第5話 一歩ずつの対面

 ヴェイルがレインの訓練をジェノにも気付かれないほど遠くから見守っている。最初の記録に比べると大きく成績が伸びているレインを見たジェノは、それをまるで自分の事であるかのように喜び、その一方でヴェイルは圧倒されていた。最初に見せていた息切れも休憩と再開を繰り返す度に自然と改善されている。

 レインが元々保有している魔力量は凄まじいものだ。恐らく「自身の魔力がもっと長続きするようになれば」とでも考え、無意識のうちにその願望を反映させたのだろうとヴェイルは予測した。答えが実際にそうであるのかは定かではなかった。

 ヴェイルは思案し続ける。レインという人物の謎に関して今まで気にしていなかったはずが、急激に興味が湧いた。年齢に合わないほどの莫大な魔力量。未だ明らかになっていない過去。そして何より、『白い彼岸花』に狙われる理由。その全てが何らかの因果関係を有しているとヴェイルの勘が告げている。

 レインが再び杖を構えて訓練を再開する。ヴェイルはマネキンが粉砕される音を聞いて咄嗟に思考を切り上げた。小さく頭を横に振ると、その事に関してはもう考えない事にした。

 やがて砂時計に砂が全て落ち、ジェノがまた合図を出す。レインは杖を右手に握ったまま小さく息を吐く。記録は29体。ヴェイルは目を見開くばかりで声を出す事もままならなかった。ジェノは純粋に成長を喜んでいるが、ヴェイルはたった数時間の間に12体も記録を伸ばせるものではないと理解していたがために、あまりの予想外の出来事にそれ以上の反応を示せずにいた。


  * * *


 疲労が現れ始めたのか、レインはだらりと力尽きたように杖を下ろした。ジェノがその労を労う。

「ご苦労様。流石に疲れたろ? ……良ければまたジュースとか作るよ」

 レインが疲労の滲んだ顔を嬉しそうに笑顔に変えて頷いた。

「……うん。ジェノも付き合ってくれて、ありがとう」

 レインに面と向かって礼を言われた事は初めてだと思い、ジェノは照れ臭そうに微笑んでいた。それからすぐに家の中まで戻ってきた。ジェノはちらとキッチンにいるシモンを見かけたが、お構いなしにレインを連れてキッチンへと入って行った。シモンが2人の姿に気付き、愛想よく笑いかける。

「ああ、ジェノか。ドリンクならもう少し待っててくれ。今はまだ1人分しかできていないんだ。今から2杯目作るところだが——」

「いや、そうじゃなくて。また、俺が作っても良いか?」

 シモンは小首を傾げたが、レインの顔を見ると軽く笑い、その場を譲る。

「ありがとう」

 そう一言だけ、ジェノは微笑んで答えた。シモンがいくつかの果物と最低限の調味料を残してキッチンを去る。

 2人きりになった。レインがジェノを見る。ジェノもレインに視線を合わせた時、2人はその雰囲気から感じる何かをおかしく感じて微笑み合った。レインがジェノに尋ねる。

「ジェノはこういうのが得意なの?」

「いや、正直に言うと前に作ったのが初めてだな。……あ、今回はスムージーと果汁ジュース、どっちが良い?」

「えっ、えっ……と。……スムージー、かな?」

 レインはスムージーについて知らなかったので、好奇心のままにそれを頼んだ。レインは普段では知らないものを自分から進んで体験しに向かうような人ではない。今回はジェノが作るという無意識の安心感から選んでも良いと思ったのだが、レインはそんな事は考えていなかった。

 ジェノがリンゴの皮をナイフで器用に剥く。そして3つ分だけそれを用意すると、それをさらに4等分にして種を取り除いた。ミキサーでリンゴを粉砕し、ある程度細かくなったところで苺を加え、さらに混ぜ合わせる。赤みのかかった液体が出来上がり、ジェノがそれをグラスに移し替えた後に牛乳を少量加える。最後にバジルの葉を一枚だけその表面に添え、ストローを刺した。

