第6話 不意打ち

 白衣を着た男が、黒板に大量に貼り付けられたメモや写真の数々を見ながら不気味な笑みを浮かべている。男以外は誰もいない静寂の中、独り言を連ねるその姿は正に異常と言えるものであった。

 男が写真の中の1枚——血溜まりの中に倒れるランスの様子が写されたそれを手に取り、心底楽しそうに笑う。だがその笑みも、すぐに嘆きや驚愕を表す表情に変わっていく。

「ああ、ランス達がやられるなんて。相手は相当闘い慣れている人だ、間違いない……でもどうして? どうしてなんだ? 戦闘に発展する理由なんて僕には見当もつかない。情報屋に断られたら念の為殺せとは言ったけれど、魔法使い4人が1人に壊滅させられるなんてあり得るはずがない。あんなちっぽけな酒場に、偶然他にも人が居たのか? ……クソッ。そもそもの話、断る理由なんて何があるって言うんだ。まさか、本当は知っているとか?」

 男が写真がくしゃくしゃになるほど強く握り締め、近くにある腰程度の高さの棚の上にその拳を叩きつける。男は歯軋りをして、その額には汗が滲んでいる。今度は涙が目に浮かび始め、悲壮に打ちのめされたような顔をした。

「ああ、レイン……君はまさか、新しい拠り所を見つけたって言うのかい? 僕は、何かが欠落しているような君にとても惹かれるんだ。だから、また——」

 男の目が鋭く写真を睨みつける。開いた手のひらに乗る、しわだらけになったその姿を見ていた。その憎悪に満ちた表情も、すぐに不気味な笑みにすり替わっていく。

「——また、奪わないといけないね?」

 男の部屋の扉がゆっくりと開けられた。男がその扉に視線を向けると、その扉の先にパドロが立っているのが見えた。パドロは眉間にしわを寄せて男を見ていた。

「ああ。生きていたのか。——パドロ、だったっけ?」

「念の為に分身を使っていたんだ。……だが、正直に言うと凄く疲れた。……なぁ、あんな奴らを相手に本当に勝てる気でいるのか?」

「へぇ、分身か。君にそんな特技があったとは。まあ、ひとまずその問題は大丈夫だろう。僕が直接行くよ。場所は仲間が探したみたいだし、今も派遣した奴らが向かっている。とはいえ、どうにも彼とその人以外に2人居るらしいし、その強さじゃ多分あれくらいの兵は全滅する。それを考慮すると僕1人じゃ返り討ちだろうな」

 期待の目を向ける男に、パドロは嫌そうな顔をして、首を振って見せた。

「それくらいは知ってる。だが、俺はもう御免だ。これ以上協力したくない」

「おや、何を言っているのかな? まさか、これくらいでくたびれているのかい?」

「これくらいでだと? 実際に体験したらそんな事言えなくなるぞ」

「ははは! ここに協力し始めたばかりの新人がよくそんな事を僕に言えた事だ! まぁ、君が苦労したのは事実なんだろう。よく頑張ったね」

「子供みたいに扱うな。もう酒は飲める」

「悪いね。癖になってるんだと思うよ。ちょっと、さがって言うか、ね」

 男が軽く笑う。パドロはかなり不満げな様子で立っていた。逆らえずに結局戦いに赴く事になる事を予期していたが故の反応だった。パドロは多方への恐怖と気味の悪さで一度だけ小さく身震いした。


  * * *


 レインが中庭で訓練を続けている。記録は47体。上昇幅は緩やかになったが、以前として成績は伸び続けている。ヴェイルはそれを何処か不安そうに見守っていた。今日はジェノにカウントや砂時計の操作を任せず、リビングへ帰した。休憩も挟まずに何回も連続で訓練を続けていたレインはすっかり息を切らし、杖を下ろして空を見上げた。相変わらず、結界の上を流れる雨の様子がそこに映し出されていた。

 ヴェイルが地面に座り込むレインを見て、さらに深く思案していた。それは疑念の目であった。

(レインはやはり魔力量の事を自覚していない。発射速度はまだ未熟……だが、この持続力はただものじゃない。そもそも、魔法を習得せずに魔力量だけをあれほどまでに成長させるなど普通はあり得ない……生まれつきの魔力量だとしたら、一体どのような血を引いてきたんだ?)

