第7話 変化

 レインが真っ白な世界の中で目を覚ました。身を起こすなりすぐに頭を激しく振るように周辺を見渡した。

 ——すぐそこに、ジェノが立っている。

「ジェノ……? ねえ! ……ジェノなの?」

 ジェノは無言のまま振り返り、どこかへと歩き始める。レインが手を伸ばし、その背を追いかけた。ジェノはレインの事などお構いなしに、早い歩行速度で移動し続ける。レインはそれに追いつける気配を感じられず、縋るように後ろから懇願した。

「ねぇ、ジェノ! 待って! 待ってよ……」

 ジェノは反応しなかった。振り返ったり、何らかの言葉を返したり、その動きをわずかにでも鈍らせたりする様子もない。精一杯で追いかけている内にジェノの姿が段々と小さくなっていく。レインは走ろうとしたが、自身の身体の中の何かが抵抗するように、まるで走ろうとしない。

 ある時、突然歩を止めたジェノが振り返る。どこか穏やかな表情でレインを見た。その姿は霧のようにおぼろげになり、やがてその真っ白な空間と完全に同化して消えた。

 最後にレインは1人で立ち尽くす事になった。困惑の感情が大きかった。何の音も残らない。今のこのマインドルームを形容するに相応ふさわしい言葉は「虚無」という単語以外に存在しないだろう。

 マインドルームはレインの心を落ち着けるために作られた空間だ。しかし、今のその場所はまるでその役目を果たしていない。この状況で不安を拭い切るなどできないのだ。逆にレインに心苦しさでさえ感じさせる事でさえも起こってしまっている。その奇怪以外に形容し難いこの状況を前に、レインは大きな焦燥と胸が締め付けられるような緊迫感を感じた。

「やあ、レイン。来ていたんだね」

 狐面がいつの間にか、レインの目の前に現れた。レインが咄嗟に警戒するような視線を送ったが、狐面は動じなかった。異様なほど冷静沈着だった。

「……何か知っているの?」

「少しだけ。ただ、これを起こしたのは私じゃない」

「どういうこと?」

「君が不安を抱える時、ここに来るって前に言ったよね?」

「……確か、言ってた」

「君は内心思っているんじゃないかな。『もうこの場所は要らないんだ』ってね」

 レインが俯き、黙り込んだ。肯定はできない。同時に否定もできなかった。先ほどジェノの姿が出てきたのが何よりの証拠なのだろう。この場所に来て最初に望み、姿を目にしたのはあの穏やかな世界でも何でもなく、ジェノだったのだ。それを見透かした上でか、狐面は優しく諭すようにレインに尋ねる。

「……でも、同時にこの世界を手放したくないとも思っている。違う?」

 レインは答えなかった。

「その葛藤の現れがこの中途半端に構築された世界。私は、本来マインドルームの中でもこの白い場所には来るはずがなかった」

 狐面が仮面を外した。その顔はレインの姉……その名を「エール」と言う。

「お姉ちゃん……」

「レイン。君がこの先へと進むのであれば、これは必ず決断しなければいけない。君はどちらかを選ばなければならないと考えている。それが今、この世界がこのような姿になっている理由。でも、今その決断が遅れてしまえば、もうすぐ迎える大きな戦いの中で……その後ろめたさが枷となって間違いなくレインを殺す」

 エールがレインを正面からまっすぐに見た。

「決めるの。自分を守るために。……ごめんね。私だってこんな事を訊くのは酷な事だってわかってる。でも、これ以上悩む時間は無いの。残っているのは、ほんの少しの猶予だけ」

 レインは息が苦しくなる感覚を覚えた。怯えや恐怖に打ちのめされているような、そんな表情と息遣いをしていた。確かにエールが言った通り、レイン自身は姉への思いに対する執着に終止符を打たなければならないと考えている。同時にこのマインドルームに残した姉の姿を失う事に不安を覚えている。それは自分が愛していた姉の姿を忘れる事を肯定しているようなものだと感じるからだ。

