第2話
地下鉄に乗り込むとスマホの電源を入れて、アンテナの数を確認する。四本立っていた。地下鉄のトンネルの中でさえスマホが使えるのだから、神が死んだ世界は便利だ。代わりにGPSや防犯カメラなどが発達したので、痕跡をたどられるリスクもあるのだけれど……。
スマホにメモリーカードを差し、依頼主に仕事を終えた証拠の動画を送る。電子スコープに映ったままを録画したものだ。普通のスナイパーならこんなことはしない。狙撃地点を第三者に知られる可能性があるし、政府要人の暗殺はわざわざ教えてやらなくてもニュースになって依頼者の知るところとなるからだ。
しかし、スナイパーは標的の断末魔の瞬間を依頼者に見せてやる。それで彼が驚くのか、喜ぶのか分からない。もしかしたら、便器に向かって胃袋の中身をぶちまけることになるかもしれない。いずれにしても、彼の意思が他人の人生を変えてしまったことを記憶に刻んでほしいと思う。
そして理由はもう一つ。依頼者とスナイパーは、注文主と請負人といったビジネスの次元ではなく、倫理の次元にいるということを知らしめるためだ。それが共犯者という一体の存在がもつ意味だ。もし依頼者がそれを理解できず、「私はやっていない」「私は知らない」と言ったなら、彼を殺すだろう。
【残金を振り込んだ】
依頼主から返信があったのは、乗換駅のトイレで変装を解き、路線の異なる電車に乗った後だった。
素早い返事は彼が罪の意識にさいなまれていないことを示している。いや、待て……。彼は動画を見ていないかもしれない。臆病者は、支払いが遅れて私の銃口が自分に向くのを恐れ、動画を見る前に支払いに走る事がある。
彼はどちらだろう?……揺れる吊り革を見ながら考えた。
駅を二つ過ぎたところで考えるのを止めた。実際、答えはどうでもよかった。
別のスマホを取り出して電源を入れる。銀行口座の残高を確認すると残高が五十万ドル増えていた。
「サンキュー」
スマホに軽いキスをする。これで彼との契約は終了だ。仕事を終えた充実感などなかった。あるのは役割を全うした安堵だ。
疲労に襲われたスナイパーは眠りに落ち、隣の男性に頭がもたれた。その男性は微動だにしない。石のようにスナイパーの頭の重みを受け止めた。
三十分ほど電車に揺られ、大河に近い駅で降りた。川に向かってぶらぶら歩く。影も一緒だ。秋とはいえ陽射しは強く、寂れた商店街に人は少なかった。
駄菓子屋から少年が飛び出してくる。店内に目をやると無人だった。あいつめ、店番の老人がいないことをいいことに、お菓子を盗んだに違いない。そんなことを考えながら、遠ざかる少年の背中を見ていた。
幼いころの自分を思い出す。社会の底辺を這いずり回っていた頃だ。そこで生きるために人を殺すことを覚えた。大人になって世の中が変わっても人を殺した。そうしなければ、裕福な人間には勝てないからだ。豊かな世界で溺れ死ぬマヌケになるつもりはない。
商店街を通り過ぎると堤防にぶつかる。スナイパーは堤防を乗り越え、河川敷を水辺に向かった。
川の水量は多くなかった。陽の光をキラキラ反射させながらゆるゆると流れている。
手ごろな石を探した。それはすぐに見つかった。依頼者と連絡を取り合ったスマホをそれでたたきつぶすと、影が川の中ほどに向かって投げた。
「バイバイ」
言い終わると同時に川面に小さな水しぶきがあがり、頭の中から白髪の男性の姿が消えた。
良い子は川にごみを捨てないでね。私は悪い子。人殺しだから。……フッと笑いがこぼれた。
堤防にあがり、上流に向かって散策する。並んだ影が「良い天気だ」と言った。
散策に飽きると駅に足を向けた。そこに着く頃には背中を汗が流れた。とても不快だった。白髪を染めた赤いものを思い出した。産まれてからこの方、ずっとその中で泳いでいる気がする。
駅のタクシー乗り場にはタクシーが一台しかなかった。それに近づくと勝手にドアが開いた。吸いこまれるように影と共に乗り込んだ。エアコンの効いた車内は涼しく、吹き出した汗が冷えていくのが分かった。
行先を告げると、ドライバーは不思議そうな顔をした。それは数駅先の駅前にあって、タクシーを使う理由がないからだ。
しかし、人を殺すのにもタクシーを使うのにも理由がある。スナイパーがタクシーを選んだのは足取りを誤魔化すためだった。それを教えるわけにいかないから黙っていた。ここから動かないぞ、というように外の景色に眼をやる。影は反対側の景色を見ていた。
ドライバーが首を傾げながらアクセルを踏んだ。
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