第19話
パンケーキをオーブンレンジで温めたる。メイプルシロップはないので蜂蜜をかけた。バターもないのでマーガリンで代用した。
ケトルから水蒸気の立ち上る音を聞いて腰を上げた。以前は専業主婦で、豆を挽いてコーヒーを淹れていたけれど、夫が電機メーカーを辞めてからはインスタントだ。二人分の給料を足しても、メーカーに勤めていたころより収入が少ないからだ。贅沢はできない。
茶色の粒子が湯の渦にのまれて溶けていく。その様子になぜか胸騒ぎを覚えた。何か嫌なものに巻き込まれているようだ。
真理と譲治がコーヒーとパンケーキを味わっていると、テレビが臨時ニュースを報じた。国家公安委員会の阿鼻委員長が撃たれて命を落としたというものだった。
「この国で政治テロが起きるとはなぁ」
譲治がパンケーキをくわえてモグモグ言った。
「テロなんですか?……それで警備の人たちがピリピリしていたのね」
真理は、晶子から聞いたことや十夢が休憩室に訪ねてきたことを話した。老画家のセクハラのことは話さなかった。
「へぇ、そんなことがあったのか。まさか、ウチのホテルにそのスナイパーが泊まっているんじゃないだろうな?」
「そこまではわからないけど」
「宿泊部長は説明してくれなかったのかい?」
「ええ、こんな事件があったことも話してなかったわ。不審な客はいなかったか、と訊かれただけよ」
「物騒な世の中になったな」
「世の中のほとんどの人が、自分のことしか考えていないからよ。あなたも不運だったわ」
真理は素直な気持ちを言った。
「僕のことも、今日の事件も個人主義が原因だと?」
譲治の顔が曇る。真理は彼の疑問の穴を埋める言葉を探した。
「それと貧乏ね。昔の人も衣食足りて礼節を知ると言っていたでしょ。現代人は豊かなようで、実際はそうじゃない。未来を夢見る余裕もないのよ」
「昔の人は、貧しくても夢を持っていたよ。もしかしたら、貧しい人ほど大望を抱いていたかもしれない」
「世界征服とか?」
話が難しくなりそうなので冗談を言った。が、譲治は話題を変えてくれなかった。真面目過ぎるのが彼の欠点だ。
「そんな人がいたかどうか知らないけど、江戸時代末期、倒幕に走っていたのは下級武士だ。そこにあったのは金銭欲や名誉欲じゃなくて、日本を西欧列強の国々から守りたい、外国に負けない立派な国を築きたいという願望や使命感だったんじゃないかな」
「あのころも暗殺が多かったのよね?」
真理は、仕方がないと思いながら話に付き合った。そうしないと、彼が拗ねてしまうことがある。
「そうだね。
彼は名前をあげながら記憶をたどるように指を折った。
「……僕が知っているだけでもこれだけ暗殺されている。無名な人が殺された事件や
彼が並べる名前の多さに呆れながら、右であれ左であれ、暗殺されたのは社会の両サイドにいた人たちで、自分のようにぼんやり生きている人間は標的にさえならないだろうと考えた。
「使命感ねぇ……」
そうしたものを真理は感じたことがなかった。
「発展途上国の人々を助けるために出て行く医者やボランティア、国内だって貧困問題やジェンダー問題に取り組む人たちは、使命感に突き動かされているんじゃないのかな?」
「私も子供を持ったら、立派に育てたいという使命感が生まれるかしら?」
それは貧困やジェンダー問題に比べれば小さなものだけれど、現実的な問題だった。
「すまないね。僕に甲斐性がないから……」
夫の顔が陰っていた。とても気まずい。
「あ、そう言うことじゃないのよ」
「いや、いいんだ。事実だから。……それじゃ、支度をするよ。今日は十九時から仕事だ」
譲治が立ちかけた時にチャイムが鳴った。五年前、あの逮捕から人間嫌いになった彼の動きが止まる。一方、真理はその音に救われた気がした。
「誰かしら?」
極力明るい声を作って立つと、逃げるように玄関に向かった。
ドアを開けるとスーツ姿の男性が二人立っていた。彼らが新聞の勧誘員や保険のセールスマンでないことは一目でわかった。彼らは警察手帳を示し、一人が言った。
「雨宮譲治さんは御在宅でしょうか?」
「あ、はい……」
また仕事を失ってしまう。……直感がそう言った。
「国家公安委員長が撃たれた事件のことでしょうか?」
背後で譲治の声がして振り返る。彼の顔が強ばっていた。
彼は、刑事の返事を待たずに話した。
「その時間帯なら、私はここで寝ていました。今日は夜の勤務なので……。それより、私には国家公安委員長を殺害する動機もなければ、銃も持っていません」
彼が一気に話すと刑事が苦笑した。
「事件のことをよく御存じですな。アメリカでは狩猟の経験もあるとか……。調べはついているのです」
「鴨を撃っただけです。スポーツですよ」
「鴨でも鹿でも……」
刑事がそこで言葉をのみ込んだ。人間でも、と言おうとしたのだろう。
「……獲物がなんでも同じことです。詳しいことは署の方で伺いますよ」
「これから仕事なのです。話は、仕事が終わってからにしてもらえますか」
譲治が背を向けると、その腕を刑事が握った。
「今回は、殺人事件なのですよ。場合によっては、日本がひっくり返るかもしれない」
刑事は真理に向いて「ご主人をしばらく借りますよ」と告げた。
「心配するな。僕は何もやっていない」
夫の声が閉まるドアの隙間から聞こえた。
腕を取られて連れ去られる夫を、真理はただ呆然と見送った。ドアが閉まって三人の姿が消えると、その場の空気が固化したように感じた。その重みで一歩も動くことができず、息をするのも苦しかった。
へなへなとその場で座り込んだのは、しばらくしてからのことだった。「心配するな……」という夫の声が頭を過る。が、それで心配や不安が消えることはなかった。五年前、原発反対運動のデモに参加した彼は、やっていないという公務執行妨害の容疑で五日間も拘留され、結果、仕事も住まいも信用も、何もかも失った。今回はデモによるトラブルどころではない。殺人の、場合によってはテロの容疑なのだ。
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