第2話

 課長の戸張とばりが一分に一度のタイミングで吐き出す溜め息のせいで、D県警D警察署の捜査一課は、重苦しい雰囲気の中に沈んでいた。廊下側がガラス張りで素通しになっている刑事課の、そこだけが照明が当たっていなように暗い。

 パーテーションを挟んで隣り合う二課と三課の刑事たちは、不機嫌な他部署の上司を刺激しないようにひっそりと各々の仕事をこなしている。そこに現れたのがダークネイビーのスーツの男―――にがなだった。


「こんにちは課長。お元気……ではなさそうですね。どうされました」


 腕を組んで机の上を凝視していた戸張は顔を上げると目を見開いて「おお!」と声を上げた。上司の驚く顔を見た荼はわずかに口角を上げ、手にした土産―――二十箱のマカデミアナッツ・チョコレートが入ったビニールバッグを机に乗せた。


「チャー! ヤードでの研修はどうした」

「研修にも休暇はありますよ。1週間でとんぼ返りですけどね」


―――チャーだ。チャーが帰ってきてる。


 そうざわめく二課と三課の刑事にも、にこやかに会釈などしているこの男は、事件が発生して特捜本部が立ってもすぐに解決してしまうところから、本人の知らぬ所で「特捜潰しのチャー」の異名を奉られている。

 ちなみに“チャー”というニックネームは戸張が付けたものだ。


「実に良いところに帰ってきたな、チャー!」


 積まれた書類とチョコレートの箱が崩れるのも構わずに、体を伸ばした戸張が荼の手首をがしり・・・と捕らえた。

 五十路を過ぎた捜査一課長の握力と形相にたじろいだ部下が「何なんですか」と身を引いても食らいついて放そうとせず、机の上に腰まで乗り上げながら哀願した。


「頼む! 手を貸してくれ!」



◆ ◆ ◆



 荼になだめられてどうにか落ち着きを取り戻した戸張が、眼鏡を上げて涙を拭う哀れっぽい仕草と共に語ったのは、以下のような話だった。


 DX大橋の建設現場で、“ケーソン”という橋脚の基礎部分から遺体として見つかったのは、同工事を担うゼネコン社員の近藤雅紀こんどうまさきという三十二歳の男性だった。発見の二日前から現場には出勤しておらず、その間の行動についてはまだ調べが進んでいない。

 そして、検視の結果によれば、遺体の頭部には打撲痕が見られるものの、直接の死因は溺死。両手の爪は、何かを掻きむしったように損傷していた。

 打撲は落下の際の、手指の傷は溺れた際に何かを掴もうとしてついたものと思われるが、何らかの事故で海に転落したのか、それとも自殺か。しかし殺人の可能性も捨て切れない。


「なるほど。特捜本部が立ちますね」

「それでは困るんだぁ!」


 通報を受けて初動捜査を行った機動捜査隊からの報告書をペラペラとめくる荼にすがりついた戸張は、年貢の取り立てを迫られた小作農のように言い募った。


「DX大橋の建設は、国も県も関わる云千億の金と十年以上の期間を費やす大プロジェクトなんだ」


 そのような場所で、事故ならばまだしも、殺人の疑いのある“事件”が起こるというのは非常にマズい。

 もし捜査が長引けば工期に影響を及ぼす可能性があり、そうなれば工事に関係する様々な企業や団体が様々な被害を被る。そして何より予算がかさむ・・・

 また、マスコミによってセンセーショナルに報道などされた日には、工事そのもののイメージダウンにも繋がりかねない。


「そんな訳で、もう国交省から道路公団、県庁も市も県選出の国会議員までもが、どうにか早期に解決しろと本部長に矢の催促で、その本部長からせっつかれるのが私なんだぁ!」


 捜査一課長といえば、刑事ドラマなどでは事件捜査の最高指揮官のように思われがちだが、警察組織の内部においては所詮しがない中間管理職に過ぎない。その悲哀に両目を潤ませる中年男性に対して、しかし荼は素っ気なかった。