 どんな理由であれ愛した者を切り離すのは苦痛でしかない。だが、それに執着し続けても自分自身が前に進む事には繋がらない。苦痛を受け入れる以外に、前に進む方法は無い。その事実が余計にレインを締め付けるように苦しませる。

「まだ乗り越えられていないんじゃない? 私が死んでいる事実を」

 周辺を照らす光がなくなり、次第に暗闇に飲み込まれていく。音がくぐもったように聞き取りにくくなり、自分自身の心臓の拍動だけがはっきりと耳に残る。暗闇の中ではっきりと見えるエールの顔はどこか恐怖を覚えさせる。その顔に完全な敵意などはない。それが余計にレインから落ち着きを奪った。

 胸元が苦しくなり、今にも破裂しそうな気がする。声も出せなければ、目尻に涙が溜まっている感覚すらある。必死に酸素を取り入れようと呼吸が深くなる。まるで目が震えているように、エールを直視することができない。

 レインの手にあの時の、エールが死に行く時の感触が蘇る。自身の腕を流れる血。次第に失われる体温。力を失っていく姉の身体。レインの指先が震え始め、塞ぎ込んでしまった。

「君は本当にここを捨てられる? 自分を許せる? その勇気は本当にあるの?」

 エールが核心をついた疑問を投げかけてくる。レインはその事件に関して、ずっと後悔をしてきた。思いを捨てきれずに引きずってきた。そしてその思いすら直視できなくなって作られたのがこの世界なのだ。そして今も、自分はこの世界にいる。それは捨てきれない後悔の念が、足枷としてレインを縛り続けて来た事の現れでもある。今のレインに、それを解放させるほどの精神力は備わっていない。

 ……だが、それも自力であればの話だ。

 レインはジェノの言葉を思い出した。


 ——別に、その人もレインが自分を責めるために助けたわけじゃない。大切な人に守られた命なら、それは無駄にしないべきだ。


 レインにも自らの姉の思いは分からない。しかし、姉は最後の時まで優しかった。それだけは何者にも否定できないたった一つの答えとしてそこにある。

 彼女は私がずっと後悔する事など、望んでいるのだろうか。そんな疑問がレインに浮かんだ。答えは一つだけだ。その自問に答えるまでに、迷いはない。己の命が消える最後の瞬間まで妹の身を案じて死んだ姉が、そんな事を望むはずが無いのだ。

 レインが深呼吸をしてゆっくりと息を整える。辺りの暗闇は晴れ渡っていき、元の姿を少しずつ取り戻していく。エールの姿を目に映しても、もう大きな恐怖は感じなかった。不意にジェノの姿が思い浮かび、目の前に現れた気がした。ジェノはレインとまっすぐな視線で向き合い、思い切り笑って見せた。それは何よりの「進め」の合図だった。一気にレインの息苦しさが落ち着き、意を決したようにエールの目を見つめて口を開く。

「苦しいけれど……そうだよね。お姉ちゃんは、ずっと優しかった」

「覚悟は決めたんだね?」

「ええ」

 レインの言葉を聞き、エールは嬉しそうに微笑んだ。以前にマインドルームで出会ったジェノの顔を思い出し、安心したように溜め息を吐いた。

「そうだね。確かに彼になら、任せられるかな」

 レインの意識が遠のいていき、同時にエールの姿もおぼろげになる。最後に見えたその顔は、どこか寂しそうな微笑みだった。それでも、レインにはそれが吹っ切れたような穏やかな面持ちにも思えたような気がした。

「残る問題はあと1つだけだね。でも、それも君ならきっと乗り越えられるはず。——さようなら。私の可愛い妹……」


  * * *


 次にレインが目を覚ましたのは無機質な印象を受ける部屋の中だった。部屋は広く作られており、実験室のような雰囲気を感じる。レインはその景色を見るよりも先に夢の中で見たエールの顔を思い出した。やらなければならない。そう思った。

 無機質な光景とは似つかわしく無い、寝心地の良いベッドから身体を起こすと、そこには白衣を着て何らかの作業をしているカルロがいた。レインはどういう経緯であったかは覚えていないが、どうやら眠らされていたらしい。

