第15話
マグカップを持つ手が止まった。眼にしているのは、午前九時にリュックを背負って外出する体格のいい外国人だった。彼の視線は人を刺す刃物のようで、暗殺者のイメージとぴったり重なっていた。
マグカップを置いて映像を戻す。リストとパスポートの写しをめくった。彼がチェックインしたのは昨日で部屋は507号室、パスポートは外交官用のものだった。
「セルゲイ・イワノフ、四十一歳。……ロシア系か? プロレスラーみたいだな……」
映像を動かす。目つきはともかく、改めて確認したセルゲイの態度は紳士的だった。身振り手振りも穏やかで、同伴する妻を気遣っているように見えた。しかし、彼の振る舞いが紳士的であればあるほど、虎夫にはそれが演技に思えた。パスポートが本物か、職業が事実かどうかさえ、怪しい。
妻のオリガは三十八歳だったが、雑誌に載っているような金髪の美女で、実際の年齢よりずっと若く可愛らしく見えた。映画ならスパイは美女を同伴しているものだ。彼女の美貌がセルゲイの怪しさを補強した。映画と異なるのは、彼女は足が悪く金属製の杖を突いていることだった。歩くたびに右の腰が不自然に傾くのが痛々しい。
「先輩、これ……」
悠一に声をかけ、怪しいと思うポイントを並べた。彼がロシア系の外国人であること、外交官というのが海外から銃を持ち込むための隠れ蓑に違いないということ、彼の容姿容貌が外交官というよりスパイのそれに見えることなどだ。
「外交官だからスパイだというのか? 映画の見過ぎだぞ。それにロシア系の名前だからという偏見も正した方がいい。暗殺のために外交官用のパスポートを発行したら、ばれた時に外交問題になる。冷戦のころならともかく、今時、そんなことはしないと思うぞ」
悠一が説教でもするように言うので面白くなかった。つい膨れると、彼が言葉を足した。
「暗殺に足の悪い女房を連れてくることもないだろう。なにかと足手まといになる。おそらくあの夫婦は食事に行ったのさ。今や日本食は海外でも人気だからな」
彼の理屈には説得力があった。虎夫は、セルゲイと妻のオリガをリストから消した。
直後、東南アジアの国費留学生が映った。春から432号室に居を構え、地元の国立大学に通っている青年だ。国費留学生が四つ星ホテルに住み込む贅沢をするだろうか?……納得できなかった。しかし、外国人に対する偏見だ、と悠一に笑われそうで名簿から名前を消した。
816号室に一年も滞在している老芸術家は、しばしばロビーに姿を見せた。ソファーに掛けて新聞を読むふりをしながら、いつも周囲に注意を向けている。彼が求めているのは若い女性だった。八十代の彼にとって、ロビーを横切る女性の大半が若い女性だ。彼は、時間を持て余している女性をみつけては話しかけていた。絵のモデルになって欲しいとでも言っているのだろう。音声が記録されていないのが残念だった。
虎夫は、色ボケジジイ! と胸の内で毒づいたが、芸術には老いても花のような女性を追い回す衝動が必要なのではないか、と考える程度の知力はあった。
老芸術家が、目鼻立ちの整ったエキゾチックな美女に声をかける。ロビーが見渡せるカフェの近くだった。美女には謎めいた暗い影がある。そこに魅かれた。
「オレ、好きかも……」
衝動が声になった。リストによれば、彼女はブッシュ・カレン、二十九歳で職業は会社員。五日前から635号室に連泊していた。
外国人だと思ったが違っていた。パスポートのコピーはなく、現住所も東京だった。日本国籍を取得したのか、あるいは、ブッシュという男性と結婚した日本人かもしれなかった。
彼女の手元をアップにする。結婚指輪は見えなかった。チェックイン時の映像では、ハーフ用のゴルフクラブケースを背負っていて、そこにライフル銃を隠している可能性は考えられた。
それにしても……、と疑問に思う。普通の会社員がホテル・ミラージュに長く滞在するのは贅沢なことだ。新婚旅行などの特別なイベントならともかく、ひとり旅ではありえない。会社員というのは噓で、別な高収入の仕事をしているのだろう。プロゴルファーはよく連泊しているが、それならフルサイズのキャディバッグを持っているはずだ。それ以外の高収入の仕事となると……。
思い浮かんだのは風俗業だった。彼女がそうした職場で働く姿を想像すると下半身が疼いた。
いや!……、彼女はこのホテル内で密かに仕事をしているのかもしれない、と推理した。それなら、ホテルの品格を下げることになる。
好奇心もあって彼女の行動を調べた。毎日午前九時から十時の間に外出し、午後四時前後に戻っている。少なくとも外で夜の仕事をしているのではないらしい。
やっぱり、自分の部屋に客を連れ込んでいるのか?……胸が熱くなった。6階の通路に設置された防犯カメラの映像を早送りでチェックする。夜、彼女を訪ねてくる人影はない。彼女が他の客の部屋を訪ねる様子もなかった。何故かホッとした。
ということは?……彼女がスナイパーで、暗殺のための準備に出かけている可能性を考えた。彼女なら阿鼻を殺すことができるかもしれない!
しかし、外出時にゴルフクラブケースを持っていくことは一度もなかった。狙撃事件があったその日も、荷物は小さな手提げ鞄ひとつだった。
カレンちゃんにライフル銃は似合わない。それにホテルで客を取っているのなら、あの老人を拒むこともないだろう。……虎夫は、リストから彼女の氏名を消した。
午後六時に交代要員が加わり、二時間後にはリストの宿泊者の行動をチェックし終えた。その頃には阿鼻委員長が狙撃された事件が公になっていて、テレビでは特集が組まれ、SNS上は犯人捜しで盛り上がっていた。そこで語られるのは、真犯人の動機だ。誰がスナイパーを雇ったのか、ということだ。
「クソッ、犯人がいなかった」
虎夫は残念な思いを素直に口にした。
「容疑者はいたじゃないか」
悠一が氏名に丸印のついたリストをひらひら振っている。眼が笑っていた。
「あー、経営コンサルタントッすね。怪しいことは怪しいけど、容疑者と呼べるほどの確証はないッすよ」
「トラ刑事の勘というやつだからな」
「スナイパー、ウチには泊まっていなかったのかなー」
防犯カメラ映像のチェックに莫大なエネルギーを消費したのだ。スナイパーが宿泊していてほしかった。
「そういうことさ。経営コンサルタントはライフルらしき物を持っていなかったし、夜中の怪しい行動だって、俺たちが経営コンサルタントという仕事を知らないだけかもしれない。このリストを提出したら、お客様に迷惑が及ぶかもしれない。消すぞ」
悠一がリストを持ち上げてひらひらさせた。
虎夫には彼の判断を否定するだけの根拠も自信もない。首を縦に振った。
「日本には何百、何千と宿泊施設がある。そんな中から名前も顔もわからない犯人を捜すなんて、幻を捜すようなものさ」
彼がリストから鏑木誠司の氏名を削除する。名簿は全て横線で埋まった。
「先輩は、最初から見つからないと思っていたッすね?」
「まあな」
「それならそうと、先に言ってほしいッす。無駄な時間を使ったじゃないッすかぁ」
「日本人は使った時間で仕事量を図る癖があるからな。それなりの時間、やったふりをする必要があるのさ。それがうまく生きていくコツだ。ホテル側だって、同じことを警察にして見せているのさ」
虎夫は絶句した。どっと疲労を覚えた。そうして机に突っ伏すと、あっという間に眠りに落ちた。
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