第5話

 ――自惚れるな!――

 編集者の声に交じって、かつて務めていた商社の同僚の声が流れていく。

 ――自分ばかり目立とうとしやがって――

 ――俺たちは先輩だぞ――

 ――お前は協調性に欠けるな――

 役員の指名で経営戦略のプロジェクトリーダーを務めた時、浴びせられた言葉の数々だった。

 言葉だけなら良かったが、プロジェクトのメンバーは年長者ばかり。経営企画室の室長が社長の娘婿だったこともあり、彼らは室長の顔色を窺い、ことあるごとに、あからさまなサボタージュに出た。

 そうしてほぼ単独で働いた一年、ついに心を病んだ。そして死のうと試みた。その時は、この世に未練はなかった。


 首に掛けたロープを切ったのは妻、華恋かれんだった。今でも首に食い込んだロープの感覚は忘れていない。ギュッと締まったそれから受けた感情は、恐怖や安堵ではなく、ふわふわと頼りのない孤独だった。

 妻の涙の説得をうけて会社を辞め、彼女の実家に転がり込んだ。泣かないことでミズ・クリスタルと呼ばれた妻なのだ。その涙ながらの要求を無視することはできなかった。

 あれから三年ほど経ったが、今でも会社を思い出すだけで、動悸がして息苦しくなる。当時は毎日のように吐いたのだから、ずいぶんマシになったが、プロジェクトに関わる前の自分に戻ったわけではなかった。

 安全な場所に落ち着いたとはいえ、妻とその両親に寄生するような暮らしはとても居心地が悪い。

 お前は何者だ?……頭の中で別の自分が責めるように問いかける。

 こんなところで何をしている?……じわり、と腹の奥底から酸っぱいものが込み上げてくる。

 あいつが、……久能久門くのうくもんが来る。

 だめだ、来るな。来るな!

 ――スー、ハー、スー、ハー……――

 意識的に呼吸し、書棚に目をやって過去の記憶から自分を遠ざける。

 壁一面を占める書籍に、商社マン時代のものはない。それらは全て捨てた。今並んでいるのは、会社を辞めてから手に入れたものばかりだ。歴史や文学の書籍は、剛史が生きていようが死んでいようが構わないといった様子をしている。

 それでいい、敵でなければ。……理性が慰める。

 書棚の一冊に目が行く。目に留まるように表紙を見せて置いてあるだけが、剛史がこの世に存在することを認めてくれている。受賞作が載った〝文学世界〟だった。

「僕は作家だ……」

 言外で商社マンを否定し、自分を勇気づける。〝運命のミラージュ〟を歴史に残して、僕はこの世を去るのだ。それが妻に対する恩返しだ。自分がこの世に生を受けた意味だ。

 立ち上がり、本棚から一冊の本を取った。〝ゴルド紛争史〟と日本語で記されている。それから、思い立って棚の上から古い地球儀を取った。

 椅子に掛け、地球儀をクルクル回す。洗濯機が汚れを落とすように、記憶から同僚たちの言葉がはがれていった。呼吸が楽になった。

 ピタっと指を押し付けて地球儀の回転を止める。まるで神にでもなったように。

 指のある場所はユーラシア大陸の西側、今はチトラオーガ民主共和国とゴルド共和国のある場所だけれど、どちらの国名もなかった。この地球儀が作られたころ、それらの国は巨大な連邦の一部だったのだ。ゴルド自治州と呼ばれていた。

 ゴルド自治州、……そこのどかでミラージュは産まれた。分かっているのは、ミラージュはゴルドの敵だということだった。

〝ゴルド紛争史〟はとても薄い本だ。著者は郷土史家のような無名の老人だった。なので、その中身にどれだけの信憑性があるのか、定かではない。ただ、翻訳したのは近代史を専門とする大学教授だから、一定程度、信頼していいものだと思っている。


 ゴルド自治州は、連邦の崩壊とともに独立した。ゴルド共和国として。……そこでは農業を生業とするチトラ族が大半の平地を所有し、山岳部は林業と狩猟を生業とする少数民族のオーガ族が支配していた。平地と山岳部の中間地帯は、貿易や観光業を得意とするゴルド族が生活基盤としていた。彼らの人口はチトラ族より少なかったが、オーガ族と合わせると過半数を超える。政治的な駆け引きに優れたゴルド族は、オーガ族を取り込んで常に大統領を輩出、国家運営の主導権を握っていた。

 政治の実権を握るゴルド族は、平地に空港や工場を造り、山岳部の河川にダムや発電所を造った。それらの利権はゴルド族にあって、チトラ族は耕作地を減らして貧しくなった。貿易が盛んになると安価な麦やトウモロコシの輸入が増えて、チトラ族はさらに貧しくなり、耕作地を手放す者が増えた。彼らは町に出て、ゴルド族の工場で働いた。

 そうした状況につけ入り、大国のひとつがチトラの族長に接近した。武器を売りつけるためだ。

 ――こつこつ土地ばかりを耕しているから、口先の上手いゴルド族に支配されるのだ――大国の政治家はチトラ族の有力者たちにささやいた。

 ――武器を提供する。革命を起こし、農業国家の繁栄を取り戻すべきだ――大国の武器商人は、そう説いたのだろう。

 それらは剛史の想像だ。いずれにしても大国による説得と政治工作が功を奏し、チトラ族は農地の奪還と緑の国家建設を目標に掲げて革命軍を編成、武装蜂起した。

 革命軍に対してゴルド政府は、自由主義と民主主義の堅守を掲げて反撃に出た。彼らは小さいながら国軍を有していた。

 二大勢力の間でオーガ族は揺れた。地理的、歴史的にはゴルド族とのつながりが深いが、政府が行ってきたダムや観光施設建設、無秩序な森林開発がオーガ族の生活基盤を揺るがしていたからだ。結局、二つの民族と距離を取ることに決めて山岳地帯に引きこもった。

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