ケーソンに消ゆ
マコンデ中佐
第1話
海に大きく突き出した半島に守られて、打ち寄せる波も穏やかな海水浴場は、D市でも屈指のレジャースポットになっている。
猛威を振るった大型台風が通り過ぎた晴天の下、多くの人で賑わう白砂の海岸では、そのあちこちでクラゲに刺された者の悲鳴が上がる。沖にはプレジャーボートが呑気に漂い、マリンスポーツに興じる若者たちが波を蹴散らし飛び跳ねていた。
パラソルの群生地となっている海岸のすぐとなり、小さな山を挟んだ向こうは大規模な工事現場になっていた。
脇を通る片側二車線の国道から作業道路が引き込まれ、雑木林を切り
巨人の国のような資材置き場から少し離れた二階建てのプレハブ。その入口には「DX大橋建設事務所」の表札が掛かっている。
薄い鋼板と合板を敷いただけの仮設事務所は、この猛暑の中でエアコンの効きも悪い。顎に伝う汗を拭いながら言い辛そうな部下の言葉に、
「所長、不味いことになりました。ダイバーからの連絡で……その……」
「どうかしたか」
「ケーソンから、その……死体が、出まして」
韮崎は、この海岸のあるD県D市と、沖に浮かぶX島を結ぶ吊り橋を建設する工事の計画責任者だった。大手ゼネコンに入社してから三十年を勤め上げ、その勤務姿勢と積み上げた業務成績によって部長にまでなった男が、この仕事に懸ける想いは小さなものではない。
遺体が発見されたとなれば、捜査のために工事が止まる。遺体が工事関係者のものであれば、監督責任が発生する恐れもある。
その上司の心情を気遣って歯切れの悪い部下の肩を、韮崎はバンと叩いた。
「すぐに警察に電話をしろ。各部署に工事の一時停止を連絡して、念の為に作業員の出勤状況を確認しておけよ」
その指示を受けて、事務所に詰めていた部下たちは一斉に動き出す。
合板の床がバタバタとうるさく鳴るのを聞きながら、デスクの引き出しから名刺の束を取り出した韮崎は、おもむろに電話の受話器を取った。
◆ ◆ ◆
成田国際空港の到着ロビーは、海外での休暇を終えた人々で混雑していた。
アロハシャツにサングラスと麦わら帽子の色彩豊かな一団が、案内板を探して上を見ながら、あっちだこっちだとスーツケースを転がしている。広大で未来的な空間に興奮した子供が走るのを、両手を荷物に塞がれた親が叱りつけている。
「あたしのカバンがないわ!」
ざわめくロビーに緊迫した声が上がると、周囲の視線が一斉にそちらへ向いた。そこでは老女がたった一人、ロビー内の見取り図を記したボードの前で立っている。
初めはオロオロと周囲を見回していたその老女は、騒ぎを聞きつけた警備員が駆けつけると、そのねずみ色の制服に
「あたしのカバンを探してちょうだい。全財産が入っているのよ!」
その声の大きさと事の重大さに、老婆を囲んで
何かできる事は無いかとその場で周囲を見回す者もいれば、楽しい旅行の土産話に気の毒な老婆の話を付け加えたいだけの者もいる。さらに数名の警備員が応援に駆けつけると、辺りは騒然となった。
「痛え、放せ‼」
人集りから少し離れた場所で、今度は野太い男の声が上がった。老婆に注目していた野次馬たちの目がそちらを向くと、そこでは身の丈二メートルはありそうな大男がうつ伏せに倒されている。
「何すんだ、放しやがれ!」
「置き引きの現行犯です。観念しなさい」
右手で相手の手首を逆関節に固め、その背中を膝で押さえつける。自分の倍近い体重がありそうな巨漢を制圧しているのは、ダークネイビーのスーツを着込んだ優男だった。
「あの婦人が大声を上げた時、皆がそちらへ注意を向ける中で
優男が空いた左手で乱れてもいないオールバックを整えると「あたしのカバン!」と上がった声は、あの老婆のものではなかった。
倒れた男の手に握られたボストンバッグを引ったくるように取り戻したのは、幼い子供を連れた母親だった。
「あの老婦人は貴方とグルなんでしょう。騒ぎを起こして人の気を反らし、その間に金目の物を入れていそうな小さなカバンを盗む。いかにも古臭い手だ」
そそくさと逃げ出そうとした老婆の行く手に、そうはさせないと警備員が立ち塞がる。報せを受けた空港警察官がやってくると、抑え込まれた男の手首には手錠がかけられた。
目の前で展開された突然の騒動と逮捕劇に、興奮した野次馬たちがやんやの喝采を送る。優男はそれに応えて「どうもどうも」とにこやかに手など振っている。
「犯人逮捕のご協力に感謝します」
「協力だなんてとんでもない。僕も同業ですから」
空港警察の巡査が深々と頭を下げると、スーツのシワを気にしていた男は「お構いなく」と警察手帳を取り出して見せる。
「
それをまじまじと覗き込んだ巡査は、少し悩んだ後でその名前を口に出した。多分間違えているのだろうと、半ば観念したような顔だった。
「荼……にがな、と読みます。お気になさらず、初対面で正しく読まれることはまずありません」
アロハシャツの集団が送る拍手に軽く手を上げて、細身のスーツが歩き去る。
自動ドアを潜り、久しぶりの日本の空気を深呼吸した荼は、ロビーの前に迎えに来ていたアストンマーティンに乗り込んだ。
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