第8話 もう1歩

 声の主であったカルロが天井を見上げながら嘲笑するように大きく笑う。

「あははは! まさか、この僕があのまま大人しく君らの脱出を待つなんて事、するはずがないじゃないか! ……どうだい、レイン? この状態でも君はさっきみたいな態度でいられるかな? 無理だよねぇ!? だって、君は何かに依存しないといられないんだから!」

 レインが血溜まりを作るジェノの傷に手を当てる。生暖かい液体が溢れ出る感覚。姉を失った時にも感じた感覚だ。うつ伏せになっていたジェノの身体を起こし、傷口を必死に押さえる。今にも光が消えてしまいそうな目が、レインを捉えた。ジェノには言葉を発する力は残っていなかった。何粒も涙を流すレインを見て、ジェノは何かを思い出した。

「いや……いや! 絶対に、死なせない……! こんな、こんなの……!」

「もう助からないと思うよ。人はそんなに血を流しちゃったら、すぐに適切な処置をしないと死んでしまう。でもそんな手段は無い。君にはジェノは助けられない」

 カルロが不気味な笑みを浮かべながらレインに近づく。距離が縮まるにつれてその笑みはさらに深く、大きくなる。距離が一定度まで近づいたその時、レインはカルロを睨み、呟くような小さな声で何かの言葉を放った。その視線には、決意と憎悪が込められていた。

「……——」

「何だって?」

 レインは歯を食いしばった。涙が頬を伝い、垂れた涙がジェノに降りかかる。

「……して——」

 レインは立ち上がった。そして杖をカルロに向けた。

「殺して、やる」

 その言葉を聞いたカルロは驚愕によって一瞬表情を無にした。すぐにそれは不気味な笑みに戻る。どこか嬉しそうに、そして楽しそうにカルロは言った。

「君が? 僕を? ……僕は知ってるよ。君は人どころか、動物の1匹ですら殺した事がないんだろう。そんな状態で、僕を殺す覚悟なんて本当にあるのかな? さっきだって本気を出せば、あんな打撲程度で済む攻撃にはならなかったはずだろう? 君みたいな魔族が、あまつさえヴァンパイアの君が、本気で殺しに来ていたのなら、そんなちっぽけな攻撃しか繰り出せない種族であるわけがないものね」

 カルロの挑発はレインの核心を突いていた。手が震える。ヴェイルに教わった通り魔力を操作して、杖の先端から穿てば良いだけだ。しかし、それを人に向ける——言い換えれば、人の命を奪う事に繋がれば、それを心の何処かで抵抗してしまう自分がいた。相手はとても憎い人間だ。死んでも良いとさえ思ってしまっている。それにも関わらず、いざ殺すとなれば恐怖で手が震えて堪らなかった。

「ほら、無いじゃないか。結局、君には僕と来る以外の選択肢はもう残っていないんだよ。さっさと諦めて、僕の計画に協力してくれないかな?」

「あなたなんかに必要とされたくない! 言ったでしょう!」

「君の意思は関係ないんだよ! それ以外の道は全部消しちゃったんだから!」

 レインの杖に魔力が込められる。それが光となって溜まり始めるが、それは殺傷用としてはあまりにも弱すぎる魔力量でしかない。その小さな輝きもすぐに消えた。

「そんなに震えて、魔力の調整すらままならないじゃないか。ねぇ、レイン? もうもがかないでよ。抵抗しようとするからそうして辛くなるんじゃないのかい? できない事をずっと考える必要なんてないんだ」

 杖を向けたまま動けなかった。いつ攻撃されてもおかしくないはずであるカルロは、動じる事なく語り続ける。その手に握られた杖を取り上げようともせず、距離を保った状態で表情を崩す事なくレインを真正面から見つめている。まるで攻撃しない事を理解しているような佇まいをしている。その証拠として、彼の手には何も握られていない。普段、彼が何かと対峙する場合は必ず武器をいつでも繰り出せるようにしているのだ。つまり、現状のレインはカルロにとって敵ではないと判断されている。

 カルロが距離を再び縮め始める。そして、彼は杖を持っていない方の手をレインに向けて伸ばした。距離が近づく度に、レインの震えがさらに増した。

「さあ、レイン。今は確かに混乱するだろう。時間が経てばそれも楽になると思う」

 目の前までカルロが近づいて来ても、攻撃できなかった。暗闇が覆う笑みの下からぬっと現れた手が杖を押さえ、その先を下に向ける。これで反撃の可能性は潰えた。恐怖で震えながら不気味な笑みを見上げるしかできる事は残されていない。