 ジェノがグラスを慎重にレインの手に渡す。

「完成だ。溢さないようにな」

 レインが少しばかり興味深そうにそれを見つめる。そしてその香りを味わってから笑顔でリビングまで小走りで向かった。ジェノはミキサーを流し台で洗った後、レインの後を追ってリビングに向かい、レインと向かい側の席に座る。

 スムージーを一口飲んでみるなり、レインは目を輝かせた。大きく感動したような表情をしていて、ジェノはそれを嬉しそうに見守った。

「……おいしい。ありがとう、ジェノ」

「どういたしまして。……——?」

 レインがやたらとジェノの顔を凝視するので、ジェノは不思議そうにレインの顔を見る。何かを言おうとしたが、咄嗟には良い言葉が見当たらず首を傾げた。レインは我に返ったようで、慌てて視線を逸らして再びストローからスムージーを吸い上げ始めた。

 ジェノがシモンにキッチンが空いた事を伝えようと立ち上がり、レインの横を通り過ぎようとした時、レインがスムージーを飲みながらジェノの衣服の袖を引っ張ったので、思わず足を止める。ジェノが軽く驚いたように目を小さく見開き、レインに尋ねる。

「どうかしたのか?」

 レインがストローを口から離す。そして毛恥ずかしそうに顔を赤らめ、上目遣いでジェノを見ながら答えた。

「……まだ、ここにいて」

「ん? ああ、うん? ああ……わかった」

 ジェノは一瞬混乱したが、その感情はすぐに捨て去って快く承諾した。返事をしても、身体をレインに向き直らせても、何故かレインは手を離さなかった。何か寂しそうな、不安に駆られた表情をしていた。

「……そんながっしり捕まなくても、俺は何処にも行かないぞ?」

 レインの表情が少しばかり落ち着いた。それでもその手は袖を掴んだまま離さなかった。その様子を見たジェノは、何か異様な空気を感じ取った。今のジェノの立ち位置から座れる椅子は無いので、ジェノはそのまま無言でレインの側に立っている事しかできなかった。

 互いに会話もしないまま、レインは長い時間をかけてグラスを空にした。それからしばらくして袖を掴んでいた手を離す。その顔は何処か不安気な表情をしている。ジェノはレインの心情に対して理解ができず、それについて思案し続けていた。

 レインがジェノに視線を向けて微笑む。

「ジェノ、飲み物をありがとう。今日はもう休むね」

 見て呉れ以上に疲れていたのだろう、とジェノは思った。レインの様子が若干違う理由は他にもあるような気がしたが、その思考は無意識の内に頭の中から消えた。

「……おう。お疲れ様、レイン」

 ジェノも微笑み返した。その微笑みが上辺のもので、実際には別の感情が含まれている事は互いに何となく理解していた。

 レインが部屋を早足で出て、そこでジェノはレインから疲労以外の何かを背負っている事を感じ取った。ジェノは考える前に、レインの後を追いかけていた。レインがヴェイルから貸し与えられた部屋に入っていった。寝る時以外に滅多に使っているのは見た事がない。ジェノはそれをさらに不審に感じた。

 扉が弱々しい力で閉められる。ジェノは扉の前に立ったが、開ける気にはなれなかった。中途半端に手を伸ばした状態で動きを止めて、扉の前で立ち尽くしていた。扉の向こう側から啜り泣く声が聞こえる。恐らく扉を閉めたすぐ先の場所で泣いているのだろう。扉と壁に阻まれているためにその声は小さくなっているが、間違いなくその向こう側で泣いているのだ。ジェノは扉に背を向け、横の壁に寄りかかってその声を聞いていた。

 ジェノはその場から逃げるように重い足取りで立ち去った。レインはわけもわからずに溢れ出す涙を袖で精一杯拭っていた。

 ジェノが廊下でシモンとすれ違う。その時、シモンがジェノの肩を叩いた。

「おージェノ、お前キッチン空いたなら言って——……おい、どうしたんだ?」

 シモンは驚いた。ジェノが今まで見せていなかった「悩む顔」をしているからだ。何があったのか、シモンは咄嗟に問うてしまった。ジェノは一瞬だけシモンを視界の中心に捉えたが、すぐに俯き気味に目を逸らした。シモンが答えてくれないかと諦めかけた時、ジェノが重い口を開けた。

