運命のミラージュ ――夫の殺害依頼――

明日乃たまご

第1章 スナイパー

第1話

 電子スコープに映るのは、壁面を書籍が埋めた書斎だった。

 ほどなく白髪の男性が現れ、机に向かって本を読むだろう。それが彼の習慣だ。……スナイパーは左手首の腕時計に視線を走らせて時刻を確認し、眼差しを電子スコープに戻した。

 実際、彼は現れた。気品のある穏やかな顔をしている。そんな彼が命を狙われている。財産をめぐる親族の争いなのか、権力にまつわる政敵との争いなのか、あるいは、宗教上の対立なのか、子供のころにいじめた同級生の執念深い恨みなのか……。理由は知らない。分かるのは、依頼者には大金を投じてまで彼を殺したい事情があるということだ。

 白髪の男性は迷うことなく書棚のひとつに向かった。

「読書をするのも、規則正しい生活をおくるのも良いことだ。この国では電車や工場まで時計のように正確に動いている」

 床に伏せてスコープを覗くスナイパーは、何者かに向かって話した。貯水槽が作る影の中で、もうひとりの自分が答える。

「行動がルールに沿って正確だから、お互いの行動が予測できて生産効率が上がる。そうやってこの国は発展した。我々もそのおこぼれに預かれるというわけだ」

 スコープの中の男性が書棚から一冊の本を取った。〝Capital〟スコープ越しでもタイトルを読むことができた。

「資本論だと?……らしくもない。資本と科学は神を殺した。そうして人類の繁栄がある」

 それを聞いた影が唇をゆがめた。

 男性はゆっくりと窓際の机に向かった。そこで足を止めると、机の上の地球儀に手を乗せ、じっとどこかの、おそらく海洋ではない、国家を見た。そして小さな地球を回した。

 彼は一瞬だけ神になったのだ。……スナイパーはそう思った。地球は回る。飽きることなく……。カラカラという回転音が聞こえてきそうだ。

 彼は腰を下ろし、本を広げた。


 風は右から一ノット。……スナイパーはボタンを押して電子スコープの拡大率を上げた。弾丸は風と重力の影響を受けて弧を描く。それを計算に入れて慎重に照準を正した。文字を追う男性の白髪頭がスコープの中心におさまる。

 エアコンの巨大な室外機のモーター音、家電量販店のスピーカーがまき散らす宣伝の音楽、車のエンジン音、通りを歩く人々のざわめき……、世界は雑音に支配されていた。

 私は神になる。……標的と自分に向かって静かに宣言する。それはスナイパーの決意でありルーティンだ。

 雑音が消え、心臓の鼓動が意識の底に沈む。わずかに人差指を引く。自分の手で調整したトリガー引き金は蝶のように軽かった。

 それまで暗闇の底で息をひそめていた弾丸が、特注の長い銃身を走る。そうして頑固な外界に生れ落ちると衝撃波を生んだ。


 ――ターン――


 サイレンサー消音器が乾いた衝撃音を半減、残された音は都会の喧騒にのまれた。

 弾丸の旅は短い。瞬きを一つしただけで電子スコープの中の景色は変わっていた。窓ガラスに亀裂が走り、男性の頭が割れて白髪が赤く染まっていた。

 標的の死を確信したスナイパーは機械のように動く。身体を起こすと空を仰いで深呼吸をひとつ……。そこは標的の家から九百メートルほど離れたビルの屋上だった。……緊張を解くとライフル銃を分解してバッグに納める。電子スコープをしまう前に、それからメモリーカードを抜いてポケットに入れた。

 貯水槽の影から分離した影が、衣服が汚れるのを避けるために敷いていたボタニカル柄のスカーフをたたんだ。それを敷くとそこに繊維片を残す可能性はあるが、髪の毛や唾液など、スナイパー自身の直接的な痕跡をまとめて回収できるので、存在を隠す効果が高いと考えている。薬きょう、髪の毛、指紋はもちろん、足跡、匂いといった痕跡さえ残さないのが流儀だ。

 防犯カメラに映ってもいいようにサングラスをかけ、目深に帽子をかぶる。

 影を連れてその場を離れ、医療用手袋を外しながら非常階段を下りた。まるで日々の昼食に向かうように軽やかに……。


 三分ほど歩くと地下鉄の駅がある。手袋を入れた紙袋をゴミ箱に捨ててから改札口を通った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る