第3話 信頼と力

 レインが果てしなく続く真っ白な空間で目を覚ました。あるかも分からない天井を特に理由もなく見つめながら呆けている。しばらくして、突然白い空間が弾けるようにして別の景色を展開した。天井は澄み渡った綺麗な青空へと変貌し、レインのすぐ目の前に巨大な枝垂桜しだれざくらが現れた。レインは既にその状況を知っているかのように、動揺する事なく立ち上がった。

 どこからともなく風が吹き出し、レインのさらさらした白い髪が揺れる。桜の花弁が無数に宙を舞い、背の低い草が生えた地面と同化するようにしてその姿を消す。

 立派な桜の木の前に、狐面をした人影が現れる。木の幹に寄りかかる形で座っていて、その姿全体には黒みがかかっている。そのせいで本来はどのような色をしているのかが分からない。顔こそは見えないものの、何処かレインと似た容姿をしていた。

 狐面が桜の木の下から、真っ直ぐにレインの顔を捉えている。レインは恐怖したり怯んだりする事もなく、狐面を見つめながらその横まで歩き、座り込んだ。

 桜の間から光が差し込む。その強い白が加えられた朱色の輝きを、レインは眺めていた。狐面はそんな様子に興味を失くしたようにレインから顔を背けて、向こう側にぼやけて見える山を見た。雲一つかからない、空から色を分け与えられたかのような、青い山だ。

 不意に、レインが狐面に対して表情を変えずに言った。

「私ね……魔法を習う事になったんだ。すぐに効果が出るなんて思わないし、強くはなれないかもしれない。だけど……私、上手くやれるかな?」

 レインが狐面を見た時、狐面は本を読んでいた。本には判読できない文字の羅列が並んでいたが、レインはそれを見ても特に気にしなかった。狐面は本を閉じずに、それを読みながら答えた。

「……さぁ。私に訊かれても何とも答えられない。上手くいくかどうかは、レインが決めるんだよ。君の行動次第で決まる事だから」

「私の行動……」

 レインが自分の手のひらを、白く艶のある肌が形作るそれをまじまじと見ている。狐面がそれを横目で見た時、レインの顔を覗き込んだ。

「何かあったの?」

 返答が来るまでの数秒間、狐面は空を見上げた。満開の桜が空を遮っている。その隙間から覗く空や、遠くの山林を見る限りでは雲がほとんど見当たらない。狐面はそれを不思議に感じたが、それを態度に出す事はしなかった。

「ジェノが私に『抱えきれない苦しみは無理に抱えなくていい』って伝えてくれた。私はジェノを信じたい。ジェノは、見ず知らずの私を助けようとしてくれたから」

「……君がここを訪れる理由は、何かを思い悩んでいるからでしょう? それ以外は絶対にありえない。そして君がこの場所を作り出したのは、君が無意識の内に心の安らぎを求めているからだって事は自分でもわかっているよね? レイン。君に後ろめたい何かが無いのなら、最初からこんな場所には絶対に来ない。何が君を引き留めているの?」

 冷静な狐面の言葉に、レインは言葉を詰まらせた。頭の中で考えないようにしていた可能性を、ここで思い出してしまった。途端にレインは自分の息が詰まる感覚を覚えた。

 狐面は他人事のように見ているようで、声の調子を全く変える事なく、無の感情に近い状態で話を続ける。

「相当気にしているんだね。……でも見て。これだけ晴れ渡った空を君が見せてくれたのはいつぶりかな?」

 レインは黙り続けている。自分の息を整えるので精一杯なようだ。

「君は今、とても迷っている……でも、間違いなく変わろうとしているはず。今まで通り全部ここに頼り切ってしまっても別に構わないけれど、ジェノが言った言葉は少なからず君に響いているはず」

 レインの呼吸が落ち着く。素早くなっていた脈拍が次第に通常の速さまで落ち着けられていき、レインはジェノの顔を思い出した。

「この先辛い事があっても、それは覚悟の上で進む事。大丈夫、私はいつもここにいるからね。レインも信じられる人が見つけられたのなら、その人に思い切って頼るのも大切。今の君が、私に頼っているように、ね」