「いや。特に、大きな事ではないんだ。俺の事だからさ」

 シモンは暗に深入りするなと言われているような気がして、大人しく引き下がった。

「そうか」

 ジェノが背筋を伸ばし、重い足を無理やり普段通りのペースで歩かせた。

 その後、ジェノがヴェイルの薪割りや料理の手伝いなどをしている間に夜になり、辺りは暗くなった。遠くから雨音が聞こえる。シャワーを浴びて夕食を摂る時にはレインも普段通りの様子を見せていた。だが、あの部屋での様子を見てしまったジェノには、その元気そうな顔でさえも無理をしているように見えてしまった。かと言ってそれをレインに向けて言っても不快にさせてしまうだけだろう。ジェノは放って置きたくない気持ちと今はそっとしておいてあげるべきだという気持ちで葛藤し続ける。

 ヴェイルとシモンが別室まで作業しに行った後もずっとジェノが一人で頭を抱えている。するとレインがジェノの横まで歩いて来た。ジェノは若干項垂うなだれながらレインを見る。レインがジェノに優しく声をかけた。

「大丈夫、ジェノ?」

 ジェノが微笑む。

「ああ。少し疲れたみたいで……ごめん、心配かけたか」

「ううん。謝る事じゃない、でしょ?」

 レインがいきなりジェノの手を引いて早歩きで廊下を渡っていく。その意図が分からないまま、ジェノはレインに引き連れられた。行き着いた先は見覚えのある場所だった。ジェノは困惑を隠し切る事ができずにそのまま顔に表した。

「今日は、ちょっと一人で寝られそうになくて。私が寝るまで側に居てくれる?」

 ジェノは顔をしかめた。

 無言で身体の向きを反転させたジェノの手をレインが掴んで引き留める。レインは立ち去って欲しくないようだ。ジェノはレインの状態を思い出し、無理に拒否する事に抵抗する自分がいる事に気がついた。

「お願い」

 ジェノが額に手を当てて溜め息を吐く。レインが俯き、寂し気な表情を浮かべた。ジェノはレインに聞こえない程度に小さい声で唸り、渋々で了承する。

「……レインが寝るまでだからな」

 レインの表情が明るくなった。嬉しさを全面的に押し出していると表現すべきだろうか、それほど屈託の無い笑みだった。

 レインが扉を開け、奥の方に見えるベッドまでぱたぱたと走る。そこに腰掛けると今度は悪戯いたずらっぽく笑ってジェノに手招きして見せた。ジェノは顔を赤くして部屋の出入り口で立ち尽くしている。赤面していることは暗がりのお陰で分かりにくかった。自分がどのような状況に身を投じたのか、今になって自覚した。そして深く考えずに断らなかった自分を人知れず恨み、後悔した。

 廊下の窓から風が吹き、その影響で扉が勝手に閉まる。ジェノが重くゆっくりとした歩みでレインの元へ向かい、その隣に座った。レインがベッドに横たわり、ジェノに笑顔を向ける。ジェノは緊張で固まっており、レインの動きを目で追う事もしなかった。

 落ち着きを少し取り戻してから、恐る恐るでレインに視線を向ける。レインは妙に笑顔のままジェノを見ていた。ジェノは俯き気味に視線を逸らした。ジェノには少女の横に並んで寝るなどという真似ができるような度胸は備わっていないのだ。早く寝てくれと願う以外に何もできない。

「……寝るんだろ。早く寝なよ」

「ダメ。今寝たら、ジェノが行っちゃうでしょ」

 ジェノが思わず素っ気無い態度で言ってしまったが、レインはそれを特に何も思わなかったようだ。レインがジェノの服の裾を軽く引っ張る。ジェノがもう一度レインの様子を見てみると、レインは目を瞑って落ち着いた呼吸を繰り返していた。呼吸に合わせて小さく胸が上下しているのがうかがえる。まだ完全に眠りに落ちてはいないようだが、その寝姿は可愛らしさと美しさを兼ね備えているように感じられた。