 そうこうしている内に、カルロの手がレインの腕を掴んだ。レインは激しく拒絶したが、それを手放す事などするはずもない。不気味な笑みを浮かべる者に為す術なく連れ去られるだけだった。声を上げたが、助けられる者もそこにはいなかった。

「いやだ! やめて!」

「僕を殺したいかい? でも残念だね。今更僕を殺したところで、君が出る手段が無くなっちゃうだけさ。最初から大人しく従っておけば、ジェノだって死ぬ事はなかったのに。これは全部君が招いた事態なんだよ? 君が下手に希望を見出して、彼を無駄に信じなきゃこんな事には絶対にならなかった……そうだろう?」

 ——全部、私のせいだ。そんな考えがレインの頭に刷り込まれた。その瞬間、様々な思考が脳裏を駆け巡る。その言葉の全てが自責や疑問のものだった。荒かったはずの呼吸が静かになる。

 手を差し伸べてくれた人間を信じていた。だがその人はたった今殺された。それは私が信じてしまったからで、関わってはいけない領域まで足を踏み込ませてしまったからだ。そのきっかけは間違いなく私だ。私が関わったから、こうなった。ジェノは「自分だけでなく、別の人にも頼って良い」と言った。だが、今は心の底から頼れる人間はもういない。頼れる人の言葉を鵜呑うのみにして、頼ってしまったが故にその人を失ってしまった。

 そう思った瞬間、その目が冷たく、そして深く暗くなっていく。まるで光を灯していないような、そんな目をしていた。泣きたかったはずが、一気にその気も失せてしまった。それを見たカルロは嬉しそうに笑った。

「ああ、やっぱり君はそれが良い」

 2人は元々通ってきた通路を戻っていく。その内、2人の姿は消えた。


  * * *


 ジェノは気がつけば、花畑の真ん中に立っていた。記憶は曖昧で、先程まで何をしていたのか上手く思い出せない。背の低い花々の間に作られた道を進んで行く。どこか機械的に、酷くぼんやりとした様子で、ジェノは何の目的も持たずにその先へと進んでいた。

 ある程度進んだところで、何らかの文字が刻まれた石碑が道に現れた。読めるようで読めないような。刻まれた文章の中で、特に気になる部分だけが中途半端に欠けていて読む事を阻害している。だが、その隅に刻まれた数字には見覚えがあった。その数字は日付を示している。そして、石碑に刻まれたその日は——

「……アリスが、死んだ日だ」

 それを理解した途端に、周りの花々が赤く染まった。晴れた夏の空模様が急激に暗くなっていき、風に乗って散っていく花弁がまるで血潮のように、ジェノとその石碑の周りを飛び交う。その真っ赤な欠片が、あの日に目撃したアリスの死に様を彷彿とさせる。

「お兄ちゃん」

 不意に聞き覚えのある声で……そして、馴染みのある呼び方でジェノは呼ばれた。恐る恐るで声がした方向に振り返る。

「あ……ああ、お前は……そんな」

 ——そこに立っていたのは紛れもない、アリスの姿だった。いるはずのない妹が、ジェノに微笑みかけている。あの日作ると約束した、花のブレスレットを身につけながら。兄との再会を待ち望んでいたような喜色に満ちた笑顔を見せているような気がした。それが急に冷たい表情になり、ジェノは胸に何かが突き刺さるような感覚を覚えた。

 冷たく見上げられたまま——アリスが爪のような、ハサミのような物体を振りかざした。ジェノの胴体がそれで切られた。切断とまではいかなかったが、大きなダメージだ。不思議な事に、切られても出血はなかった。その代わりに尋常では無いほどに痛かった。

「ぐ、ぁぁぁッ……!」

 今まで感じた事のない痛みに全身が蝕まれる。意図せずとも、反射的に苦痛の声を上げてしまう。それでも容赦せずにアリスは攻撃を続ける。ジェノは何故いきなりにもこのような状況に放り込まれたのか、理解できなかった。それでも不思議な事に、自分でもこの痛みを味わって当然だというような感情を覚えた。

「ア、アリス……!」

 痛みで打ちのめされそうだが、そんな事など構わずに、アリスは何度も切りつけてくる。身体中を酷く穿つ痛みの中で、ジェノはアリスの腕を見た。花のブレスレット——それは、本来つけているはずが無いものだった。アリスが死んだのは、ジェノがブレスレットを作る前だ。完成品など、あるはずがない。さらに、アリスは手先が器用ではあったがそのような雑貨の作り方は知らないはずだ。

 そしてアリスが振るっている武器は、アリスを殺した魔物が持っていた爪に非常に似ている。黒く、長く、鋭い爪。その特徴や光景は今も鮮明に思い出せる。自分の切られ方も、その時の光景によく似ている。