 ヴェイルはずっとレインへの疑念を抱いていた。ずっと観察し続けても、その魔力量を得る原因やきっかけは見出せそうにも無い。大気中にある魔力の流れを見ても違和感は感じられず、レインは本当に自分が保有する魔力量だけであの持続力を見せつけている事を改めて確信した。ヴェイルはレインに対する疑念を抱くようになってから、本来褒められるべきその点でさえも自身への脅威としてしか捉える事ができなかった。ヴェイルは自分の杖を握りしめた。

 ——これをレインに向けて攻撃すれば、もう不安に感じる事もなくなるだろうか。そんな考えでさえも頭をよぎったが、すぐにそれを頭の中から消し去った。レインの目的を知らないという事が、レインと敵対する理由であり、攻撃しない理由でもあった。

 ジェノとシモンが慌てた様子で中庭に入ってきた。ヴェイルが難しい顔を慌てて普通の表情に取り繕うと、すぐに2人に向き直った。

「何か、客? 来たぞ。ずっと玄関先でヴェイルを呼んでて、誰かわからないんだ」

「用件は聞けたか?」

「いいや、全く。正直気味が悪くて俺も出たくないんだ——」

 シモンの言葉が轟音で掻き消される。ジェノとレインは突然の状況に呆気に取られたが、ヴェイルは3人の中で最も冷静に振る舞っていた。杖を構え、いつでも攻撃体制に入れる状態にある。一気に警戒をレインからその音に向けたヴェイルが、中庭から家に続く通路の全てを1つを除いて封鎖させる。赤い結界が通路を次々と塞いでいく。あの轟音以降、騒がしい音は一切聞こえない。その奇妙さが全員をより不安にさせる。ヴェイルが魔力探知を試みたが、それらしい動きは中庭からでは感じられない。

「……お前らは身を隠していろ。俺が様子を見る」

 ヴェイルの発言にシモンがすかさず抗議の声を向ける。

「バカ言うな、どう見たって客じゃねぇ。敵だろ。全員で動いた方が良い」

「ここは俺の家。この一帯の全てが俺のテリトリーだ。正直に言うが、戦闘になればお前らは逆に邪魔になる。3分で俺が戻らないか、強力な魔法を撃ち合うような音がしたら、すぐにここを離れてくれ。裏口は開けておく」

「あ! おい待て!」

 シモンが咄嗟にヴェイルの何処かしらを掴もうと手を伸ばしたが、ヴェイルはそれに捕まる事なく中庭を後にした。シモンが酷く焦り始める。

「あぁクソッ、やっぱり突っ走って行きやがった!」

「待てよシモン、どういう事だ? 何でそこまで焦る必要が?」

「……敵の規模がわからないんだ。もし大量の敵がいたなら、戦闘が久しいヴェイルがまともに戦える気がしない。昔こそは凄腕の魔法使いだったが、今はその腕前を保証できない」

「そう言われたら確かにそうかもしれないけど……俺らを『邪魔』って断定するほど自信があるんなら、心配しなくても良いんじゃないか? 凄腕なら自分の力量くらいは把握しているはずだろう」

「そうだったら良いんだが——。いや、まぁ……チッ、信じるしかないのか」

 ジェノは怯えた様子でいるレインをちらと見た。

「レインも疲弊してる。今、無理に動かすのは危険だ」

 身を隠せと言われたので、ジェノは隠れられる場所を探して急いで辺りを見回す。しかし中庭には背の高い木が数本と訓練用のマネキン以外には目立ったものはなく、身を隠すにはとても心許無く感じられた。中庭に隠れられないとなれば、屋内と唯一開け放たれている裏口しか選択肢は残っていない。

 合図が来るまでは中庭から動くな、と遠回しに言っていたようにも思えるヴェイルの発言をジェノは眉をひそめて思案していた。

 まずヴェイルに言われた3分という時間。それを測るために砂時計を逆さにした。そして次に強力な魔法を撃ち込むような音。ジェノはそれを聞いた事が無いが、少なくとも今は雨音と各々の呼吸以外に音はなく、彼の言う合図は無い。

 その時、結界が張られている通路に白衣を着た男が姿を現した。ジェノは男と目が合ってしまった。男は興味を一切持っていない様子でジェノを見た。次にシモンに目を向けると、その顔を軽く睨む。シモンは警戒した様子で男を睨み返した。

 そして視線がレインに移った時、男の表情は歓喜の笑みで一気に塗り替えられた。レインはその男を見た瞬間から怯えてジェノの背後に身を隠そうとしていたが、全身を完璧に隠す事はできなかった。その顔までもを視界に捉えられてしまった。