 ジェノはそれ以上は直視できなくなり、首を小さく横に振ると部屋に備えられた窓から外の様子を見た。ヴェイルの家は周辺が結界によって雨の影響を受けない。窓の奥で、結界が受けた雨が遠くに小さな滝のように、あるいはガラス面のように向こう側の景色を曖昧な姿に映していた。

 ジェノが欠伸をした。たった1つの深い吐息で目が潤み、身体中の眠気を思い出させる。そろそろ部屋を去ってリビングのソファの上にでも寝ようかと思い立ち上がった。すぐにレインに止められた。

「私、まだ寝てないよ」

 ジェノが何とも言えない表情でまたベッドに腰掛ける。そこで自分の脈拍が上がっているのを自覚した。今からではどうにも落ち着く事が難しい。先ほどの眠気が一瞬にして吹き飛んだ気までしてくる。レインの呼吸がすぐそこからはっきりと聞こえてくる。雨はここには降らず、時間帯は夜。周辺の音を無意識に、敏感に聞いてしまう。

 緊張が急に解けたように、ジェノを大きな睡魔が襲う。重くなったまぶたを辛うじて開けながら、ジェノは何となくレインの方を見た。レインは先ほどと変わらないリズムで呼吸している。恐らく起きているだろう。ジェノはこれ以上眠気に抗えなく、ここで眠るしか無い事を悟った。

 レインが不意に引っ張る力を強める。ジェノは為す術もなく倒れた。ベッドの柔らかさに全身が飲み込まれ、ジェノはまもなく目を閉じて気を失うように眠った。

 レインが目を開けた。すぐ隣で寝息を立てるジェノを見て安心したように微笑み、再び目を閉じた。


  * * *


 ジェノが目を覚ますと、そこは無限に続く真っ白な空間だった。ジェノは立った状態で目を覚ましたのだが、手足の感覚もおぼろげで、とても奇妙な印象を覚えた。前方に純白と形容できる容姿をした少女がうずくまって泣いている。その輪郭ははっきりと確認できず、ジェノにはそれがレインか否かの判断が下せなかった。

 ジェノがゆっくりと少女に近づく。手を伸ばし、声をかけようとした瞬間にジェノの左腕を強く掴まれ、動きを静止させられた。

「待って。それに触れちゃいけないよ」

 ジェノが咄嗟に振り返ると、目の前に狐面の黒っぽい影が現れる。その姿ははっきりと目に映っていて、顔こそは見えないがどことなくレインに似ている気がした。

「ついてきて。君に見せたいものがあるんだ」

 ジェノは狐面に無理やり引っ張られながら、少女との距離が離れていくのをぼんやりと見ていた。狐面が動きを止め、ジェノは狐面を見た。真っ白な空間の中に、不自然なほど立派な枝垂桜しだれざくらが立っていた。花弁が周辺の白と完璧に同化してしまっているほどに真っ白であったが、それは次第に朱色に色付いていく。その桜を中心に、周辺に色が分け与えられていくかのように、じわじわと草木の緑や夜空の青が広がっていく。

 夜空なので辺りは真っ暗になると思ったが、そんなこともなく不思議と周りの世界を暗がりに邪魔されることなく認知できた。

「これは……」

 ジェノが一歩後退あとずさる。狐面は明るい調子で話し始めた。

「歓迎するよ。レインが誰かをここに連れてきたのは、君が初めてなんだ」

「レイン? レインもここにいるのか?」

「うん。でも、すぐには来られなさそう。レインは時々、ここに来る前に泣くんだ」

 ジェノは先ほど見かけた少女を思い出した。

「……もしかして、さっきの」

「そう、レインだよ。君が触れてはいけないのは、君もあの感情に飲まれてしまうから。レインの思いを、今の君が真正面から受け止め切れるとは思えないからね」

 狐面は桜の木の根元に座り込む。ジェノは発言の意図を理解する事ができず、狐面にいぶかしむような視線を向けた。狐面はそれを気にする様子もなく、何処からか本を取り出してそれを読み始めた。ジェノは狐面の前に立ち、その顔を見下ろす。