 そこまで知覚した時、ジェノは何故このような事態が起こったのかを理解した。

(これは……後悔なのか……俺の……)

 どれだけ後悔してもアリスは戻らない。それは分かっている。しかしあの日守れなかったという後悔の念が、ジェノの首を締め続けていた。妹の死を乗り越える事ができなかった。一時的に忘れていただけだ。何故今になってそれを思い出したのか……それは、間違いなく彼女のせいなのだろう。

「アリス……俺は、俺は、確かに辛い。お前を守れなかったのは、今も後悔している……アリスも突然、あんな辛い思いをして死にたくなんか、なかったはずだ……!」

 爪が深くジェノの身体に突き刺さる。心臓を貫かれた。本来ならば死んでいるだろうが、ここは現実ではない。それだけの痛みだけが残り、ジェノの意識は未だはっきりと残っている。そのまま刃を掻き回され、身体の内側から抉られるような感覚がジェノを襲う。情けない悲鳴を上げるが、涙目になりながらもジェノは言葉を繋ごうと必死に口を開く。

「確かに忘れちゃいけない……でもそれに囚われて前に進まないわけにもいかないんだよ、アリス……! 俺は、死ぬ前にその後悔を乗り越えなきゃいけないんだ……! 旅を始めてやっと見つけたんだ、守るべきものを……それを守るには、俺がしっかりしないといけない!」

 乱暴に刃を引き抜かれ、ジェノが地面に倒れ伏せる。アリスはそれを冷たい視線で見下ろしていた。痛みにさいなまれる中で踏ん張り、歯を食いしばって立ち上がる。

「だから、訊かせてくれ……無理に許せとは言わない。アリス……お前はこんな俺を許してくれるか……?」

 痛みに耐えるのも限界だったのか、その場に膝から崩れ落ちる。地面に手をつき、荒い呼吸をひたすらに繰り返す。吐き出せる言葉は全て吐き出した。どう言う感情を感じているのか、自分でも自覚できないまま両目から涙が溢れ始める。

 アリスはその頭を優しく撫でた。気が付けば、先ほどの冷たい雰囲気が消え去り、周辺の花畑や空模様も完全に元の姿を取り戻していた。アリスは武器など持っておらず、あの日まで見ていたままの優しい微笑みを見せていた。

「泣かないで、ほら。……覚えてる? 私が落ち込んでいた時は、いつもこうして励ましてくれたよね。私はすぐに落ち込んじゃっていたけれど、お兄ちゃんはそれでも前を向いていてくれた。凄く心強かった——」

「アリス、俺は……」

 何かの言葉をかけたかったが、何の言葉をかけるべきか、わからなくなった。

「私だって、また一緒にいたい。……でも、分かってるよ。お兄ちゃんはまだ、ここにいるべきじゃないんだ」

 ジェノは前を向けなかった。その理由は自分でもわからない。

「守るものがあるんでしょう? 信じる人がいるんでしょう?」

 俯き、涙で頬を濡らしたままジェノは頷いた。そしてようやく、ジェノは顔を上げてアリスの目と真っ直ぐに向き合った。涙を腕で拭い、音を鳴らしながら震える歯を噛み締めて無理矢理押さえ込む。

「それなら、諦めないで。昔がダメだったとしても、今ならきっとできる」

「諦めなくて、良いのか……? 俺は、まだやれるのか……?」

「今は立ち止まっている場合じゃ無い。お兄ちゃんはそう決めたはず」

 アリスは思い切りの笑みを浮かべ、力強く頷く。アリスはジェノの身体をその頼りない腕と胴体で精一杯抱き締めた。ジェノはそれを小さく抱き返す。

「俺に、もう一度チャンスをくれ……俺はまだ、ここには……いられないんだ……」

「うん。信じてるよ。お兄ちゃんが悲しむ顔は見たくないから」

 ジェノの身体が、アリスの腕の中から消える。その直後——ジェノは暗闇で覆われた空間の中で目を覚ました。同時に腹部から太い針や刃物を突き立てられたような鋭い痛みに襲われる。目を覚まして早々に呻き声を小さく上げ、冷たい床に横たわったままうずくまった。

 気を失う直前、ジェノは腹部に致命傷になるほどの重傷を負っていたはずだった。しかしどういうわけか、その傷口の血が固まり、それ以上の出血も見られなかった。自分の周辺を何らかの赤黒い液体が囲っている事に気付いたが、その量に驚愕した。周辺や自身の状況から察するに、この液体は自分自身の血液であるはずだ。だが、作られた血の池は自分を5人は軽く囲める程度の規模だった。これほどの出血をして、輸血なしに意識を取り戻すはずがない。既に常軌を逸している状況下に置かれている事をジェノは理解した。

(俺は……死んでいなかったのか? レインは……一体、何処にいるんだ……!)

