第2章 三村剛史

第4話

 三村剛史みむらつよしはパソコンのモニターから顔をあげ、目頭を軽く揉んだ。

 カーテンの隙間から淡い朝日が差し込んでいた。

「朝か……」

 つぶやくと同時に、エアコンが轟々と喘ぐ音に気付いた。執筆に集中していて、今まで気づかなかったのだ。外はずいぶん冷え込んでいるらしい。


 キーボードを横にやり、資料を集めたクリアファイルを広げた。

 最初のページに入れてあるのはロシア語が並んだ古い新聞だ。その下部に、ハガキほどの大きさの写真が載っている。ゴルド紛争の終結時、革命軍の狙撃部隊が解散前に撮った記念写真だ。

 男女二十名、写真が小さく一人一人の顔立ちまでは分からない。その中に、ゴルド政府軍からミラージュと呼ばれて恐れられたスナイパーがいる。

 ミラージュは数キロも先から、標的の頭を一発で打ち抜くらしい。それで近くにいるはずだと捜索したら、実際は、ずっと遠くにいたという証言が多い。いずれにしても、一度狙われたら逃れられない相手だ。

 剛史は今、そのミラージュを題材に小説を書いている。書き始めて既に三カ月、あとはいくつかの小さなイベントを加筆し、推敲するばかりだった。

 タイトルは〝運命のミラージュ〟とするつもりだ。彼、もしくは彼女の奮闘が、革命を成功に導き、国家と国民の運命を変えたからだ。その運命が意味するのは、剛史の運命そのものでもあった。この小説が納得いくものに仕上がったなら、ミラージュに撃たれて死んでもいい、いや、死にたいと望んでいる。

「君がミラージュか? それとも君か?…‥‥君か?」

 はっきりしない写真の顔、一人一人に語り掛けた。

 そのミラージュ、本名どころか、性別、年齢さえわかっておらず、二十名の中の誰かさえも分からないのだ。まさに蜃気楼、幻影のような存在だった。小説中では十九歳の若い女性にしている。凄腕のスナイパーが、実は若い女性、……その方が意外性があり、神秘的でもあるだろう。

「もしかしたら……」

 ふと思いついたのは、二十名すべてがミラージュかもしれないという可能性だった。複数名が共に行動し、同時に標的を狙う。その中の誰か一人、条件がそろったスナイパーが一発だけ銃弾を放つ。それなら、撃ち殺された標的の仲間は、ミラージュは一人の人物と思い込んだかもしれない。

「いやいや……」

 自分の推理を自ら否定する。複数名で狙ったなら、確かに目的を達成する確率は上がるけれど、敵に発見される確率も上がるだろう。

「しかし……」

 スナイパーの一人が発見されたとしても、別のスナイパーが狙撃に成功したなら、発見されたスナイパーはミラージュではないことになる。

 狙撃に成功した顔も名前もわからないスナイパーが、ミラージュと呼ばれる栄誉を得るということだ。……そこにいるかと思えばいない。まさにミラージュ、……蜃気楼ではないか!

 自分の思い付きに歓喜した途端、別の声が頭の中でする。……理屈はそうだが、戦力の乏しい小国の狙撃部隊が、そんな贅沢に、スナイパーを運用することはないだろう。

「ミラージュ……」

 キーボードに打ち込む。ミラージュのことを書こうと決めてから、すでに百回は検索している。そして目の前に表示されるのも、ほぼ同じだった。

 ――蜃気楼のこと――

 ――自動車の車種――

 ――ダッソー製の戦闘機――

 ――ラスベガスにあるカジノホテル――

 ――ゴルド紛争で活躍したスナイパー、1キロ射撃を得意とした。氏名、年齢不詳。紛争終結後は所在不明――

 他にはゲームに登場するミラージュの倒し方のあれこれや、東北地方にあるホテルもヒットした。不思議なことに蜃気楼で有名な富山県にミラージュや蜃気楼を冠するホテルはないようだ。

「ミラージュは一人か、複数名か……?」

 すでに九割ほど書きあがっているというのに、新たなアイディアに憑りつかれ、困惑した。

「今度は失敗できないんだ」

 剛史はメールソフトを開く。新たな着信メールはなかった。そこに残っているメールのひとつを開く。文芸誌の編集者からのものだった。

 一昨年、文芸誌〝文学世界〟の新人賞をとった。それで〝文学世界〟に三度、短編が掲載された。しかし、それ以降、原稿の依頼がなかった。四カ月前、焦って書いた短編を一方的に送りつけた。

【興味深い作品ではありましたが、本作の掲載は見送らせていただきます……】

 送った短編小説に対する評価だった。オブラートに包んでいるけれど、つまらない、市場に出す価値がない、とそれは断じていた。

 頭を抱え、モニターに並ぶ文字をじっと見つめた。

 ――つまらん!――

 ――ボツ!――

 編集者の声が聞こえそうだ。

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