 カルロの手元には緑色の薬品が入った丸底のフラスコと空の試験管がある。ちょうど薬品を試験管に移しているところだ。何の薬品で、何の用途かは分からないが、レインにはそんな事など些細な問題でしかない。

 とにかく外に出て、ジェノと会いたい。それがレインの立てた当面の目標だ。

 レインが目を覚ました事に気付いたカルロは、薬品入りの試験管を手にした状態のままでレインに近づく。

「目が覚めたんだね。あぁ、これは別に気にしないで。ただの治療薬だよ。……どうしたんだい? 何か、こう……君の目が、少し明るくなったような気がするけれど?」

「……ここから出して。その為なら、あなたと戦う事も躊躇ためらわない」

 カルロは試験管に入った治療薬を飲み干そうとしたが、レインの言葉に危うく吹き出しそうになった。軽く咳き込みながらもレインを見下ろし、その思惑を尋ねる。

「ゲホッ、ゴホッ……ええっと……? 一体どういう風の吹き回しかな。レイン、君はそんなこと言う人じゃなかったじゃないか。変な夢でも見ちゃったのかい?」

 カルロは平静を装っていたが、内心では深く困惑しながら思案していた。

(この子に何が起きたんだ……? 人格がまるで入れ替わったような、不気味さを感じる。しかも僕と敵対する気だ。返答を間違えたらまずいかな、何がきっかけになったんだ?)

 レインが鋭い眼差しでカルロを睨む。カルロがそれに怯む事はなかったが、その代わりにさらに大きく困惑した。そんなカルロに、レインは冷たく問いに答えた。

「違う。これは私の意思だよ」

「……それは無理かな、レイン。僕を殺しても、説得しても、ここから出る事は叶わないんだよ。僕にも目的っていうのがある。そのためには君が必要なんだ。大丈夫、僕は君に危害を加えない」

「あなたなんかに必要とされたくない」

 カルロの声にも動じず、レインははっきりと拒絶を口にした。全く意思を曲げないレインにカルロはわずかにたじろぐ。

 それからカルロは、突如として豹変した様子でレインの両肩を掴む。その力は焦りによって制御できておらず、とても強大な物だった。いきなりのことに、レインは反応できずに避けられなかった。カルロの顔がレインに急接近する。互いの吐息がかかるほどの距離だ。レインは怯えと驚きで動く事ができない。

「何故だ……どうして僕以外を、選ぼうとするんだ……!? そしたら、僕は! ……もう完全ではいられなくなるじゃないか! 僕は、僕は……ッ!」

 情緒不安定な男の様子をレインは引き気味で見ていた。もはや交渉などできる精神状態では無い事は言うまでもなく理解できる。どうしたものかとレインが考え始めた時、部屋の扉に何かが何度も叩きつけられるような、とても鈍い音が鳴り始めた。レインはすぐに思考を中断して扉に注目する。

 扉の向こう側から声がする。それはレインが求めている声だった。ただ、扉は鉄製だ。鍵もかかっている。声はとても小さく聞こえるが、向こうではかなり大声で怒鳴るように話しているのだと何となく分かる。

「おーい、レイン! いるのか!? ……あれ、開かないのかよ! 何でここだけ鍵がかかってるんだ!?」

「ジェノ……? ジェノなの!?」

「あ!? 居るのか! ここ、何とかして開けられないか!?」

 ジェノの声を聞いたカルロが若干項垂れながら立ち上がる。そしてその扉の先にいるであろうジェノを睨んだ。

「そうか……君なんだな。お前さえ……お前さえいなければ……!」

 カルロが杖を握り、それを扉に向ける。その瞬間、レインが必死になって叫んだ。

「伏せて!」

 それから2秒も経過しない内に扉が自動で開かれ、同時に魔法弾がその先を駆け抜けた。レインの指示通り反射的に伏せていたジェノは無傷でそれを凌ぎ、即座に部屋の中に転がり込む。カルロは苛立った表情で舌打ちをした。