「なあ。あんた、何者だ? 名前はなんて言うんだ?」

「……それは答えられないよ、ジェノ。君が知るには早すぎる」

「じゃあこれだけは教えてくれ。ここは何なんだ?」

 狐面は静かに本を閉じた。そしてゆっくりと立ち上がり、答える。

「ここはレインが自分自身の心を守るために作った安らぎの空間——『マインドルーム』と呼んでいる。全てが曖昧で、閑散としていて、取り留めのないような……そんな場所。気をつけて。ここは彼女以外は本音で話をする事になる」

 ジェノが辺りを見回した。確かに曖昧で精巧に作られたとは言えない世界だ。何かが確かに欠如しているような感覚を覚える。しかし、もの静かで風に揺られて宙を舞う朱色の花弁には風情を感じる。それも確かな事だ。レインはこの景色を何度見たのか、とジェノは考えた。その時、ジェノの背後から、ジェノにとって聞き覚えのある声が響く。

「ジェノ」

 レインだ。ジェノはゆっくりと振り返り、レインの顔を見た。レインはジェノに穏やかに微笑みかけている。ジェノはその顔を見ながら静かに佇んでいる。かけようとしていた言葉がいくつかあったはずが、全て真っ白になったように忘れてしまった。

「ジェノ。一緒に行こう」

「何処へ?」

 若干呆けていたジェノは自分の名前を聞いた時、慌てて問いを投げかけた。

「私しか知らない場所に、だよ。えへへ……」

 レインは心の底から楽しそうに、満面の笑みをジェノに向けている。ジェノは解説を求める意図で狐面を見ようと振り返ったが、そこにはもう狐面の姿はなかった。ジェノは諦めてその誘いに乗る事にした。

「わかった。着いて行くよ」

 ジェノがそう答えるとレインはジェノの手を掴んで駆け出した。ジェノはこの光景に既視感を覚えていた。ただ決定的に違う事があった。前回これに似た事を体験した時、レインはこれほど楽しそうな様子は見せていなかったのだ。ジェノは何となく、レインは別に自分といる事自体に楽しさを感じているわけではないように感じた。

 レインが茂みを掻き分けながらしばらく進んでいくと、レインが足を止めた。ジェノに微笑んで到着を伝えた。

「あっ、着いたよ」

 ジェノは目の前の崖から滑り落ちないように注意しながら、目の前に広がる景色を見た。そして、思わず口を開けて驚嘆した。

 向こう側に輝く大きく青い三日月。青の光が遠くの山々を鏡が如く輝かせ、さまざまな色に輝く天の川の周りには時々流れ星が空を駆け抜けるのが見えた。森の静寂やささやかな夜風も合わさってとても心地よく感じられる景色に圧倒された。

「すげぇ良い景色だな……」

 おぼろげにしか見えていなかったはずの景色がまるで本物のように映し出されている。ジェノはその事実に軽く驚きながら、感嘆の声を漏らした。レインもその景色を見ながら、ジェノに笑いかけながら言った。

「……さっきの場所も好きだけど、やっぱりここが一番好き。ジェノと一緒に来られて良かった」

 ジェノはわずかに違和感——疑問とも言い換えられるような何かを覚えた。だがその疑問が何なのか、今のぼうっとしたような感覚の中でそれを見つけ出すのは難しかった。

「そうか? ……そうか。そうなんだな」

 自問自答をするように、言い聞かせるように、ジェノは簡単な言葉を繰り返した。レインは小首を傾げ、ジェノと向き合って照れ臭そうに微笑んだ。ジェノも微笑み返した。この時だけは、もう深く考えなくても良い。そんな考えが頭に浮かんだ時、突然あの狐面の言葉がリフレインされた。