 男が結界を通り抜けて中庭へと侵入して来た。その場の空気が凍りつく。何食わぬ顔をして、至極当たり前のように結界を通過したのだ。

「やっと……やっと見つけたよ! さあ、僕と一緒に帰ろう?」

 男はジェノやシモンには目もくれず、レインに一直線に向かっていく。我に帰ったジェノがレインを庇うように男の前に立ち塞がった。右手には剣を握っており、腰にも力を入れている。つまり、いつでも攻撃できる体勢にある。

「何者だ? 何故レインに近づく? ……答えろ!」

 男は不機嫌そうな顔をした。そしてやれやれ、とでも言うように溜め息を吐いた。

「邪魔しないでくれるかな。君と話す気は無いんだよ」

「いいや。絶対にレインは渡さない」

 男は無表情になり、それを崩さずにジェノを見た。その隙にシモンが男に横から殴りかかる。シモンの拳が男の左頬に直撃し、男を頭から地面に吹き飛ばす。男の頭部が地面に強く衝突して大きく跳ね返る。その瞬間、男の目がぎょろりとした動きでシモンを捉え、少しずつその顔が笑顔に侵食されて始める。シモンがそれに気付き、その不気味さに一瞬動きを鈍らせた。

「おいおい、名乗りもせずいきなり殴るなんて無礼にも程があるんじゃないかい?」

 シモンが次の瞬間に殴られ、その衝撃によって体勢を崩す。さらに怪我が治りきっていない右腕を殴られたため、苦悶の声を漏らして顔を歪ませた。そして、自分が先ほど殴った男は偽物である事を同時に理解した。我に帰ったと同時に、ジェノとレインに叫ぶ。焦りと興奮状態の影響で無意識のうちに怒鳴りつけるような声色になっていた。

「逃げろ! ……間違いなく、勝てねぇ!」

「そしたら、お前——」

「奴の、奴の狙いはレインだ! 1人じゃあ、逃げ切れねぇだろうが!」

 それを聞いた男がジェノを見た。何かの目的があるわけでもなく、ただ何となくでその姿を見た。男はジェノがレインを守るような立ち振る舞いをしているのを見て、己の瞳の奥に暗い感情が渦巻き始めているのを自覚した。

「……そうか。なら、僕がまた取り返さないと」

 ジェノが激しく嫌悪と怒りを表した表情をした。

「物のような言い方をするな。レインは人間だ」

「へぇ。その子の事、なーんにも分かってないみたいじゃないか? 赤い瞳、真っ白な髪と肌、そして何よりもその年齢の割に非常に突出した魔力。普通の人間の子供がそんな特徴を持つと思うかい? 僕が分かっていないみたいな物言いだけど、君よりも僕の方がレインの事を理解しているよ。だから——」

 男がレインとの距離を瞬時に縮める。レインが凍りついたように動かなくなった。ジェノにはその動きに追いつく事が出来なかった。

「僕を、選んでよ。レイン」

 シモンが男に再び拳を向けた。今度は命中する直前に男の姿が四散した煙のように消える。ジェノとシモンが慌てて辺りを見回すと、男が先ほど立っていた方向からナイフをジェノに向けて飛び込んで来ていた。

 ジェノが瞬時に反応して、それを屈むようにして避ける。知覚に遅れたため、ジェノの顔の右上部分に切り傷ができた。それでも怯まず、剣の鞘で男の右肩を打ち上げる。男が脱臼を起こし、一瞬顔を強張らせてからナイフを落とした。ジェノがすかさず横に薙ぎ払って追撃をする。男はそれを後ろに飛び退くように躱した後、左手で右肩を掴んで強引に脱臼を治した。男は歯を食いしばり、ジェノの追撃をまた何度も躱す。シモンも追撃に回るが、軽くあしらうようにしてまた傷口に反撃を受けてしまった。さらには、その間に男が右肩を押さえる手から緑色の光が小さく輝き始め、男の脱臼は瞬く間に完治した。

「回復魔法まで……!」

「君にはこの芸当はできないだろう? 君からは魔力を感じられないし、この攻防においてどっちが有利かなんて明白だ。さっさと諦めた方が賢明だと思うなぁ? ……だいたい、何で自分でも理解し切れていない誰かを守ろうとするのか、そこから理解し難いけどね。——で、どうかな。渡してくれる気にはなった?」