 激痛に耐えながら、ジェノがゆっくりと身体を起こす。衣服が吸収しきれなかった血液を大量に垂らす。完全に立ち上がった時、ジェノは全身を鉄っぽい匂いで覆われている事を自覚した。次に腰に納められていた剣を手に取ってみると、いつも通りの重さと金属特有の冷たさを感じた。どうやら、指先や呼吸、匂いの感覚も異常はないらしい。物に触る事もできる。つまり、ジェノは何らかの方法で蘇生された事になるが、そうなると疑問が残る。

 扉は閉じられたままだ。つまり外部からの応援ではない。治癒魔法や回復薬を使ったのであれば、もっと丁寧な傷の治り方になるはずだ。痛みも引くだろう。

「どうなっているんだ……? ——うぐっ!」

 歩こうとしたが、不意によろめいてしまい、その場に倒れた。乾き切っていなかった血が飛沫しぶきを上げる。それでもジェノは両手両足で踏ん張り、再び立ち上がる。

「倒れてちゃダメだ……レインは、俺が……俺が、守らないと……!」

 自分に言い聞かせ、気力を保たせながら歩き出す。また足がふらついた時、通路の奥にレインが立っているのが見えた。そのレインは何となく、実体ではないのだとジェノは理解した。その身体は半透明になっていて、向こう側の壁がぼんやりと見える。そして、じっとジェノを見つめるだけで、それ以上何もしない。その振る舞いは、まるでジェノを待っているかのようにも見えた。

 手を伸ばし、やっとの思いでその透けた身体のすぐ近くまで近づけた時、レインは通路を曲がって先へと向かって行ってしまった。よろめく足と、しっかり立て付けられた壁でどうにか身体を支えながら、その影を追う。

 通路を進み、時には曲がり、レインは明らかにジェノを誘導していた。それが敵の罠なのかどうかはわからない。だが、姿を消した2人の手掛かりになり得るのもそれしかない。ジェノは表情を痛みで歪めながらも、気力と小さな希望を抱く事で耐え忍んでいた。

 レインの影が、ある部屋の扉の前で姿を消した。最後に扉を開けて中に入るような動作をしていたので、恐らく「入れ」という意味なのだろう。

 最後に扉の前で傷口を押さえながら、その扉の取手に手を触れる。何かを仕込まれているわけでもなく、いとも簡単にその扉を開けられた。その先の景色は、この場所に来てからレインと合流した部屋とほとんど同じ構造をしていて、何か特別な印象はなかった。しかし、その机の上に置かれた薬品を見て、ジェノは顔色を変えた。回復薬だ。昔、家にあった魔導書の中で見た事があった。

 これを使えという事なのか、あのレインの影は罠ではなく味方なのか。同時に様々な疑問が浮かんだが、そんな事は考えていられなかった。ジェノは薬を手に取ると、半分をその傷口に流し込み、半分を飲み干した。みるみる内に傷口や疲労感が癒やされていき、まもなく万全な体制になった。

「これで戦える……」

 痛みが引き、必死に掴んでいた意識がはっきりとする。先程までの満身創痍の状態が嘘であったかのように身体が軽い。部屋の出口に目をやると、またレインの影がジェノを見つめていた。すぐにそれを追いかけ始める。治療のおかげで、先程よりも素早い疾走でその影を追える。それに合わせて、心做こころなしか影も移動を早くしている気がしたが、それに関して支障はなかった。

 影が駆け抜けるのに合わせて、通路に並ぶ照明が不規則に、激しく点滅する。何かただならぬ気配を感じさせるが、ジェノの思考にそんな事を気にする領域は残っていない。今はただ、守りたいもののために走るだけだ。影が再びある部屋の前に立ち止まった時、ジェノは心の何処かに引っ掛けていた疑問を口にした。

「お前は……レインなのか? いや、違うよな。よく似ている気がするが、少し違う……何者なんだ?」

 突然呟かれた問いを耳にしたのか、影がゆっくりとジェノに向き直る。ジェノもそれに合わせて減速し、足を止める。レインがジェノの目を見たが、何かを言う事もなくただ、横に首を振った。答えるつもりはないのか、はたまた答えられないのか。それ以上の判断がつけられないが、その覚悟に満ちた目から、助けたいという意志だけは鮮明に感じられる。ただ、ジェノにはその姿をどこかで見た事があるような気がした。