 ——ここはレインが自分自身の心を守るために作った安らぎの空間。


 ジェノは、はっとしてレインの名を呼ぶ。

「なぁ、レイン」

 ジェノは視線を景色からレインの目に移してから尋ねる。

「レインは今、何か悩んでいるのか?」

 レインの背が一瞬跳ねるように反応した気がした。そして動きを止める。ジェノはそれを質問した事に罪悪感は感じなかった。知りたいというよりも、知ってあげたいと言う一種の思いやりに近しい気持ちがあった。レインもそれを答える事を絶対に拒否する理由はないと思っている。それでも話そうとすると息が詰まるような緊張感に襲われて、声を出せなくなってしまう。

「……頼む、どうか教えてくれ。ここにはレインと俺しかいないんだろう? どんな悩みを聞いたって、俺は拒絶なんかしない」

 レインが俯き、何十秒も迷い続けた。

「……ずっと後悔している事があるの」

 呟くように、暗い声と表情で話し始めた。


  * * *


 レインは何処かの知らない村で生まれたただの幼子だった。レインの父親は物心ついた時には既に村を去っていたらしく姉と母と3人で暮らしていた。その村ではずっと昔から代々残されている伝承があった。それをレインは母から何度も聞かされた。

「レイン。何があっても、東の森には入っちゃダメよ」

 レインにはそう言われる理由が分からなかったが、心優しい母が言うのであれば確かにそうなのだろうと割り切って考えていた。

 いつまでも平和であった村の中ではあったが、やはり家族では喧嘩をすることもあったのだ。ある夜にレインは姉と喧嘩していた。その理由を今のレインはうっすらとしか覚えていない。それよりももっと鮮明に覚えている事があるからだ。

「もういいよ! ……着いて来ないで!」

 口論の最後、レインがそう言って家を飛び出した事だ。目的も持たずに無我夢中で走り続け、東側に鉄製の柵で引かれている村と森の境界線まで来た。残された理性でレインは「教えを守らなければ」と思い踏みとどまった。しかしその理性の糸も、後ろから聞こえた姉の声で途切れてしまった。そして運悪く姉は森に入る妹の後ろ姿を目撃してしまった。

 姉はほんの一瞬も迷う事なく森の中へと入るレインを追いかけ、見失いそうになりつつも何とか見つけ出した。だがそれは狼型の魔物に襲われているレインの姿だった。

 姉は迷う事なく妹の前に立ち、魔物に向けて魔法を放った。一撃だ。塵一つ残さず魔物の姿は消え去った。……だが、消滅する寸前に振り下された爪を防ぐ事までは叶わなかった。

 涙目になって恐怖で震えるレインの目の前には、脇腹から血をどくどくと流し続ける姉が力無く倒れる姿だった。血と共に姉の身体から温もりが失われ、段々と冷たくなっていく。怖かった。もうどうしようもない。死ぬ。そう直感した。

 自分のせいだ。そうとしか思えない。誰がどんなに擁護しようとその事実を変える事はできない。それでも姉は、息絶えるその瞬間までレインを責める事はしなかった。それどころかレインの身を案じていた。

「……危ない、でしょ。ほら、早く……早く、逃げて!」

 自分は無力だ。こんなにも無力なくせに、自分は無責任な行動で優しい姉を死に追いやり、今ものうのうと生きている。何よりもそれが恐怖でしかなかった。


  * * *


 ジェノは何も口出しする事はせず、何度も頷きながらその話を聞いていた。レインはただ暗い表情をするだけだ。涙を流したり、嗚咽を漏らしたりする事もなかった。

 レインは何を言われるのか、と考えていた。優しい声などかけないでほしいと内心考えていた。ジェノは何も言わなかった。レインの背中を優しくさするだけで、何も喋らない。単純にかける言葉が見つからないだけだったのか、意図して喋らないのか、その真意は分からなかった。それで助かる自分がいる気がするのが不思議になった。

「ジェノは……こんな私をどう思っているの?」

 何も言われないのが良い、そう思う自分を自覚しつつもジェノに意見を求めてしまった。それでもジェノは何も答えようとしなかった。言葉に迷っているのか、反応に困っている様子だった。レインも引き下がらない。

「答えて」

 ジェノは一呼吸置いてから、話し始めた。

「……どう思うって言われても、その大切なお姉ちゃんに守られた命なんだから大事にするべきなんじゃないか? 別に、その人もレインが自分を責めるために助けたわけじゃない。大切な人に守られた命なら、それは無駄にしないべきだって俺は考えてる。別にレインに対しては悪い事は何も思わないよ」