 その交渉は無駄であると男も内心では理解していた。ジェノは男の想定通りの返答をした。

「……断る!」

「そうかい。君も結局、分からず屋さんなんだね」

 男は残念そうな笑みを浮かべ、剣を向けるジェノの横を素通りしようとする。ジェノはそうはさせまいと即座に剣を振るったが、それは偽物だとすぐに理解した。確かな人を殴った手応えではなかった。男は既にレインを掴んでいた。レインは抵抗の意を口にしていたが、足がすくんで逃げ出す事もできず、男の力は強く振り払う事も叶わなかった。男は腕で抱えるようにしてレインを取り押さえた。

「さぁ、レイン。帰ろう」

「い、いやだ!」

 ジェノが攻撃をしようとしたが、剣ではレインを巻き込んでしまうと考えて躊躇してしまった。ジェノは剣を納め、拳を構えた。一方で男は余裕そうに不気味な笑みを浮かべている。

「拒否権は無いんだよ……何で僕を拒むのかはさておき、早くここを出ないとね」

「レイン!」

 ジェノが叫び、裏口の通路へと移動する男を追いかけようと走り出す。シモンも同じように駆け出したが、男が取り出した小型の杖から放たれた魔法を脚に食らってしまった。威力こそはそれほど強大ではないものの、ジェノ達の動きを止めるには十分だった。

「おっと、動くんじゃないよ! 僕はレインを見つけられたから、お礼として君らの命を見逃してやろうとしているんだ! それ以上動いたら……分かるよね?」

 ジェノが再び立ち上がるが、再び脚に魔法を撃たれて体勢を崩した。男が不気味な笑いを絶えさせる事なく、ジェノ達に杖を向けながらゆっくりと距離を取る。レインが目尻に涙を溜め、苦悶の声を上げる。胸部が強く圧迫されているらしく、まともに声を上げられる状態ではなかった。それを見たジェノが諦めまいと右足を押さえ、不安定なバランスでふらつきながら立ち上がる。そこで男の顔から笑みが消え、呆れたようにジェノを見た。

「あーあ、もう気が変わった。それ以上抵抗するなら殺さないと」

 レインとシモンは絶望で顔を歪ませた。そして男が杖から魔法を放つ瞬間、その腕が何かに弾かれた。男はその痛みよりも先に、魔法を放てなかった事実を認知して驚愕した。

「……は?」

 ジェノの背後で、ヴェイルが男に杖を向けた状態で立っていた。男はヴェイルの顔を見るなり不機嫌な顔をした。そしてはっきりとした拒絶を含んだ声をヴェイルに向ける。

「ああ、そう言えば、君もいたんだね……ヴェイル」

「黙れ。人様の客人に勝手な事をしておいて、何を涼しい顔をしているんだ?」

「勝手な事? 違うね、そいつらが勝手に連れ出していたのを連れ戻そうとしているだけ。勝手な事をされたのはこっちだよ。……まぁいい。それよりも同時に3人も相手するんじゃ流石に分が悪い。パドロ。君の出番だ」

 思いも寄らなかった名前を男の口から聞かされ、ジェノ達は男にいぶかしむような視線を向けた。通路の向こうから、水滴が落ちる音が混じった足音を響かせながらパドロが現れる。シモンが怪訝けげんそうな顔をした。今にも人を攻撃しそうな、どこか攻撃的な冷たい視線を放つパドロを見て警戒を強める。今の状態で唯一分かる事は、パドロが生きていると言う事だけだ。

「僕とレインが逃げるまでの時間を適当に稼いでくれ。具体的な時間は特に指定しないけれど、わざと負けて帰るような真似はしないでね」

 男はパドロにそう軽い調子で言うと、移動を再開した。ジェノとシモンは追いかけようとしたが、パドロの攻撃態勢を見てその足を止めた。男が通路の奥に姿を消した時、神妙な面持ちをしたヴェイルがパドロを見つめる。パドロも終始ヴェイルに注視していた。ヴェイルを見るパドロの目から、次第に敵意が失われていく。やがて2人は杖を下ろした。パドロが俯き、感慨深そうに話し始める。

「……生きていたのか?」

「ああ。正直、こんな再会は望んでいなかった。何故こんな事を?」

「言えない事になっている。そう言う契約だ」

「——そうか。まあ深くは聞かないでおくが、パドロ……戦う必要はないだろう?」

「そうだな。だがあいつを今追いかけるなら……戦わなくてはならない」

 パドロが杖を構える。ヴェイルはそれでも杖を向ける事はしなかった。ヴェイルにとって互いに武器を向けるという行為は戦闘の申し出を受けるのと同義だ。ここで杖を向けてしまえば戦いが始まる。どちらかを捨てる選択など、ヴェイルはどうにかして避けたかった。