「イヤですよ、休暇中なのにどうして僕が。それに、まだ難しいと決まった訳でもないでしょう。捜査本部を立ち上げて華々しく解決……という事もあるのでは?」

「それができれば苦労はしない。一課は先週から連続している観光客を狙った強盗事件に掛かりっきりなんだ。そう簡単に人手をやり繰りなどできるか!」


 哀れみを乞うようだったものが急に怒り出し、天を仰いで残り僅かな髪を掻きむしっている。その戸張の豹変ぶりを見て、これは相当追い詰められていると思った荼は、人当たりの良さそうな顔で交換条件を持ち出した。


「分かりました。お手伝いしましょう。でも、長らくのイギリス住まいで僕は和食が恋しいんですよ。“藤代”の夕食ディナー。これでどうです?」

「人の足元を見るな、“川奈”で手を打て!」


 荼の要求した“藤代”は、この近辺でも最高級の寿司を出す名店として知られている。当然、値段も相当のもので、娘の学費に頭を痛める父親が気安く奢れるような場所ではない。

 “川奈”はやはり評判の高い小料理屋で、こちらも決して気軽に行けるような店ではない。しかし、ワンコインで昼食を賄う男が交渉の札に使える、これがギリギリのラインだった。


「いや残念だなぁ。出向中の身分では公然と捜査に関わる訳にはいきませんし。となると、犯人逮捕の手柄は誰のものになるんでしょうなぁ」

「それは……まあ当然、陰ながら動いて貰う事にはなる。手柄は……ええい、分かった藤代だな!」


 他人事のような物言いに弱みを突かれた戸張がこうべを垂れ、報酬を取り付けた荼が改心の笑みを浮かべる。

 その鍔迫り合いを見ていた二課と三課の刑事、特に課長たちは、ガクリと肩を落とした戸張に同情の視線を向けることしかできない。


「ところでチャー、どうしてイギリス土産がマカデミアナッツなんだ」

「少しハワイに寄り道しまして」

「……そうか」


 イギリス土産にはシングルモルトを期待していた。そんな上司の恨みの籠もった上目遣いにも、荼はケロリとしたものだった。



◆ ◆ ◆



「僕の“隠れ蓑”になる誰かが必要になりますね」

「そうだな、誰か適当なのを見繕って……」


 ウィン・ウィンとは言い難いながらも、契約は成立した。次に必要になるのは、取り引きを実現するための手段となる。

 にがなも指摘したように、本来はイギリス出向中の者が捜査に手や口を出す事はできず、捜査資料に名前を残す事もできない。その荼に同行して、さも・・その誰かが事件を解決したように見せる必要があった。


「課長、強盗事件の被害者の調書が……うぉ! チャーさんだ。チャーさんお帰りなさ〜い!」


 誰かいないか、そう考えていた荼と戸張の前に現れたのが、佐藤蜜柑みかんだった。

 省エネのために空調の弱い署内で、パタパタとパンプス鳴らして走って来た女刑事は、黒のショートヘアを後ろで縛った丸だしの額に汗の玉を浮べている。手に持ったバインダーを振り上げながら駆け寄ると、デスクの上を見て「あ、チョコだ!」と白い歯を見せた。


 その時、蜜柑を見る荼の顔にわずかな影が差したのを、刑事人生三十余年の戸張は見逃さなかった。

 万事にスマートで綽々しゃくしゃくとした態度を好む荼が、何事にも全力ゆえに空回りの多いこの女性刑事を苦手に思っている事を、部下の人間関係にも目を光らせる中間管理職は把握していた。


「チャーさん見ちゃダメですよ。字ぃ汚いから!」

「課長に出そうとしていただろう」


 チョコレートのセロファンに爪を立てた蜜柑は、デスクに投げ出されたバインダーを荼がめくり始めるのを見て、慌ててそれを取り戻そうとする。しかし、一五〇センチがピョンピョンと跳ねても、腕を高く上げた一八〇センチには届かない。


 そして、それを見た戸張は、弱みを突かれた腹いせを思いついた。


「佐藤刑事。君は今からチャーと組んで、大橋の方の捜査に当たってくれ」

「は?」

「……は?」


 思いがけない上司の言葉に蜜柑が目を丸くすると、荼の眉間には深いしわが刻まれる。

 してやったり。不遜ふそんな部下の表情に溜飲を下げて、戸張の口内が二チャリと鳴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る