「チッ……生きてるか」

 ジェノが剣を繰り出し、カルロが向ける杖を弾く。先端に中途半端に溜められた魔力が行き場を失い、その場で小規模の爆発を起こし、ジェノの剣が明後日の方向へと弾き飛ばされる。同時にカルロの腕もそれによって大きく弾かれる。その遠心力を得たカルロはそのまま一回転してジェノの右胸を目掛けて裏拳を振りかざす。ジェノは咄嗟に身を屈めてそれを避けると、回転の軸となった左足に足払いをする。カルロは体勢を崩したが、すぐに右足で踏ん張って転倒だけは防いだ。

 ジェノが間髪を入れずに拳を振るうも、カルロはそれを簡単に受け、それを払い除けた。それによってジェノは両腕を大きく外に広げる形になり、胴体ががら空きになってしまった。カルロが不気味な笑みを浮かべてその胴に蹴りを入れる。ジェノはそれを避け切れず、右脇腹に蹴りをくらってしまった。

 鋭い痛みがジェノを襲う。苦悶の声を上げて表情を歪めるが、それでも倒れる事はなかった。カルロがジェノの頭を掴む。膝蹴りを顔面に喰らわせるつもりだろう。もしまともに受けてしまえば、ジェノの命が危ない。ジェノは頭を振り上げられたタイミングで足腰に精一杯の力を込める。そして振り下ろしに入る直前に、カルロの胴に頭突きを喰らわせた。

 カルロが唾液を吐き出すほどの衝撃を腹部に受け、目の前の世界が一瞬酷く歪んで映し出される。同時にジェノの頭を掴む力が入らなくなり、その隙を突いてジェノは拘束から抜け出す。そのまま込められるだけの力を込めた拳をカルロの頬に叩き込んだ。

 体幹を大きく崩していたカルロはろくに受け身も取れずに倒れ、部屋の机に背中を強打した。相当なダメージを負ったはずが、カルロの顔にはまだ余裕そうに、不気味な笑みが浮かべられたままだった。

 ジェノがその表情をいぶかしみ、追撃の手を鈍らせる。何か隠し玉があるのか、様々な可能性を考慮して一度自分の息を整えた。その一方でカルロは笑みを崩す事なく立ち上がってみせた。それを見たジェノは眉間にしわを寄せ、もう一度拳を構える。

 カルロが笑った。大声で、嘲笑っているのか、あるいは楽しんでいるのか、豪快に笑う。背筋が凍るような感覚をジェノは覚えた。

 まるで先ほどまでの消耗が全て効いていないと言うように、カルロは軽やかな動きでジェノに再び襲いかかる。ジェノは腹部の痛みを無視した状態で動いていたので、その激痛による消耗で呼吸もとても荒くなっていた。この戦いを見る第三者が、どちらが優勢なのかと言われれば、それは間違いなくカルロの方だと答えるだろう。それほどに2人の状態には差があった。同時に、ジェノにはそれが不審に思えてならなかった。

(さっき相当なダメージを負わせたはずなのに、何でもう動けるんだ!?)

 ジェノにはその答えなど分かるはずもない。なぜなら、その光景をジェノは見ていないからだ。カルロはこのような負傷を予期して治療薬を事前に飲んでいた。1つのきっかけで形勢を逆転させられるように仕組んでいた。

 ジェノが自分に向けられたカルロの拳を避ける。紙一重で何度も飛んでくる追撃を躱し続ける上に反撃の隙がほとんど作れない攻撃の仕方をされているため、ジェノの負担はさらに蓄積されていく。疲労と負傷による消耗で、段々とジェノの動きが鈍っていく。そこで躱し切れなくなったジェノがカルロの拳を掴むようにして受け止め、力が拮抗した時、憎悪の滲んだ目をしているカルロがジェノに語りかける。

「君が、君が僕の邪魔をしなければ助かってたかもしれないのに。何で僕の邪魔をするのかな。それも、まだまだ子供のくせに」

「お前は……俺にレインを知らないとか言ってたよな? ……そのセリフから、気に食わなかった。それなら何でレインはお前を拒む態度だったんだ? お前はレインを幸せにできたのか? ……答えなくても俺には分かる。目的こそは知らないが、お前はこんな幼い子を自分を満たすために利用していただけだ。そこに幸せなんてあるわけがないだろう!」