「レインは俺の弟子だ。見捨てる事は絶対にできないし、お前とも戦いたくはない。頼む。そこを退いてくれ」

「それは……」

 パドロが俯き、その手に握る杖をさらに力を込めて握り締める。そして少しばかりその手を震えさせる。

「できない……」

 ヴェイルは杖を向けるのを躊躇った。しかし迷っている暇は残されていない事など自分自身でも理解していた。戦うのであれば、心苦しさなど情けから起因する感情は全て捨て去らなければならない。無論、それらは迅速に行われなくてはならないのだ。

「なぁ、ヴェイル。お前が衛兵を辞めた時、俺はお前と一緒に行けなかった。お前は一緒に来いと言っただろう? だが、俺は無理だった」

 ヴェイルが黙り、難しい顔をした。それでもどうにか冷静を保ち、ジェノとシモンに指示を出した。

「ジェノ。ヴェイル。お前らは先に行け。——こいつは俺に任せろ」

 ジェノとシモンはそれを言われると、何の質問もせずに走り出す。パドロが2人に杖を向けたが、攻撃まではヴェイルに阻止される。その隙にジェノとシモンは全力疾走で通路の奥へと駆け抜けて行った。ヴェイルの敵対的な視線もあり、パドロはジェノ達を追跡する事はできないと判断した。

「……お前はあの時、家族がいなかったよな。だから簡単に辞められた」

 ヴェイルが杖を下ろす。

「どう言う事だ?」

「家族を人質に取られて……それを見捨てるなんて真似を、一体誰ができる?」

 ヴェイルが顔をしかめる。確かにヴェイルは衛兵に勤め始めた当時、家族も、親友と呼べる者もいなかった。その為に違和感だらけの世界から抜け出す事は容易だった。ところが、そこで得た友人にはその条件が当てはまらなかったのだ。

「……その契約は今も続いているのか?」

「ああ。その為に俺はここにいる」

「パドロ。お前は、俺が裏切った事を……恨んでいるのか?」

「……正直に言えば、少し恨んでいる。心の何処かでお前に置いて行かれたと思っている自分がいた。……構えろ。仕事ついでにここで、俺らの友情にケリを付けよう」

 パドロが杖を構える。ヴェイルは非常に険しい表情をした。

「馬鹿が。こんな戦い、誰が望んでいるんだ? 無意味にも程がある」

「誰も望んではいない。ただ、一時いっときの友情よりも家族を守りたい。それだけだ」

「そうか。もう、覚悟は決めているんだな?」

 パドロとヴェイルが互いに間合いを取り、攻撃の構えに入る。互いが互いの動きに注目し、その目を睨み合う。2人の杖の先端から閃光が発せられ、それらが衝突した。強風が巻き起こり、硝煙と土煙を上げる。それを中心にヴェイルとパドロが回り込むように移動する。ヴェイルは煙の動きの中からかすかながら魔力の流れを感じ取り、即座にその方向に杖を向けて魔法を撃つ。煙を掻き分けて魔法弾が直進していくが、それは誰にも命中しなかった。逆にそれでヴェイルの位置を把握したパドロが反撃をする。ヴェイルはそれを結界を張る事で防いだ。結界を見たパドロはさらに何発も撃ち込んでいく。ヴェイルは密度の高い攻撃を前に、防御し続ける事しかできない。

 先ほどから長時間結界を張り続けていたヴェイルは魔力を消耗した状態で戦っていた。そんな彼にとって、持久戦に持ち込まれる事は苦でしかない。表情こそは冷静ではあるが、心の奥底にある焦りを示すようにヴェイルの額に汗が流れ始める。冷静でいなくてはならないという一種の自己暗示で、無理矢理冷静さを保っている状態だった。

「通路を塞ぐような結界を何枚も張り続ける実力も、それを長い時間張っておいての持続力も……衰えてはいないようだ。見くびっていたな」

 その中でパドロの攻撃の密度は段々と濃くなる。魔力を節約していては防ぎ切れなくなるとヴェイルは直感した。杖を振り上げ、それを地面に突き刺す。突き刺した地面から結界が外側へ力強く押し出すように溢れ、パドロの攻撃を全て弾く。結界はすぐに消えてしまうので、ヴェイルはさらに地面に向けて威力をかなり小さく抑えた魔法を放って土煙による煙幕を作った。舞い上がった土煙に紛れて姿を隠す。そして目論見通り、パドロはヴェイルを見失った。パドロも無駄に消耗するわけにもいかず、攻撃を中断する。

 土煙が晴れた時、いつでも攻撃できるように準備していたパドロは身を見開いた。ヴェイルの姿が消えたのだ。焦って辺りを見回すが、どこにもその姿はない。

(迷彩魔法か? ……いや、違う! ヴェイルはそんな魔法は使えない!)

