
「えっ」
目尻の涙を拭いて顔を上げた。
ドアの前に立っていたのは、ホテルのスタッフに〝おばちゃん〟と呼ばれているベテランパートタイマー、
「……」どう応じていいのかわからず、頭を左右に振った。
「セクハラでもされたのかい?」
彼女はそう言うと、真理の正面に座った。
「あ……、いえ、ちょっと……」
「図星だね。雨宮さんは若いから大変よね。私なんて誰にも相手にされないけど……。あ、707号室の忍者かな? それとも810号室の保安官?」
彼女の言う忍者は日本刀や手裏剣、鎖鎌、時にはモデルガンを磨いているフランス人で、金髪を織田信長のような
「ねえ、そうでしょ?」
念を押され、真理は慌てて首を左右に振った。
「なら、あの909号室の人かしら。成金の嫌味な奴」
「909……、ああ、
真理は未来の四角い顔を思い出した。自分と同年代の彼は、大学時代に設立した会社を上場させると、その株を高値で売って億万長者になった。それからはホテルに住み、セレブのような暮らしをしている。その日もベッドのシーツを換えに訪ねると声をかけられた。「どうしてこんな仕事をしているんだ?」と……。最初はシーツを換えるなと言われたのかと思った。
「君なら、もっと楽に稼げる仕事があるだろう」
「そうでしょうか?」
誘われているのかと思い、あえて冷たく応じた。
「仕事は選ぶものだよ。やがてそれはカビのように染みついて人格の一部になるからな」
誘われているのではなかった。軽蔑されているのだ。彼は、他人に気を使うようなサービス業や這いつくばるように働く肉体労働者、低賃金で働く様々な職種の者たちは、みんな人格が劣っていると考えているようだった。
「あの人、お金持ちで賢いわよね。話は白黒はっきりしていて分かりやすいし、毎年本も出してる」
成金の嫌味な奴と言いながら、晶子は彼を高く評価していた。
「上からものを言われているようで、私はちょっと……」
嫌いだ、とはっきり言うことができない。そんな話し方をしてはいけない、と子供のころ躾けられた。
「そうそう、そんな話し方をするわね……」晶子が大きくうなずく。「……一億円預けたら倍に増やしてやるというから、十万を倍にしてくれと頼んだのよ。そうしたら、小銭じゃ勝負にならないってさ」
彼女はクスクス笑った。
「そういえば、金は金に稼がせるんだって言っていましたね。きっと、あの人が稼ぐというのは投資のことなんですね」
「そうそう。お金を動かすのに必要な時間は一億も一円も一緒だから、十万ぽっちのために時間を使うのは無駄だって。……はなから私の金を増やそうなんて考えていなかったと思うのよ。十万だって金は金だと文句を言ったら、出資法違反になるから、って逃げちゃったね。いつか刺されるわよ。あいつ」
彼女が顔をくしゃくしゃにして笑った。
「まあ、怖い。ホテルの中で刺されなきゃいいですね」
「本当だよ。以前、製薬会社の合併話をしている場面に出くわしてね」
「金子さんが、ですか?」
「合併話はテレビニュースよ。909号室に掃除に入った時、あいつは吸収する側に投資しているらしくって、これで七十億の儲けだなんて笑っているのよ。どうしてそんなに儲かるのかって訊いたら、吸収した会社の販路と特許、研究所だけを残して、社員はクビにするらしいのね。社員がかわいそうって言ったら、あいつ、なんて言ったと思う?」
尋ねられても、真理には何も思い浮かばなかった。
「さあ?」
「こちらが勝てば向こうが負ける。向こうが勝てば、こちらは一文無しだ。おばちゃんはどっちを選ぶ、なんて訊くのよ。自分が勝つ方を選ぶとしか答えられないじゃない。そうしたらあいつ、笑ったのよ。勝ち誇ったように。……この世界はいつでもそんな状況にあるんだって。それでも向こうの人間が可愛そうだなんて言っていられるのかって説教されちゃった」
真理は未来の話より、晶子が宿泊客といろいろ話していることの方に驚いた。
「しまいには、チップをやるから腰を揉め、なんて言うのよ。こっちが揉んでもらいたいよ」
彼女がふくれて見せる。怒っているのではなかった。
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