「そうか。……この先に、レインがいるのか?」

 影は力強く頷いた。ジェノが真剣な表情になり、扉に手を触れる。それを勢いよく開くその前に、影に向き直って伝えたい事を伝えた。

「分かった。お前が誰なのかは知らないが、とにかく助かった。ありがとう」

 安堵の表情を見せ、影が姿を消す。ジェノは1度深呼吸をして、扉を開ける。攻撃に備えて、警戒心を非常に大きく向上させて声を上げた。

「レイン!」


  * * *


 レインとカルロが、部屋の中に置かれた机の横にある椅子に向き合う形で座っている。レインは非常に物静かで暗い表情をしていて、カルロは不気味な笑みを浮かべてその様子を興味深そうに、観察するように見ている。互いに言葉をかける事もなかったが、カルロの方からその沈黙を破った。

「さて、そろそろ僕の協力をしてくれないかな。ちょっとだけ噛み付くだけで良い。それで全部が終わるんだ。簡単だろう?」

 説得をしても沈黙を貫いたままで、何も反応を見せない。カルロは溜め息を吐き、頭を軽く掻き回した。今のところは多少の想定外があったが、全て持ち直している。あとは実行に移して貰うだけで完成する。それなのに肝心の人物が動こうとしない。かと言って、このような精神状態では強行手段に出る事も現実的ではないだろう。カルロがもう一度溜め息を吐く。その瞬間、扉がかなりの勢いで開く音がした。

 2人は反射的にその方向に顔を向ける。カルロは驚愕で目を丸くした。

「レイン!」

「な、何故……!? お前は、確かに殺したはずだろう!? その傷まで……どうやって治したんだ!?」

 酷く狼狽しているカルロの横で、レインがわずかにその目に光を灯す。自分が見ている光景が本物なのか、自分自身を疑った。夢では無いかと疑った。だが、この手の感触や潤む目の感覚は本物だ。瞬く間に、涙が溢れ出す。

「……ジェノ……?」

「居たな、レイン」

「私……、私は……」

 何を言えば良いのか分からない。これが果たして現実なのか、幻影なのかも分からない。そこで、ジェノは小さく微笑みかけた。先程の状態が嘘のような、至って健康で正常なその心身が、レインを落ち着かせた。

「大丈夫って言ったろう? ……今度は離れるなよ」

 確かに彼は大丈夫だと言った。何の奇跡だろうか、だがそんな事はどうでも良い。今は彼と再び会う事ができた事を喜んだ。

「——うん、……うん!」

 レインが涙を溢しながら、ジェノの元まで駆け寄る。ジェノに触れる手の感触や、温かい体温は偽物ではない。カルロはさらに焦った様子を見せながら、杖を向けた。即座に攻撃を仕掛けるなどと言った真似はせずに、情報を聞き出す事を優先した。

「ふ、ふざけるな! こんな事があるはずが無い! だいたい、どうしてこの場所が分かったんだ!?」

 ジェノは何も答えなかった。意識を取り戻させた人も、導いた人も、既にこの世にいないのだ。伝えたところで分からないだろう。

「終わりにしよう」

 剣を鞘から抜かないまま、カルロに向けた。

「ねぇレイン。どうしてそんなに彼に執着する必要があるんだい……?」

 カルロの問いを聞いた時、レインの脳裏に様々な思い出が映像として、フィルムのように流れていく。それらを一通り思い出した時、その顔が満ち足りているような、とても晴々とした妖しい笑みになった。

「だって、私を助けてくれたのは、ジェノだけだった。ジェノなら信じて良いんだって思えたの」

「う、嘘だ! だって、僕は……君がずっと探し求めていた存在意義や静かな暮らしを初めて与えたじゃないか! 取引とはいえ、僕だって君の助けになった! 何が違うんだ!?」

 カルロが声を荒げる。その苛立ちは涙となってその目から溢れ始める。内心では、何処かで諦めの感情が湧き始めているのだろう。途中から声の震えを自覚しつつも、半ば自棄やけの状態で思いつく限りの声を絞り出していた。

「違う……。あなたの思う助けと、私の望む助けは違った」

「そんな……僕は……」

 レインがジェノの腕を手に取り、そしてそれを顔の前に持って行く。今にも消えかかりそうな声色をしていたカルロは、それを見た瞬間にさらに大声で叫ぶ。ジェノは目を丸くしながら、思考が追いつかずに動きを静止させていた。

「……待て! それだけはダメだ、待ってくれ!」

「私は最後まで……あなたの思い通りには動かない」

 腕に2本の牙が突き立てられ、皮膚を食い破る。痛みと同時に腕の内部から何かを吸い出される感覚と、同時に何かを注入される感覚がして、ジェノは顔を歪ませた。腕に入れられた何かが熱を発する。その熱が全身へと駆け巡っていき、その熱が何らかの変容をもたらしているかのような不思議な感覚に見舞われる。レインが口を離すと牙から血液が垂れ、腕の傷口から中途半端に吸われなかった血液が流れ、肘を伝って床に落ちる。