 レインがジェノを見て微笑む。しかしながら、その顔にはまだ暗い感情が残っている。まだその悩みの根本を解決できていないらしい。ジェノは複雑な感情を抱いてその目を見つめた。どういう感情を抱いているのか、自分でも言語化する事はできなかった。

「ふふふ……ジェノは、優しいんだね。本当に……」

「……そう、なのか?」

「ほら、そうして自覚してない所も。悪い人は許さないで、誰かを不用意に傷つけようとは考えないで……。ジェノのそういうところは、とても素敵だと思う」

 ジェノが顔を赤くして反応に困った様子で、逃げるように景色に視線を向けた。

「あ? ええ? ええっと……ありがとう?」

「こっちこそ、ありがとう。ちょっとだけ、楽になれた気がする」

 ジェノを大きな眠気が襲い、意識が急激に曖昧になる。

「あー……ちょっと眠くなって来た。俺は寝るよ……あれ? そういえば、レイン。確か、ここが、夢の……中、で……」

 微笑むレインに見守られながら、ジェノが意識を失った——いや、ここでは覚醒したとも言えるだろうか。ジェノの姿が死亡した魔物のように塵と化して消えた。


  * * *


 ジェノが夢から覚めると、急いで体を起こした。自分のすぐ隣にはレインが寝ている。そこでジェノは結局レインと同じベッドで寝てしまったと事を思い出した。

 窓の外の景色を覗くと、遠くで張り巡らされた結界の上を小さな滝のように、あるいはカーテンとも形容できるように雨が流れていた。空はまだ薄暗いが、6日はこの街で寝起きしたジェノは何となく早朝である事を理解した。

 レインを起こさないように、ベッドからゆっくりと降りようとしたところでレインがジェノの手を握った。レインは目を瞑って寝息を立てている。偶然なのか、それとも意図的にそうしたのかはわからなかった。起きている気配はなかったので、気にせずに手を離して床の上に立ち上がった。

 ジェノが廊下へと出て、客室へ向かう。そこにジェノの荷物を置いて来ていたからだ。今は人の家に居候しているのでそうではないが、本来は武器や荷物の確認や手入れは朝の活動を始める前にしか行う余裕はない。旅の途中でその習慣を失うとその先の状態で危険を伴う事になりかねないのだ。明かりのない家の中はとても見えにくく、足元に十分気を付けて進まなくてはならない。

 ジェノは部屋の中にある自分の荷物を衣服に付け直すと、今度は洗面台へと歩き、鏡を見る。……いつも通りの金髪だ。寝癖がついているので、手で軽く解かしていく。その途中で鏡にヴェイルの姿が映った。ジェノが髪を整える手を止める。

「今日は早いお目覚めだな、ジェノ」

「ああ、おはようございます。……まぁ、色々あって目が冴えたんです。例えば変な夢を見たとか」

「ふむ……変な夢、か……」

 言葉とは裏腹に、ヴェイルは興味を全く示さずにその話を終わらせて、何処かへと歩き去ってしまった。ジェノは不思議に思って小首を傾げたが、それ以上は特に気にせず髪の手入れを続けた。

 寝癖を整え、ジェノは客室に戻った。剣の手入れをしようと袖をまくった。剣を鞘から抜き、その刀身を見る。手入れする時以外ではほとんど剣を抜かないので、その刃には曇りや汚れは全くと言って良いほどない。それでも磨き、清掃する。

 右手でしっかりと支える刀身に自身の顔が写る。一瞬だけ、自分が白髪で赤い瞳を持った人物であるように写し出された気がした。窓から差し込むかすかな光が刀身の光沢をわずかながらに強調させる。ジェノは若干の驚愕の感情を抱いてそれを見つめ、鞘に戻した。鞘も布巾で手入れをして、ポーチも汚れがないか確認しながら丁寧に掃除した。

