インタールード:夢

 ある夜、ヴェイルの家のリビングに置かれているソファで横たわっているジェノは夢を見た。その夢は、言わばジェノの記憶の追体験であった。

 ある時、ジェノが自宅で椅子に腰掛けながら魔導書を読んで過ごしていると、突然ジェノの手に別の人間の手が触れた。軽い驚きと共に、その手が伸びてきた方向へ目を向けてみると、そこには興味深そうにジェノを見つめる少女の姿があった。ジェノの目が向けられた瞬間、少女が首を小さく傾げる。首の動きに合わせて銀色の長髪が軽やかに揺れる。少女はジェノの妹——その名はアリスと言う。アリスは首を傾げたままの姿勢でジェノに尋ねた。

「お兄ちゃん、魔導書ってそんなに楽しい?」

 ジェノは魔導書のページをめくる手を止めると、アリスの方を見て答えた。

「楽しいよ。魔法の知らない理論とか構造とか、他には薬の種類や細かい作り方まであったり。色々面白いなぁって思う。まぁ、剣術とか武闘を続けてる俺が言うとおかしいかもしれないけれど」

 再びページをめくり、魔導書を読み続けるジェノを何か言いたげな様子でアリスが見つめ続けてくるので、ジェノは思わず再び視線をアリスに向け直した。何かを遠慮しているようにも見えたので、その真意を聞こうと問いかけた。

「何か言いたい事があるのか? 遠慮しないで、何でも言ってみろ」

 ジェノは息を吐くと、魔導書を閉じた。このような事を訊いても何も話さない時、それはアリスの「寂しいので構って欲しい」というサインである。これまでに何度もその状況になった事があるジェノはすぐにその意図を理解したのだ。アリスはそれを自分が邪魔をしてしまったなどの、何かジェノにとって都合が悪い事をしてしまったのかと考えた。緊張を覚えて俯いてしまう。そこでジェノが口を開き、同時にアリスが顔を上げる。

「良いよ。何をする?」

 不安げだったその表情が明るくなった。その不安はどうやら杞憂であったようで、安堵と喜びの混じった笑みを浮かべている。その顔は上を向き、何かを考えるような表情に変化して、やがて完全に消え去って申し訳なさそうにジェノを上目遣いで見た。

「何を………………ごめん、考えてなかった」

 不意にジェノが吹き出して笑った。

「うーん、それじゃあ外に出て何かの店でも回ろうか。あんまり値段が高いのは買えないけど、それでも良い?」

 アリスがぶんぶんと何度も顔を上下に振り回すように頷く。魔導書を本棚の元あった場所に戻した後、ジェノはアリスと手を繋いで外に出た。

 家の外の景色はほとんど変わらない。より詳しく言うのであれば、レンガを基本に作られた家の数々と規則的に並べられた街灯が織りなす街並みは、時折整備がされて色が変わったりするだけで、基本的な造形には何の変化も与えられていない。暖かい日差しの下に多く並ぶ店。遠くに見える時計塔。隣の家までもが昔のままだ。

 その街の中を適当に歩き、数多くある店の中でも2人は雑貨屋に向かった。様々な商品が並べられる中、1つのブレスレットがアリスの目に留まった。好奇心のままに指先で触れてみると、冷たい感触が指先に伝わってくる。ジェノはそれに気付いて声をかけた。

「それが気になる?」

 アリスは何処か控えめに頷いた。しかしそれに着いた値を見た瞬間、ジェノは思わず顔をしかめてしまった。その雑貨は魔法を使える人間に対してそれなりの恩恵を与える効果があるものだった。それ故にか、当時のジェノが余裕を持って買える値段ではなかった。アリスが控えめな反応を示したのもそれを理解しているからだろう。実のところ、アリスも魔法を使える人間ではない。買ったところでそれを活用できるわけでもないのだ。

「ごめん。それは買えないんだ」

「うん……分かってる。ごめんね」

 アリスは駄々をこねる人物ではなかった。今のジェノの記憶の限りでは、アリスがわがままをはっきりと口にした事例は思い出せない。それもあってか、久々に自らの妹が欲しがっているものを知れたその時、ジェノはどうにかしてそれかその代わりを渡してあげたいと思った。しばらく考え込んで生み出した別の案がこれだった。

「ブレスレットなら、俺が作ってあげようか? 例えば、花で作ったものとかなら、どうだろう? 嫌じゃなければやるよ」

「いいの?」

「うん。帰りに花畑に行こうか。そこならぴったりなものが見つかると思う」

「……ありがとう!」

 満面の笑みを見せるレインを、ジェノは微笑みながら見ていた。ジェノ達に両親はいなかったが、その家系で唯一残った2人はその時間を大事に思っていた。例えこの身が異端で他の人々と大きな違いがあったとしても、何があってもこの家族の時間だけは己の命が続く限り永遠に続いてほしい。そうジェノは願っていた。

 ……だが、その願いは叶わなかった。何もなかったはずの花畑の中、アリスの背が何者かに大きく切られた。その血潮が明るく暑い日差しに照らされ、咲き乱れていた花々に降りかかる。ジェノは突然に広がったその光景を見て、唖然としていた。何も考えられず、思考が追いつかなかった。その瞬間に何が起きたのか、それは地面に倒れたアリスの背後に立っていたそれを見た時に理解した。

 魔族だ。図書館の本以外では見た事もない人型の何かがそこにいた。鋭く長い爪でアリスの背を掻っ切ったのだ。そして、人を喰らう魔族は獲物を狩れる内に狩り尽くしてしまう。そうなれば、その視線は当然ジェノに向けられる。

 当時のジェノは武装などしていなかった。怒りと悲しみ。あらゆる負の感情が一気にジェノの中を渦巻いていたが、咄嗟には動く事ができなかった。何を優先するべきなのか、判断できなかった。それでもその魔族は、お構いなしにジェノに確かに襲いかかった。それ以降はジェノ自身、無我夢中で何をしたのかよく覚えていない。我に返った頃には魔族は地に伏せていて、間も無く塵として消滅した。一方でアリスは無惨にも背中を切られたままで、辛うじて意識が残っていた。ジェノはアリスに駆け寄ったが、痛みによって反射的に流れる涙と共に呻くだけで、アリスはまともな言葉を発せなかった。

「アリス? ……アリス!」

 ジェノは何度も妹の名を呼んだ。返事は返ってこない。力を失っていく身体を囲む血の池が大きくなる。ジェノはアリスを背負い、走った。アリスはもう息をしていなかった。走り続け、街に辿り着いた。アリスは冷たくなっていた。医者を呼んだ。アリスは帰ってこなかった。ジェノは泣いた。血にまみれたアリスにも涙がかすかに滲んでいた。もう一度名を呼んだ。返事はやはりなかった。

 ジェノが顔を上げる。アリスが目の前にいるような気がしたが、それはアリスではなかった。その正体はレインだ。ジェノはその2つの姿が重なった笑みを見た瞬間、ジェノははっと目を覚ました。決して良い気分ではなかった。次に窓の外に広がる景色を見る。いつも通り、外に広がる景色は雨の降る森林だ。……こんな夢を見た日くらいは晴れてくれても良いのに。そんな事を考えていた。

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