 ジェノがカルロの拳を強く握りしめる。カルロの手の骨がきしみ、激痛が走る。顔をわずかに歪め、咄嗟にジェノの手を引き離そうとするが、ジェノはカルロの手を離さなかった。強く握られていて、無理に引き剥がす事も叶わなかった。手の骨が潰されるように砕かれた時、ようやくジェノがカルロの手を離した。治療薬の残った数少ない効果で、砕かれた骨は無理やり修復されて腫れも引いていく。

 カルロはすぐに治った手でジェノの髪を掴み、その頭部を床に投げ飛ばした。ジェノはどうにか庇い手をして衝撃を和らげたが、それでも庇い切れなかった衝撃がジェノの頭部を襲った。重症の病気で酷い頭痛を味わっている気分だ。頭の中に霧がかかったように、上手く考える事ができない。カルロは隙だらけになったジェノを掴み、持ち上げる。そして壁に押し付けた。

「全く。本当に、薬を飲んでいなかったらどうなっていたか。ただ、とにかく君さえいなくなれば僕の計画もちゃんと元に戻る。……そう、全部元通りさ」

 ジェノがぼんやりとした意識の中で、抵抗しなければならないと理解していたが、身体が思うように動かなかった。近くに転がってきた小型の杖をカルロは拾い上げ、ジェノの頭部に向けた。

「さあ、今度こそ終わりだ」

 ジェノは目を瞑る。終わりだ。そう思った瞬間、鈍い音が響いた。ジェノには痛みも何もない。ジェノの身体を押さえつけていた力がなくなり、身体が軽くなる。ジェノが必死に足りなくなっていた酸素を吸い込み、咳き込む。顔を上げると、レインがジェノの剣を握りしめていた。鞘から刃は抜けておらず、そのまま殴りつけた形になったらしい。レインの呼吸は荒く、それ以上動こうとしなかった。訓練とは違い、実際に生きている人間を攻撃したのは生まれて初めてだった。

 カルロは硬い床に崩れるように倒れ、めまいと共に朦朧とする意識の中でレインを見た。そして、不安定な体勢でレインに言う。この危機的状況でもカルロは笑っていた。

「は、はは……まさか……君が、本気で攻撃するなんて。僕の、僕の——」

 レインは決意に満ちた目で、はっきりと言い放った。

「私は、あなたのものじゃない……!」

「知ってるよ……でもね、僕の目的のためだ。ずっと時間をかけてきたんだ。君からすればいい迷惑だろうけれど、諦めたくないんだよ……僕の、存在を」

 カルロは机を掴み、よろめく足でゆっくりと立ち上がる。その手にはまた別の杖が握られていた。ジェノはカルロが動き出した時点で既に動き出していた。レインから剣を返してもらっていたジェノはカルロにそれを向けていた。しかし、それはカルロの残した偽物だ。手応えはなく、振るった剣はその影をすり抜けた。その瞬間、ジェノは叫んだ。

「しまった! レイン!」

 カルロがレインの左腕を捕らえた。それを見たジェノは頭の中で考える前に、既に次の行動を決断して実際に動いていた。ジェノは自分自身でも驚くほどの速度を繰り出しながら、即座にカルロの側面に回り込み、剣を利用してその脇腹に一撃を叩き込んだ。

 今度は実際に命中したようで、確かに何かを殴った感覚が手に伝わった。レインの腕からカルロの手が離れる。ジェノはレインを反射的に左手で庇い、右手の剣の鞘でカルロの腹部を突いた。カルロが何の声も上げずにその場にうずくまる。それでも立ち上がり、杖を向けようとするカルロの杖をジェノは足で蹴り飛ばした。

「まだ戦う気か? ……これ以上はもう無駄だろう。戦う意味なんて無いんじゃないのか。でも、最後にこれだけは教えてくれ。一体どういう事なんだ? お前の計画も分からなければ、レインに何故そこまで執着するのかも分からない」