「……あ」

 カルロが掠れた声をたった1つ、ほんの一瞬だけ漏らした。自分の目的を達成できないという事を理解した絶望。今までに組み立てた計画が無駄になった喪失感。何でもない、ただの少年に計画を無駄にされた怒り。様々な感情が襲ったが、どれを優先するべきかが分からずに放心状態で佇んでいた。

「あ、ぁぁぁあああああ!」

 カルロが叫び、杖に魔力を込めて乱射した。ジェノがそれを察知し、即座にレインと共に床に伏せてそれを避ける。レインはジェノの雰囲気が微妙に変化しているのを見て、確認の意図でその名前を軽く読んだ。

「……ジェノ?」

 ジェノの片方の目が赤くなり、髪の一部分が真っ白に染まっている。ヴァンパイアの特性の一部を引き継いだ容姿をしている。実際、人間を変異させたのも、変異させられた人間を見るのも初めてであったレインは、その変化を見て若干の驚愕を覚えていた。

「俺は大丈夫だから、心配しないで。……それと、こうなったのはレインのせいじゃない。俺が助けたいと思っただけ……気負いすぎないで良いからな。……こいつは俺が何とかするから、レインは隠れていろ。いいな?」

 レインは一瞬だけ目を見開いて、立ち上がりカルロに向かっていくジェノを見た。向けられた攻撃を紙一重で躱し、カルロの側面に回り込む。カルロは手数で押し切ろうとしたが、ジェノはそれを見越して杖の先端に剣の鞘を押し付けた。かすかに加えられていた魔力が炸裂し、お互いの武器を弾き飛ばす。これで2人とも丸腰になった。

 ジェノが先制で拳を振りかざす。カルロは右手でその攻撃を受け止めると、それを利用して腕を捻る。それによって体勢を崩す寸前、ジェノはもう片方の手でカルロの髪を掴んでいた。捻られると同時に、カルロの髪の毛が振り回される形で強く引っ張られた事で、カルロは怯んだ。ジェノはそのまま床に勢いよく倒れたが、受け身を取って衝撃を和らげられた。床に倒れたジェノを見逃すまいと、足が頭部に向けられる。それを転がって回避すると、その勢いを利用して素早く立ち上がった。

 カルロは立ち上がった一瞬の隙を逃さず、ジェノの頭部を鷲掴みにした。そのままの勢いで共に床に倒れる。ジェノは後頭部を何とか守ったが、代わりに背中を強く打ち付けてしまった。カルロは馬乗りになって追撃で殴り掛かろうとしたが、ジェノの上に乗られる前に膝で蹴り飛ばされ、それは失敗に終わった。

 再び2人が立ち上がり、体勢を整える。一呼吸だけ置かれた後に、また攻撃の差し合いが始まった。敵の拳を腕で受けては隙を見て反撃を試みる。両者の息はとっくに上がっており、若干の疲れが現れ始める。互いにそれを理解しており、それを突こうと思ったが、自身の動きは鈍くなっていて、狙う事は難しかった。

 しかし、ジェノは無理に治療した分のダメージや違和感が微妙に残っているため、どちらかといえばジェノの方がこの戦いでは不利だ。その証拠に、体力の消耗がカルロよりも大きくなっているように見える。

 その一瞬をカルロはまた見逃さなかった。今度はジェノを掴み、机に押し付ける。机の角にジェノの首の付け根あたりが当たる。歯を食いしばって痛みに耐えながら、ジェノは必死に抵抗した。カルロの手は止まらず、一撃がジェノの顔面に叩き込まれた。鈍い音が響き、嫌な痛みがジェノを襲った。それだけでは終わらず、何度も拳で打たれる。

 ジェノが近場に立てかけられた瓶を掴み、それでカルロの耳元を殴る。ジェノ自身も必死であったので、何を掴んだのかわかっていなかった。瓶が砕け、その破片がカルロの顔面とジェノの手に突き刺さる。ジェノは興奮状態で、その痛みをほとんど知覚できなくなっていた。そのまま、破片が刺さったままの手で、破片が刺さっている方の頬を力の限り殴りつける。カルロはその時、初めて呻き声を上げた。ジェノの手も、カルロの頬も、両方とも破片が深く食い込んで流血が止まらない。ジェノが追撃で何度も攻撃をしたが、その度にどちらのものか分からない血液が飛び散る。