「……うん」

 レインの視界に見えるもの全てがおぼろげになっていく。やがて全てが最初に見た真っ白な空間に戻った時、レインは意識を失った。


  * * *


 レインがジェノに背負われた状態で目を覚ました。ジェノの背中から温もりが伝わってくる。雨で濡れていないのは、ジェノが傘を差しているお陰だ。シモンはジェノと自分の荷物を背負いながら先導をしている。

 辺りは草木に囲まれていて、薄明るくなっている。時間帯としては早朝くらいだろうか。雨は小雨程度まで落ち着いていて、風もほとんどない。珍しく静かな森林の中を歩いているようだ。

 レインがジェノに目を覚ましたと気付かれないように身を預けながら、何故森林の中を歩いているのかを思案した。そして答えはすぐに思い出した。

(……あ。魔法の……先生のところまで行くんだっけ)

 ジェノは右手に傘を持っていたまま歩いていたため、レインを支える力が少し不安定だった。不安を感じたレインは思わずしがみつくように腕の力を強めた。

「起きてたのか。……えーと、おはよう」

 レインは沈黙したまま、ジェノの背に顔をうずめる。ジェノが一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐに元の表情に戻してレインに言った。

「もうすぐ着くらしいぞ。シモンの知り合いの——誰だっけ?」

 話を振られたシモンが溜め息を吐いてジェノを見る。

「ヴェイルだ。何度も言ったろうが、流石に覚えてくれよ……どうした?」

 シモンは辺りをずっときょろきょろと見渡しているジェノを不思議そうに見た。ジェノが何かを警戒しているような表情を普段話す表情に戻した時、その疑問に答える。

「この辺には、魔物も魔族もいないんだな」

「ああ、そういうことか。ルシェロはその辺の管理はしっかりしてるからな。今まで外を出歩いている魔族なんかは見た事もねぇ。というか、街の中でそんな警戒する必要はないと思うが、ちょっとはリラックスしたらどうだ?」

「……魔族は嫌いだ」

「そうかよ。……っと、見えてきたぞ。あの1階建ての家だ」

 シモンは深入りするべきでないと直感して、それ以上掘り下げなかった。シモンが指差した先を見ると、木造でかなりの大きさの一軒家が建っていた。他の住居は一切見えず、その周りにある木は綺麗な断面の切り株を残して伐採されている。中庭は広く、的のようなものが置いてある。その隅には屋根と四本の柱だけで構成された簡素な材木置き場があり、縦に4つに分かれた薪がいくつも束ねられ、紐で縛られていた。

「結構人里から場所に住んでるんだな。凄腕の魔法使いってこういうものなのか?」

 ジェノが口にした率直な感想に対して、シモンが簡単に解説した。

「ヴェイルはあんまり派手な場所を好まないんだよ。まぁ、昔はこんな森の奥にこもり続けるような奴ではなかったんだが」

 シモンが家の扉の前に立ち、豪快な動作で3回ノックをする。ドンドンドンと鈍い音を立てて木製の扉が小さく揺れる。立て付けはしっかりしていたためか、扉が歪むなどという事態は幸いにも起こらなかった。

 しばらくして、扉の鍵が外されてゆっくりと開く。扉の隙間からシモンとほぼ同じ年齢くらいの男が出てきた。簡素な布製の服を着ていて、眠たそうに目をこすっていたが、扉の前に満面の笑みで立っているシモンを見るなり、何とも言えない表情をした。獣が縄張りに侵入した者を威嚇するように、男は不機嫌そうな低い声を放った。

「……お前はついに最低限の礼儀まで捨てたのか?」

「そんなこと言うなよヴェイル、元常連だろ」

「帰れ」

 ヴェイルが扉を閉めようとしたその瞬間、シモンが左足を驚異的な反応速度で扉と枠の隙間に滑り込ませた。扉が引っかかり、閉まらなくなる。勢いよく閉められようとしたため、シモンの足への衝撃はかなり凄まじいものだった。さらにヴェイルが追撃で何度も扉を開け閉めするので、シモンの左足のダメージが段々と蓄積されていく。

「待て待て待て! マジで大事おおごとなんだよ、話だけでも聞いてくれ!」

「何?」

 シモンの必死の説得にヴェイルが少し扉を開けた。そしてシモンの後ろに立っているジェノと、その背の上に小さくうずまっているレインを見た。思わず眉をひそめてシモンに尋ねる。