 パドロが結論に辿り着くと同時に、黒い影がパドロを覆う。空中にヴェイルが浮かんでいるのだ。その姿を見上げようと顔を上げながら急いで結界を全方位に張り巡らせる。直後にほぼ全方向から魔法がパドロに襲いかかり、パドロの結界と衝突して無数の硝煙を上げた。反応はできたが防御が間に合ったのは奇跡に近い。攻撃が間も無くパドロを消し炭にする寸前のところで結界を全て張る事に成功させられたのだ。次も成功するとは思わない方が良いとパドロは自分に言い聞かせた。

 飛び上がっていたヴェイルがゆっくりと地面に降り立つ。結界を出すのに短期間で魔力を大きく消耗させたパドロに対して、ヴェイルは未だ余裕を見せていた。パドロが若干乱れた呼吸を無理矢理に深呼吸する事で整え、反撃の用意をする。限界を感じ始めていたパドロだったが、降参もせず、その目から戦意が失せる事も無い。ヴェイルはパドロの限界を見抜いていたが、その諦めの悪さを垣間見て小さく笑った。

 ヴェイルが攻撃を1発放ち、パドロはそれを結界で受ける。しかし踏ん張っていた足がふらつき、危うくその場に倒れそうになる。右足を強く踏み出して再び立ち上がるとヴェイルを睨む。

「終わりにしようか」

 ヴェイルはその声に答えず、ただ杖を構えて攻撃に備えた。すると、パドロの横を素通りするような軌道で魔法弾を放つ。直後、パドロの背後で地面が爆ぜた。

(なんだ? 今のは確実に狙って外したな。……あらぬ方向に撃つなんて無意味な行動を、お前がするか?)

 何処か引っかかるものを感じながらも、パドロはその攻撃を合図にヴェイルとの距離をわずかに離して杖を向け、反撃を始めようとした瞬間にパドロの視界が煙幕で満たされた。構わずに魔法を放っても煙は晴れない。それはその煙幕が魔法で生み出されたものである事を示していた。しかし、それは魔力の粒子で構成されているために、互いに煙越しに魔力探知をする事はできないという事実も突きつけていた。

「どうした! お前はこそこそ姿を隠すような奴ではなかっただろう!」

 パドロの挑発にも、ヴェイルは乗る様子はない。パドロが一瞬失望の意をその目に表したが、すぐに気を取り直して杖を握り締める。

 放たれた煙幕がようやく晴れ始める。うっすらと見えたその影に瞬時に反応して攻撃を仕掛ける。それは2人共同じ事を考え、行動に移していた。2人の魔法は正面からぶつかり轟音と共に爆発する。そこから再び攻撃の差し合いが始まった。互いが互いを撃ち、互いの攻撃を全力で避け続ける。一撃でも喰らえば絶命する、その考えが2人の集中力を極限まで引き上げていた。残りは持続力——言い換えれば、時間との戦いだった。

 パドロの1発の魔法弾がヴェイルの杖に命中し、それを大きく空中へと投げ飛ばした。パドロが勝利を確信してヴェイルの胴体の中心に杖を向ける。

「……言い残す事は?」

 普段のパドロであれば、このような事は訊かずに即座に撃ち殺しているだろう。だが今回はそうしていない。ヴェイルは溜め息を吐き、一言だけ言った。


「お前の負けだ」


 次の瞬間、パドロの身体が宙へと投げ出され、瞬く間に家の壁に身体を打ちつけていた。わけもわからずに、失いかけた意識を必死に掴み続けてヴェイルを見る。

 ヴェイルはもう一本、小さい杖を持っていた。彼のものではない。あの男のものである、小型の杖だ。

「……馬鹿な……それは、お前のものでは、ないだろう……!?」

「お前は知らなかったのかもしれないが、こんなちっちゃな不意打ち用の杖には持ち主の記憶能力はない。本来はお前に利用されないためにと思っていたが……回収しておいて正解だった」

 意識が朦朧とする中でも立ちあがろうとするパドロをヴェイルが自身の杖を回収してから静止させる。

「もう無駄だ。これ以上戦っても、手数を増やせないお前に勝機は無いだろう」

「……俺には、……所詮、無理な相手だったわけか?」

 意識がはっきりとし始めたパドロは、全く衰えていないヴェイルの強さを前に若干項垂うなだれながら立ち上がる。そして杖を下ろしているヴェイルの姿を見て、寂しそうに笑った。