 未だ戦闘を継続しようとしていたカルロが、ジェノの言葉で動きを止めた。

「へぇ……? レイン、君はずっと黙っていたのかい。悪い子だなぁ」

 レインが思い詰めたように厳しい顔つきになる。ジェノはそれを横目で一瞬だけ見た時、何となくレインが抱えている問題は姉の問題だけではないのだと思った。

「じゃあ、君に教えてあげようか? レインの正体を」

 その言葉を聞いた瞬間、レインはそれに抵抗するように声を上げた。

「ダメ! ……ダメ……」

「おや? なんで隠そうとする必要があるんだい? ……ああ、なるほど。嫌われるのが怖いのかな。なんたって君は『魔族』だもんね」

 妙に辺りの空気が重くのしかかり、レインは黙り込んだ。その表情には絶望に近しいものがある。あの日、ジェノから魔族が嫌いだと聞いてからずっと隠したかった事実。それを言われてしまった。恐る恐るでジェノの顔を見る。ジェノはレインをなんとも形容し難い表情で見ていた。レインにはどういった感情であると捉えるべきか、判断がつかなかった。

「……魔族の中でも、君はヴァンパイアに属している。ヴァンパイアは非常に美しい容姿をしていて、いい伝えにあるような日光の弱点とかはないんだってね。……それはともかく、噛みついた対象の血液と自分の特殊な体液を融合させる事で、相手に相当な長さの寿命を与える事ができるのさ。本人はほとんどノーリスクでね。だけど、それはそれぞれの個体につき1回が限度。変異した相手にもその能力は無い」

 説明が続けられる中、ジェノはほとんど放心状態でいた。自分が嫌っていた魔族の1人がレインであることなど、信じたくなかった。そんなジェノの視線を浴び続けるレインが小さく震え出した。呼吸も荒くなっていく。

「最初の1回。それさえ手に入れる事ができれば、僕は完全を維持できる。たったそれだけの事なんだ。僕の計画はそれで終わる」

「そんな、どういう事だ……?」

 ジェノがレインをもう一度見た。その視線が刃物のようにレインに突き刺さる。

「……ごめんなさい、ジェノ」

 レインが突然走り出し、部屋から飛び出した。

「ちょっと、待て! ——クソ、どうなっているんだ!?」

 ジェノがそれを追いかける。カルロは不気味でない自然な微笑みを浮かべながら、大人しくそれを見送る。近場の椅子に腰掛けると、不意に思い出したように、部屋の片隅に残っていたもう一本の治療薬を口にした。


  * * *


 レインがひたすらに無機質な廊下を駆け抜ける。計り知れない恐怖がレインを襲っているが、今のレインではどうしてもそれを払拭することはできない。

「レイン!」

 追いかけ続けていたジェノがその名を叫び、やっとの思いでレインの腕を掴んだ。今にも泣き出しそうな顔と声をして、レインは振り向く。ジェノは真面目な表情をしている。それがレインにとって怖かった。……いや、恐らくジェノがどんな顔をしていようとも、何らかの理由を付けて恐怖しているだろう。

 ジェノに何を言われるのか。自分の命が狙われてしまうのか。そんな事など、今となってはレインにとって些細な疑問だった。何よりも、ジェノという味方を失ってしまうのが怖かった。そんな状況など、考えた事もなければ考えたくもなかった。ずっと独りで居続けた彼女に手を差し伸べてくれた、希望だったのだ。それが潰える現実など、見たくはなかった。

「レイン——」

「いや! いやだ! 聞きたくない! お願い、お願い……」

 レインは首を何度も横に振った。必死だった。張り上げていた声が次第に弱々しくなっていく。やがてその声は嗚咽に変わった。

「お願い、やめて……」

 レインは恐怖した。ジェノは魔族が嫌いだ。彼の大切を奪ったものと自分は同類なのだ。例え自分が聞きたくなかったのだとしても、ジェノは言わなくてはならない。そして自分にはそれを聞かなくてはならない義務がある。もしかすれば、何も言わずに自分を殺すのかもしれない。今まで隠してきた自分にも責任がある。そうなるのも報いなのだろう。

