第3話
景色が流れ、そして止った。赤信号だ。ほどなく色が青に変わると動き出し、また止まる。そうしたことが何度かあってホテルに着いた。タクシーを降りると、目の前にドアマンがいた。
「お帰りなさい。お荷物をお持ちします」
「ありがとう。でも大丈夫です」
荷物は影が持っている。
彼の申し出を断ってロビーに入った。大理石の床に毛足の長い絨毯、西欧のふかふかなソファーに巨大な無垢板のテーブル、巨大なシャンデリアに煌びやかな屈折光……。そこは王宮のような贅沢な空間だった。
「まさに資本の具現化だ」
影はそう言ったが、スナイパーには虚飾に見えた。そこから嫌な臭いがしてたまらない。腐った血の臭いだ。
大理石のカウンターの向こうに立つフロント係が
「おかえりなさいませ」
名前を告げるより早くルームキーが取り出され、ロビー係に渡された。
フロント係にしてもドアマンにしても、スナイパーの顔と名前を覚えているのだ。犯罪者としては歓迎できないことだが、客としては嬉しいことだった。
それにしても、と思う。ちょっとした会話のキャッチボールぐらいはしても良いではないか? それが、この国の標榜するおもてなしではないか……。
「お客様、何か?」
フロント係が首を傾げている。少しばかり怯えているように見えた。考えにふけり、彼女の顔を凝視していたらしい。
「いいえ、なんでもありません」
そう応じ、ゆっくりした足取りでエレベーターホールに向かった。彼女の言葉数が少なかったのは、自分が殺気をまとっていたからかもしれない、と反省した。
ロビー係の女性が足音を殺して追い越していく。そうしてエレベーターのボタンを押した。スナイパーがそこに到着すると同時に、6基あるエレベーターのうちの一つのドアが開いた。彼女が先に乗り込んで階数ボタンを押した。
「ありがとう」
ドアが閉まった瞬間、深呼吸をひとつする。
「何か、ご不便はございませんか? ご要望がございましたら何でもお申し付けください」
エレベーターが動き出すと彼女が言った。
「ありがとう。大丈夫ですよ」
応じながら、彼女の殺害を依頼する者はいるだろうか、と想像した。おそらく二十代後半で未婚の美しく優しい彼女……。そんな女性を殺したい人物がいるはずない、と断言するのは難しい。美しいからこそ、優しいからこそ殺したいと思う同僚や友人、恋敵がいてもおかしくはない。ただ、そんな人物には、スナイパーを雇う資力はないだろう。
「あなた、誰か殺したい人はいますか?」
尋ねると、「は?」と彼女は首を傾げた。影が苦笑している。
「冗談ですよ」
「……ですよね」
その時の彼女の笑みは、ホテルマンの作られたそれではなかった。少女のような無邪気な笑みだ。
エレベーターが停まってドアが開く。
「足元にご注意ください」
ドアの安全装置に手を添える彼女は、すっかりホテルマンに戻っていた。
「ありがとう」
そう応じて下りる。
「こちらです」
彼女が先に立ち、客室に向かって先を行く。
思わず苦笑が漏れる。昨夜もそこに泊まったのだから、部屋の場所は分かっている。
「役割は人間から個性を奪う」
母国語で言った影が、彼女の背中を見ていた。
彼女が開錠してドアを開ける。それから古臭いキーホルダーのついた鍵を影に渡した。
影がチップを渡そうとすると彼女は、「いただかないルールになっています」と言って断った。
「ごゆっくり、お休みください」
爽やかな言葉を残し、彼女がドアを閉めた。
「この国の、経済重視の思考にはなじめないけれど、おもてなしの文化はいい」
スナイパーは、毛足の長い絨毯を踏んで窓際に立った。周囲に視界を遮るような建物はない。ただ、電波塔がひとつ、景色を壊していた。
「それは自己犠牲の境界線にある」
「そうかもしれないわね。あの頃のようだわ」
電波塔に沢山のカラスが群れていた。鳥のいる場所に人が隠れていることはない。それだけでホッとする。
「昔のことは忘れろ」
そんなことを言われても、と思う。人は過去の延長線上にしかいられない。
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