 ジェノが一通りの手入れを終えて立ち上がる。それと同時にレインが客室に入ってきた。レインはジェノを見ると、にこやかに言った。

「おはよう」

 ジェノは驚きのあまり、その挨拶に対してすぐに返事をする事ができなかった。

「あ、ああ、おはよう。……起きるまで早すぎたんじゃないか、レイン? もうちょっと寝ていても良いんだぞ?」

「ううん。寝ようと思ったけれど、ダメだった」

 ジェノは俯いて客室の椅子に腰掛けた。レインもそれに続き、その隣に座る。何かを話せるような雰囲気ではなく、2人は何故か心の何処かに緊張感を覚えた。

「……朝飯、作ろうか?」

 ジェノが何とも言い難い感情を紛らわすために思いついた適当な言葉を口にした。レインは微笑んで頷いた。数日前にヴェイルから利用許可を得ていたジェノは、キッチンまで向かった。果物や野菜類は豊富にあるので、それを巧みに扱って朝食を4人分用意した。皿に盛り付けられたそれは色とりどりで見栄えは良いものだった。

「結構さっぱりした作りになったけど、どうだろう。最近の俺が作ったものは肉とか入れてなかったから、退屈しないか?」

 ジェノは不安そうに尋ねたが、レインは何も気にしていない様子で答えた。

「ううん。全然そんな事ないよ」

「そうか……良かった」

 ジェノは何の気なしにレインを見ていた。レインはそんなジェノに対して気恥ずかしそうに視線を返し、食事を口に運ぶ事もせずにただ気まずそうにしていた。ジェノは半ば呆けていたが、そのレインの雰囲気に気付くと慌てて自分の目の前にある朝食に視線を落とした。

「あ、ごめん。こんな見てたら食べにくいよな」

 ジェノは新鮮な野菜と果実を味わいながら、ほんの一瞬だけ幸せそうに顔を綻ばせたレインを見て安心したように微笑んだ。


  * * *


 ヴェイルは自分の部屋の中で思案していた。

(レインとジェノ……今思えば、2人の関係性が気になるところだ。シモンが2人と行動する理由は分かったが、2人が行動を共にするきっかけとは何だ? 話を聞いた限りでは、ジェノがルシェロを訪れる前から知り合っていたわけではないようだが)

 ヴェイルは物事を真っ先に悪い方向で考えてしまう癖がある。それは事態の最悪を想定するという意味合いで考えれば、その能力のお陰で生き延びられた事もある。同時にそれは疑い深いという意味合いでもあり、ヴェイルが他人との関わりを積極的に得ようとは考えない所以でもあった。

(……あの膨大な魔力量。組織から狙われる理由。知り合ったばかりのジェノと行動を共にする理由。——つまり、レインの魔力量に関する調査が『白い彼岸花』の目的で、レインはそれから逃れるためにジェノを利用しているのではないか? 仮に利用する事が目的であるならば、危機的状況に陥れば迷いなくジェノや俺達を見捨てる可能性が高いだろう。あの時はシモンを信用して2人共家に入れてしまったが、レインの中に邪悪な本性が存在している可能性を捨て切れない。本当にこのまま訓練を続けても良いのか? どうするべきだ? 今更中断させるわけにもいかない。ジェノもそこまでは疑っていないだろうから、今から手を打ったところで納得するはずが無いだろう。それどころか敵対する可能性すら考えられる)

 ヴェイルが深く溜め息を吐いた。レインの素性が分からない以上、一度疑念の迷路に迷い込んでしまえばヴェイルの自力で抜け出す事はできない。

 そのまま悩み続けていると、部屋の扉がノックされた。豪快な音が鳴り響く。このノックの仕方をする人間は、ヴェイルには1人しか心当たりがない。

「入っていいぞ」

 答えを聞き終わる前に、シモンが扉を開け放った。

「おーヴェイル。ジェノが朝飯作ってくれてたぞ。リビングにいるから」

「あ、ああ。分かった」

 ヴェイルは深刻そうな表情を隠し、シモンに着いて行った。そしてヴェイルは一瞬どこかから何らかの気配を感じたが、それは確かに一瞬であったので気のせいだと思う事にした。

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