 6発程度殴った時、ジェノはその時に自分の手の痛みに気付いた。思わず攻撃の手を止めてしまう。カルロは既にボロボロの状態であったが、そこでも冷静な判断力を失っていなかった。その隙を突いてジェノを押さえ込みながら、地面に倒れた。今度は既に馬乗りになっている。周辺に抵抗に使えるものもない。消耗も大きく、それを振り払う手段はジェノには残っていない。待っているのはいくつもの一方的な攻撃だ。

「よ、よくも……僕を……ここまで、追い詰めたな……だが、終わりだ……!」

 血塗れの状態からは予想できない力で、ジェノの顔面に拳が打ち込まれる。意識が奪われ始め、身体中に上手く力を込められない。何度も、何度も殴られる。いっその事、気を失ってしまえば楽になれるだろうが、ジェノは意識を離さなかった。

「お前が……僕を、こ、ここまで……台無しに……!」

 カルロは怒りを原動力にしていた。ジェノはもう抵抗できず、次の一撃を耐えられるかも怪しいだろう。そして振り上げられた拳が叩き込まれる時、カルロの心臓部を一筋の光線が貫いた。

「——え……?」

 左胸に開いた大穴から血をどくどくと流れ始める。表情が消えたその目で、心当たりのある人物の顔を見た。

 レインが杖を向けていた。覚悟を決めた目をしていた。明確な殺意。迷いを捨てた意志。そして、守り抜くべき希望……それらに灯された、冷たくも明るい眼光をしていた。

「……僕は……甘く見過ぎていたのか……?」

 走馬灯。意識が遠のいていく中、カルロはそれを見た。彼女との出会い。それから夢中になっていった研究や、彼女との会話。それらの光景がいくつも思い出されては消えていく。

(……おかしいな。僕は、勝っていた。……もう少しだった——なのに)

 レインに目を向けると、もう自分には意識を向けておらず、ジェノしか眼中にない様子だった。視界が霞み、世界から色が消えていく。身体中から力が抜けていき、全ての感覚が奪われていく。瞼が重い。眠気に近い何かが襲ってくるが、抵抗もできずにカルロは目をゆっくりと閉じた。

(ああ……なんて……冷たいんだ……)

 カルロが倒れる。涙と血で濡れたその顔は、既に死んでいるものだった。レインが杖を握る腕を脱力させ、だらんと垂らしてジェノが倒れている場所まで歩いていく。意識が朦朧もうろうとしているジェノに手を伸ばした。ジェノははっきりとは見えなかったが、何となく、そこにいるのはレインだろうと理解してその手を取った。もちろん、破片が突き刺さっていない方の手を伸ばし、その手に触れた。

「レイン、助かった……こいつを殺したのは、レインだよな?」

「あ……わ、私は」

「確かにお前は人を殺した。でも、それは俺も同じだ。ここに来る前に何人か、ね」

 レインは黙った。どういう言葉を返すのが正解なのかが分からない。沈黙を貫いて次の言葉を待った。妙な気まずさを感じた。少しだけ待つと、ジェノがやっと続きを口にした。

「——でも、それは間違いなんかじゃなかったな。確かにそれは、誰かを守るための殺しだった。私利私欲のためとかそんなものじゃない。誰かのために、人の命を奪う覚悟を決めた——それは大きな進歩だと思うんだ、俺は」

 続きを最後まで聞いてもなお、どのように答えるべきか分からなかった。何の反応もする事なく、ただ表情を若干緩めて、その言葉を聞いていた。ジェノは傷だらけの身体を起こしてレインに微笑みかけた。レインはその顔を見るなり、心の何処かで安堵した気がした。

「ありがとうな、レイン」

「……こっちこそ、ずっと助けられっぱなしだった。ありがとう……でも、私は魔族だって分かったのに、どうしてジェノはそれでも助けてくれるの?」

「……お前は妹の仇じゃない。レインはレインだよ。それに——……何でもない」

 意味深長に言葉を詰まらせたのを不審に思ったが、レインは追及しなかった。彼の問題に不用意に首を突っ込む必要はない。話を切り替えようと、新たな話題をあれこれと考えていたジェノはその時、未解決のままであった問題を思い出した。途端に大きく慌てた様子でそれを話し始める。

「しまった! あの扉を開ける方法ってどうするんだ!?」

 レインもはっとした様子でいる。どうやら彼女も覚えていなかったらしい。外に出る方法を模索しようにも、手がかりはもう残っていない。その方法を知る人物は目の前で命を落としていまっている。