「なあ、待ってくれ……俺を殺さなくて良いのか?」

「理由は求めるな。もう仕事は終わったんだろう、早く行け」

 ヴェイルはパドロの横を通り過ぎて通路からジェノ達を追おうとした時、思い出したように立ち止まってパドロに問うた。

「最後に1つ、答えてくれ。あの男が——カルロがお前の雇い主か? あいつは今もあのイカれた組織のリーダーなのか?」

「そうだが。それがどうした?」

「……何でもない。気にしなくても良い事だ」

 パドロはヴェイルをいぶかしげに見る。ヴェイルの去るその時まで、パドロはそれ以上何も言及する事はなく、ほんの一瞬だけヴェイルを心配そうな目で見送った。その目に気付いたヴェイルは立ち去った後でさえも振り返らなかった。そして、その姿が見えなくなる寸前、パドロはヴェイルを呼び止めた。


  * * *


「思ったよりもかなり早く追って来たじゃないか? 彼が鈍っていない証拠だね」

 森の中を、レインを抱えながら走るカルロが、後ろから迫り来るジェノとシモンを見て独り言を呟く。振り切ろうにも幻影魔法を使うための杖は先ほどの戦闘で落としてしまった。この辺りにある木の枝で代用しようにも、真っ直ぐに伸びた枝か、特殊な構造をした枝でなければ不具合が起きる可能性が高い。だが、今のカルロにそれを探す暇はない。

 ジェノは消耗が比較的少なく、余裕を持ってカルロを追跡できている。しかしシモンはこれまでの負傷もあって体力の消耗が激しく、これ以上の追跡に対して限界を感じていた。ついに右腕の激痛と共に袖に血が滲み始め、その場で足を止めてしまう。

 ジェノはそれに気が付いたが、悔しそうな表情をほんの一瞬見せただけでシモンを置いて走って行った。シモンが右腕を押さえながらその場にうずくまる。若干乱れた呼吸の中で、ジェノがシモンに向けて叫ぶ。

「シモン! もしヴェイルが来た時は俺が向かった方向を伝えろ! パドロが来たら俺らの事は喋るなよ!」

 ジェノはそうとだけ言うと返事を待たずに森のさらに奥へと走る。シモンはその後ろ姿を見つめるだけで、何かの反応を返す事はできなかった。シモンは右の拳を握り締め、口の中で歯を食いしばって呟く。

「……クソッ」

 なぜその言葉が口から出たのか、シモンは自分で理解していなかった。かと言って理解しようとする余裕も残ってはいなかった。

 その一方で、ジェノは必死になってカルロの追跡を続けている。複雑で深い森の中で、カルロは時折ジェノとの間に障害物を挟む事で姿をくらませようとする。幸いにもカルロは迷彩魔法が使えないらしく、突然姿を消す事は無いが、使えなければ使えないなりにどうにか逃げ切ろうと、数ある手を次々と打ってくる。それがジェノの体力の消耗に繋がっていた。

 しかしその一連の流れに疲労を伴うのはカルロも同じだ。余裕そうな笑みを浮かべるその瞳の奥には不安や苛立ちの感情が渦巻いていた。

(この男……! 何でレインにここまで執着する必要があるんだ? 少なくともこの数週間は街では見かけなかった顔だ。という事は、ここ数日の内にルシェロを訪れた旅人だと見て間違いないはず……そんな短期間でこの子に執着する理由は一体何なんだ?)

 カルロが腕に抱えているレインの顔をちらと見ると、冷や汗が流れる顔に不敵な笑みを浮かべる。どこか楽しげな雰囲気を纏っているようにも思える。

(やはり——レインには、非常に説明し難い何かが備わっているんだ。そうとしか思えない。そうじゃなきゃ——君の何が引き寄せられるって言うんだい? 訊いたところで、答えられやしないだろうけどね)

 突然、ある切り株の前でカルロが足を止めて優しくレインを降ろした。地面にへたり込んだレインが咳き込む。すぐに逃げ出したり、立ち上がったりできる様子では無い。ジェノはレインの様子を見てカルロを睨む。カルロはジェノを嘲笑あざわらうかのように、大きな笑い声を上げた。

