第3話
まず最初にふたりが向かったのは「DX大橋建設事務所」だった。不正規捜査に署の車両を使うわけにもいかず、自前のアストンマーティンに蜜柑を同乗させた
「チャーさんって無口ですよね〜」
「……」
「あ、MD発見! 何かかけて良いですか?」
「ああ……」
シフトレバーの後ろにあるアームレストを
「チャーさんがピストルズなんて意外。てっきりジャズとか、そんなのだと思ってました」
「確かにそういうのも聴くけど。こういうのも好きだよ」
「あたしも好きです!」
「ああ、そう……」
夏休みも残りわずかな学生たちで賑わう浜辺を右に、左は落石防止の柵とネットに覆われた崖を見ながら、好みの音楽を聴いてハンドルを握る。本来ならば心安らぐシチュエーションだが、隣を見れば曲に合わせて頭を振る後輩がいる。
落ち着かない。報酬の件を抜きにしても、この事件は早期に解決したい。そう思った荼がアクセルに力を込めると、横で蜜柑の歓声が上がった。
◆ ◆ ◆
「という訳で、こちらとしても近藤くんがどうしてこんな事になったのか、皆目見当がつきませんで……」
DX大橋建設事務所のプレハブに設えられた、と言ってもパーテーションで区切られただけの応接スペースで、荼と蜜柑は並んでソファに座っている。ガラス張りのローテーブルの上では麦茶のグラスが汗をかき、その向かいでは所長の
被害者の近藤雅紀は、国立大学を卒業してゼネコンに新卒入社をした三十二歳の独身男性で、地方の工事に従事するために市内のアパートを借りて生活していた。
遺体として発見される二日前から無断で職場を欠勤していて、彼がその間に何をしていたかについて職場内で聞いてみても、希薄だった交友関係のせいで誰もが首を傾げるのみだったらしい。
「発見された場所が特殊だったと伺っていますが」
遺体の状況については、検視からの報告で大体の事が分かっている。しかし、その発見現場である“ケーソン”という物に、荼は耳馴染みがなかった。
ちなみに蜜柑は、事務所に到着した時に「D署の佐藤です。こちらは
神妙な顔をしてただ座っているだけの相棒が、場所によって態度を弁える事を知って荼は安心したが、その一方では
「百聞は一見に
◇ ◇ ◇
「ひゃ〜、近くで見ると大っきいですねえ〜。マンションみたい!」
韮崎に伴われてプレハブを出た荼と蜜柑は、資材置場という言葉で表すには広大過ぎる敷地に案内された。そして、そこに並ぶ構造物の巨大さに圧倒された。
水中や地下に構造物を作る際に使用されるケーソンとは「大きな箱」という意味のフランス語だ。その用途も構造も様々だが、つまりはコンクリートや鋼で作られた「大きな箱」だ。この工事で使用される「設置型ケーソン」は、幅五十五、長さ七十七、高さ五十メートルの大きさで、その重量は約一万五千トン。
それが整然と並ぶ姿は、例えて言えば入口も窓もない二十階建てのビルの群のようなものだった。
「陸地で作ったこのバカでかいケーソンをクレーンで吊って、海に浮かべて引っ張って、目的の場所に沈める訳ですが、これがまた一苦労でして……」
韮崎が指で示すと、そこには全高二十メートルのクレーンを三本も備えた台船や、コンクリートの箱が何隻ものボードに
かなりの距離があるにも関わらず、目の前にある一軒家を見上げるようなスケール感。日常では決して目にする事のない、遠近感が狂うようなその光景に蜜柑が「ほわぁ〜」と声を上げた。
「頑丈そうに見えますが、これが意外にデリケートなもんでして。風呂にバケツを沈めるところを想像して欲しいんですが、けっこう力がいる要るでしょう?」
だから箱に水を入れて浮力を奪っていく訳だが、この時には細心の注意を払い、四辺の水平を保ちつつ、均等に水を入れて沈めてやる必要がある。さもなくば、周囲から掛かる莫大な水圧のバランスが崩れ、
その鋼とコンクリートで造られた巨大な箱を海の底に設置すると、その中を“
「これを“プレパックドコンクリート工法”と言いまして、彼の瀬戸大橋も同じ手法で作られたという……」
「ああ、その辺で結構ですよ。で、このケーソンから近藤さんが見つかったんですね」
荼に話を遮られた韮崎は気分を害した風もなく「これは失礼」と苦笑して頭を掻いた。
この工事の実施にあたって、海底の地形や地質の調査だけでも数年の期間を要したが、それと同時に苦労をしたのが周辺の住人から理解を得ることだった。幾度となく行われた住民説明会でこの手の説明をする事に慣れてしまった現場監督は、つい喋り過ぎたと恥ずかしそうに謝罪した。
「陸地に一番近いケーソンに砕石を投入しようという矢先に、先日の台風が来ましてね。先にも申しましたようにデリケートな仕事ですから、嵐でケーソンの中に砂でも異物でも入っていたら
「遺体が出た……と」
「ええ、そういう事です」
韮崎の話では、そのケーソンは近いとは言っても陸地から二十メートルは離れていて、その陸地も岩だらけの高い崖になっている。
かざした手で陽射しを遮り、全高五十メートルを超える白灰色の箱を見上げた荼の目は、厳密に整地された海底に設置されたケーソンのさらに二十メートル上に波打つ海面と、そこから最も近い位置―――二十メートル離れた断崖を幻視していた。
「例えば近藤さんが誤ってその崖から転落し、沈みながら流されてケーソンに入る、という事はあるでしょうか……」
岸に打ち寄せる波が一箇所で沖に向かう流れを作る離岸流は、最大で毎秒二メートルの流れを作る。もし、その崖にそれが発生していたなら、二十メートルの距離を流される可能性は十分にある。
そして溺れた人間が沈下する速度は、体内に残された空気の量、つまり浮力に左右される。崖から落下した勢いで深く沈んだのか、一度は浮かんでまた沈んだのか。
そのどれもが分からず、また確かめる事もできない。
「そういう事が無いと断言はできませんが、奇跡的な確率ではないかと思いますね」
この工事を成功させるために十年近い時間を費やし、この海の事を調べてきた。しかし、その韮崎の言葉にも、確固たる根拠の響きはなかった。
「自分で泳いだとかは……流石にありませんよね〜」
「…………フム」
自分を真似て手をかざし、ケーソンを見上げる蜜柑の言葉には応えず。荼は韮崎を振り返った。
「同僚の方たちとはあまり交流が無かったそうですが、何かに悩んでいる様子はありましたか」
その質問に、顎をつまんで考えた現場の責任者は「強いて言えば」と前置きをして、幾つかの情報を捻り出した。
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