 レインの腕を掴んだままジェノは動かない。嗚咽と共に、涙も拭わずに力無く立っているその姿をじっと見つめるだけだ。その視線でさえも恐怖の対象なのだろうか、ジェノと一切目を合わせようとしない。それを見かねての事か、ジェノは剣を手にした。その瞬間、レインの震えが一層酷くなった気がした。

 レインは死を悟った。やはりこうなってしまう運命だったのだと感じた。そうしてレインが終わりを待ち続ける中、ジェノは剣を床に捨てた。殺しや戦いの意志はない、そう示したのだ。それでもレインの不信は完璧には拭えなかった。一種の拒絶のような反応をジェノに見せていた。レイン自身にも、何故そのような言葉が自らの口から出てきたのか理解できなかった。気が動転しているだけなのか、それとも自覚していなかった他の感情が溢れ出ているのか。それでもジェノの手を振り払い、懸命に離れようとした。ジェノは離れなかった。

「いやだ……いやだ……! お願い、やめて……私を、信じさせないで……!」

 ジェノにはどんな言葉をかけるべきか、何も理解できない。ただ、伝えたいことがたった1つだけある。後退りをしてジェノから離れようとするレインに、ジェノは一歩ずつ近づいた。ジェノが先ほど受けた痛みの影響がまだ残っていたらしく、一気に近づく事はできなかった。レインは首を横に振り続けた。

「やめて、やめて……! 私に、近づかないで!」

 レインがジェノの捨てた剣を手に取り、それをジェノに向けた。ジェノが一瞬眉をひそめる。剣を鞘から抜くことはなかった。あくまでも脅しとして持っているだけなのか、それとも引き抜く勇気がないのか。それはジェノには判断できなかった。

 下がり続けるレインの背中に壁がぶつかった。廊下の隅にまで追いやられたのだ。つまり、もう逃げ続けることはできない。

「こ、来ないで!」

 レインの叫びと共に、鞘がジェノに向けられる。ジェノはその程度の脅しには屈しない。そのままレインに一歩ずつ近づいていく。とうとうレインの目の前にジェノが現れる。レインの目には涙が浮かんでいる。呼吸も荒い。レインにはもう自分の感情ですら理解し切ることができなかった。

「やめ、て——……」

 レインの想像とは裏腹に、ジェノはレインの肩を引っ張り、その腕で優しく抱き寄せた。レインが剣を落とし、その目から涙が再び大量に溢れ始める。驚いた表情をして動きを固まらせたレインに、ジェノは一言だけ言った。

「……大丈夫」

 その言葉が、レインが秘める何かに温かく差し込まれた感覚がした。落ち着いていたはずの嗚咽が再び酷くなり、レインはジェノを抱き返した。離さないように、強く抱き締めていた。

 ——ジェノの言葉は嘘ではなかった。自分が何者であろうとも受け入れてくれるのだから。本心のままに、私相手にこれほど親身になってくれるのだから。この人なら、本当に信じても良いんだ。

 レインはそう感じた。そしてその名を呼んだ。

「ジェノ……」

 その涙と嗚咽が落ち着いた頃、ようやくレインはジェノを離した。ジェノが剣を拾い上げて腰に戻すと、レインが申し訳なさそうに言った。

「その……ごめんなさい」

「気にしてないよ。さて、あとの問題は……アイツか。それと、ここからどうやって出るのかも調べないと」

 ジェノは平然とした様子でいるが、実際にはカルロとの戦いで受けた衝撃が未だに効いている。これ以上ジェノが戦闘する事は現実的ではない。

「……レイン。魔法は使えるか? ……訓練、したんだもんな?」

 レインは小さく頷くと、杖を一本取り出した。カルロが使っていたような隠し持つ事ができる小型の杖だ。カルロが杖を落としていた時に拾っていたらしい。

「頑張る。……ジェノ、歩ける?」

「ああ、大丈夫だ。戦うにはちょっときついが、歩くだけなら」

 ジェノがあまりにも普通の調子で答えたので、レインはその言葉を信用して安堵の息を吐いた。しかし、おぼつかない足取りを見たレインはその言葉が間違いであると察した。ジェノを運ぶほどの力も体格も足りていないレインは、ジェノに変わって先導するしかできる事はなかった。その事を見透かした上での言葉であったのかもしれないが、その真偽を確認している場合でもない。