「はーっははははは! 君がどれだけこの子に取り憑かれているかわかったよ。……でもここまでさ」

「何だと?」

 不気味な笑みを浮かべたままカルロが指を鳴らす。それを合図にしたように、カルロとレインの姿がジェノの前から消えた。ジェノが慌てて、全力疾走でその場所まで駆け寄る。辺りに足音や草木を掻き分ける音などの気配はなく、忽然と姿を消してしまった。ここに来て魔法を使ったとは考えられにくいので、それが余計にジェノを混乱させた。

「嘘だろ……何処へ行ったんだ? ……おい! レイン!?」

 返事は無かった。ジェノの顔が青ざめていく。半ば自棄やけになって切り株とその周辺を探し回る。そして切り株の根元の草を踏み締めた時、何か妙な感覚を足に感じた。その場所だけは自然な土が置かれているようではないような、何処かゴロゴロとした感触だ。ジェノは直ちに足を退け、草を掻き分けてみる。そこには二重の円の中に対角線を結ばれた八芒星が描かれたような紋章があった。

「……魔法陣?」

 ジェノは魔力こそ有していないが、生まれ自体は魔法の発展した地域だ。それが落書きなどではなく、紛れもない魔法陣である事はすぐに理解した。そして、それが2地点を繋ぐ転移系の魔法陣である事も。だが、問題はそれを起動するために、魔法陣に魔力を流し込む事が必要である事だ。ジェノには起動する術はない。

 こうして手間取っている間にもレインはより遠くへと離れてしまう。そう考えるだけで、ジェノの中の焦燥が劇的に増していく。頭の中で、残った理性を存分に活用して思考を回転させる。そうして地面に屈んだまま思案し続けている時、ジェノの肩が何者かに叩かれた。

 ジェノが驚き、肩が跳ねるような反応を見せながら振り返った先にはヴェイルとシモン——そしてパドロが立っていた。解きかけた警戒を若干引き上げたジェノは、睨みつけるような顔つきで彼を見つめた。そんな様子を見たヴェイルがジェノを宥める。

「そこまで警戒しなくて良い。こいつは俺の友人だ」

「……本当に?」

「ここで嘘をつく理由もないだろう。レインとカルロは何処だ?」

 ジェノは今聞いた後者の名は初めて聞く名前だと思ったが、何となくあの白衣の男だろうと察して答える。

「この魔法陣を使って、逃げられました。……俺は魔力を使えないので、これ以上——」

「なるほどな。そういう時はすぐに呼べ。魔法陣くらいなら俺が起動できる」

 ヴェイルがジェノを軽く押しのけると、魔法陣に手を当てる。魔法陣がそれに呼応するように青白く光り始める。

「頼れる相手がいるならさっさと頼れ。できない事を一人で悩んでも時間の無駄だ」

 軽く驚いたような表情をジェノを見て、ヴェイルは不敵な笑みを浮かべる。時間がある程度経過した頃、魔法陣は完全に起動したように直上を淡い光で包んだ。その一部始終をじっと見つめていたシモンが感嘆の声を漏らす。

「これで繋がったはずだ。変な妨害が組み込まれていたわけでもない。起動の仕方を間違えていなければ、しっかり運んでくれるだろう」

 感心したような視線を送っていたシモンが疑問を呈した。

「こんなあっさりと起動できるもんなのか?」

「俺はこういうタイプの魔法陣を何度か使った事がある。訓練すれば、簡単にできるようになるはずだ」

「へぇー……待て、なんか来てるぞ」

 シモンが顔をしかめ、辺りを見渡した。姿は見えないが、何人か——否、何十人かの気配が周辺一体から感じる。草木を掻き分ける音。鎧同士がぶつかる硬い音。武器を担ぎ、それが木の枝などに掠れる音。それらが何十にも重なり、そして若干ずれて聞こえる。

「クソっ! あいつら援軍を呼んでいたのか!? 早く行け! こんな開けた場所で魔法に対抗できるのは俺らくらいだ!」

 必死で叫ぶように言うヴェイルの指示に従い、ジェノが魔法陣に飛び込んだ。その瞬間、魔法陣がちょうど効力を失ったように光を失った。魔法が使えないのにも関わらず、取り残されてしまったシモンが焦ったように魔法陣の描かれた場所を覗く。

「ちょっと待て、俺は!?」

 パドロが魔法陣を睨み続けるシモンを叱りつける。

「一度の起動で一回だけ動くんだろう! 諦めて迎撃しろ!」

「いや、魔法使えないんだけど!」

「迷う時間はない! 死にたくないなら必死に抵抗しろ!」

 攻め来る大量の『白い彼岸花』の人間を前に、3人は揃って迎撃態勢に入った。

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