「……そういえば、レインは最初にここから逃げ出した時はどうしたんだ?」

「初めて捕まった時は、ここじゃない場所に連れて行かれたから……何も参考にならないと思う」

「構造も似たようなものではなかったのか?」

「全然違うものだったけれど、その時はそこの管理人が出入口を開閉させてた……ここでも同じ仕組みがあったとしても、この人はそんな事をした様子もないし……」

「じゃあ、こいつが何か隠してたりするかな? ……死体を弄るのは気が引けるが」

 ジェノがカルロの死体の全身をまさぐる。服の内側に縫い付けられたポケットの中に、何か固いものの感触を感じた。その瞬間、ジェノがにやりと口角を上げる。

「……ビンゴ!」

 中身を引きずり出して見ると、それは四角い箱のような、ボタンが取り付けられた物体だった。箱の側面には『転送用魔法陣部屋・出入口開閉』と書かれていた。念の為に他にも何か隠していないか調べて見たが、これ以外は何も持っていなかった。部屋に残っていた治療薬を使用し、1本だけ余分に持ち出した後、ものは試しという事で、魔法陣のあった場所まで小走りで戻っていく。そこで乾き切っていない血の海を見たレインは、何とも言えない表情をした。

「血だらけ……ジェノは大丈夫なの?」

「ああ、理由はよく分からないけど、大丈夫だった」

 小首を傾げるレインを横目に、おもむろにスイッチを出すと、固く閉ざされた扉に向けてボタンを押す。それから間も無く、重厚感のある低い音を響かせながら、扉がゆっくりと開いていく。後は魔法陣を起動させさえすれば外に出られる。だが、そこで1つ疑問に思う事があった。

「シモン達は……? 扉が開かないから、ここで足止めされていると思っていたな」

「分からない……あの人たちもここまで来る予定だったの?」

「ああ。魔法陣を起動させたのはヴェイルだ。全員がいたけど、援軍が来たらしくて俺しかここに来れなかった……これは少し急がないと。レイン、できそうか?」

 レインが魔法陣に手を触れる。その直後、魔法陣がかすかに光を灯した。

「……少し時間がかかるかも」

「分かった。ありがとう」

 もう2度と使うことはないだろうと、ジェノがそのスイッチを血の海に投げ込む。大きな飛沫しぶきを上げ、白い箱であったはずのそれが赤黒く染まった。改めてそれを見た時、この血の海を作ったのは自分の血である事を理解し、わずかな恐怖を覚えた。

「……ジェノ、起動できた!」

「ああ」

 レインの呼びかけに応じて、ジェノが魔法陣の方に向き直る。その光は完全に起動していることを示していた。あの時、ヴェイルが起動させた時よりも強く輝いているようにも感じられる。レインがジェノの手を握った。それに驚いてレインの顔を見てみると、無邪気に微笑んでいた。思わず顔を逸らしてしまった。

「はぐれないように、だからね?」

「……ああ」

 2人が同時に魔法陣に足を踏み出した。


  * * *


 効力を失った魔法陣の上に立っていた2人は、我に返った瞬間に異常な光景を目にした。一面が血の海だった。それも衛兵の死体で埋め尽くされている。鎧は粉々に砕かれ、その惨状から察するに、その攻撃には一切の躊躇ためらいや容赦が感じられない。予想外であったその光景を前に、ジェノはひたすらに困惑する事しかできなかった。レインは口元を手で覆い、言葉を失っている。

「なっ……? 一体、何が……?」

 その時、森の奥から2人分の人影がゆらめく。ジェノが酷く警戒した様子でそこに注視した。雨が激しく、その姿を捉えにくい。互いを認知できる程度に近づいた時、ジェノは顔をしかめた。そこに立っていたのはシモンとパドロだけだ。

「おい、ヴェイルは?」

 2人は答えなかった。ジェノはシモンの両肩を掴んで揺さぶり、若干声に威圧感を含めて問いただす。そこでやっと観念したようにシモンは言った。とても暗い表情と声だった。

「お前、ジェノか? ……生きてるよ、ただ……重傷だ」

「どういう事だ?」

「あいつら、何を血迷ったのか兵器を出してきた。ヴェイルは俺を庇って、代わりに傷を負った。クソ……兵器はぶっ壊したが——」

「それなら、薬がある。今は何処にいるんだ?」

「何? 本当か?」

 パドロが食い気味にジェノの言葉に突っ込んだ。取り出してみせた薬を見てみる。それは確かに本物の治療薬だ。シモンには理解ができなかったが、パドロは実物を見た事があったのですぐに分かった。それを見るなり、すぐにパドロが手招きをしながら森の中を駆ける。

「こっちだ!」

 レインも3人の移動に気が付くと、すぐに追いつこうと走り始めた。

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