 レインは時々後ろを振り返ってはジェノとの距離や状態を確認した。先ほどまでは多少の不安定さがあったが、少しずつ安定感を取り戻し始めている。この調子で回復すれば数時間も経てば完全に動けるようになるだろうが、それほど待つ事はできない。仮に戦闘になれば自分が対処するしかないのだろうとレインは再度認知した。

 ジェノがレインを呼び止め、ある通路を指差す。

「待て、レイン。出口は……魔法陣があったのは、確かこっち側だった。ここの通路は長いけど、ここをまっすぐ行けばあるはず」

「分かった……ごめん、道順はあまり覚えていなくて」

「気にしないで」

 どこまでも無機質な通路はしんと静まり返っていて、奇妙さをも感じる。自分達が通ってきた通路を見てもカルロが追ってくる気配もない。新たな敵の気配もない。それが2人の警戒心を逆に高めさせた。ここは敵地だ。油断は決してできない。2人は最大限の注意を払いながら、1歩ずつ踏み締めながら先へと進む。

 通路の奥へと進むにつれて周辺が暗くなる。照明も少なく、そしてそれぞれが発する光も弱々しい。ジェノは最初に通った時、こんな状態ではなかったような気がして大きな違和感を感じたが、そうは言っても今更引き返すわけにもいかない。覚悟を決めるしかなかった。その一方でレインは平静を保ちながらその暗がりの奥へと歩を進めている。内心の怯えは、ジェノを助けるという目標によって無理矢理押さえ込まれていた。

 しかし、辿り着いたとしても問題はいくつかある。それは魔法陣の起動法についてだ。レインは魔法を扱えるようになったが、魔法陣を起動させる訓練や知識の獲得を経たわけではない。わずかな不安を覚えたジェノはそれを訪ねる事にした。

「なぁ、レイン。そういえば、魔法陣の起動法はわかるのか?」

「うーん……ぼんやりだけど、覚えてる気がする」

「覚えている? どういう意味だ?」

「あの人がそれを起動させた時の、魔力の流れ方を見た……ぼんやりと、だけど」

「曖昧でもやる価値はありそうだ。試してみて、駄目だったら別の方法を探そう」

 レインは小さく頷くと、前方を深く注意しながら見渡した。無機質な通路の最果てにある空間に到着した頃、ついに辺りの照明が完全に消え、背後からしか光で照らされなくなる。通路の奥にある空間はそれなりの広さがあるようで、2人の足音の反響音が先ほどよりも違って聞こえるようになっている。

 広さだけが分かったとて、具体的にできる事はない。それをジェノは察したのか、腰元に着けているランタンにライターで火を灯し、それをレインに渡す。

「……ありがとう」

 暖かな光が周辺をぼんやりと照らし、遠くで薄らいだ光が2人の影を壁に映した。遠くに見えたのは魔法陣ではなかった。代わりにあったのは、固く閉ざされた巨大なスライド式の鉄の扉だ。取手のようなものは見当たらず、軽く動かそうと試してもびくともしない。その手で触れてみると、冷たい感覚が伝って来るのをレインは感じた。困惑した様子でジェノがその扉を見る。

「まさか。俺がここに来た時、この扉は確かに空いていたはず。どうしてだ?」

 薄い暗闇の中から響く、2人とはまた別の声がその問いに答えた。

「それはもちろん、僕が閉じたからだ」

 ジェノの腹部を魔法弾が鋭く貫いた。ジェノは呻く事もできないまま地面に倒れ、傷口から血をどくどくと流し始めた。それは時間と共に、池のように冷たい床に溜まっていく。レインは頭の中が真っ白になった。ただ、呆然としてその様子を見ていた。

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