「どういう事だ?」

「この白い髪した嬢ちゃんに……魔法を教えてやってくれないか? 損はさせない」

 ヴェイルが十数秒の思考時間を経て、扉を開けた。

「詳しく聞こう。上がれ」

 ヴェイルに続いて、シモン達も家の中へと踏み入っていく。家の中は普通の木造建築といった印象だ。客室に招かれたが、その途中に見えるキッチンやリビングなども広々としていて、人が暮らすには十分な空間だった。ヴェイルがジェノ達を椅子に座らせた後、慣れた手つきでコーヒーを淹れる。そして砂糖とガムシロップをカップに添えてからそれぞれの前に置き、シモンの向かい側に座った。

「それで? 教えろって言っていたが……」

 シモンが遠慮なしにコーヒーをすすり、そのカップを置いて答える。

「その嬢ちゃん、レインっていう名前なんだがな。『白い彼岸花』に何かの事情で狙われていたらしいんだ。それにそいつらとのいざこざで俺とジェノ……この金髪な。こいつも狙われる事になっちまった。組織の何人かが政府に紛れてる可能性も高いから、今のままじゃあルシェロから逃げ出すのもそう簡単じゃねえ。いざという時の戦闘のために、教えてやって欲しい」

 ヴェイルが一瞬顔をしかめた。すぐに表情を戻したが、その変化はジェノもシモンも見逃さなかった。

「……そのいざこざについて聞いても?」

「情報提供を断ったら逆ギレされただけだ。お陰で店も潰されたぜ。物理的に」

 ヴェイルが額に手を当て、溜め息を吐く。

「あんなものがまだ残っていたのか? で、君……レイン、だったかな。魔法を覚えるのは一筋縄じゃいかない。本当に学ぶ覚悟はできているか?」

 レインはヴェイルをしっかりとその目に捉えながら頷いた。ヴェイルは頭を掻き、シモンとジェノに対してどことなく威圧感を含ませながら言った。

「タダで教えろとは言わないよな?」

「もちろんもちろん。金貨10枚で手を打とうぜ」

 シモンがあまりにも普通の表情で、そして普段通りの調子で巨額の報酬を提示したので、ヴェイルは驚愕した。しかし、それは態度には出さなかった。

「……余程焦っているんだな。お前の方からいきなりその額を提示するとは」

「焦ってる? 違うね。お前を見込んでの事だぜ、ヴェイル。あ、それと——」

 シモンが何かを言いかけたその時、ヴェイルがジェノ達の前で初めて微笑んだ。

「そうか。では、俺も手を抜けないな。……着いて来い。訓練所まで案内する」

 ヴェイルが客室から出るのに続いて、レインを先頭に全員で続こうとしたところで、ヴェイルがジェノとシモンに告げた。

「あ、お前らは授業料を払ってないから着いてくるなよ。外から見るだけなら良い」

「……ケチだ」

 ジェノが不満を一言だけ口に出してしまった。ヴェイルが無言かつ表情を変えずにジェノを凝視し、ジェノは反射的に謝罪した。


  * * * 


ヴェイルの後を追い続け、中庭まで来た。中庭はどういうわけか降り続けている雨の影響を受けていないようで、雑草には水滴ひとつ付着していなかった。それどころかその空間には雨が降っていない。

 中庭の真ん中まで移動したヴェイルが真剣な表情で告げる。

「ここで訓練をする。まずは君が持つ魔力量を計らせてもらおうか。それから方針を立てて本格的な練習に入るのだが——まずは魔力の放出と検知ができるようにならなくてはならない。今日はそれを兼ねて行う。俺の事は先生と呼んでくれ」

 ヴェイルがレインに水晶玉を差し出した。レインがそれを受け取ると、警戒しているようにそれを見つめた。それからはっとした様子でヴェイルを見て頭を下げた。心の中ではまだ不安が渦巻いていたのだが、ジェノもシモンも疑う様子はなかったので不安な自分を騙してどうにか信じた。

「よろしくお願いします、ヴェイルさん」

「早速説明をするが、まず魔力というものは呼吸と密接に関わっている。初めは目を閉じて全ての意識を呼吸に向けてみろ。あと先生と呼んでくれ」

 レインが言われた通りに目を閉じた。深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。次第に呼吸音が小さくなり、同時にレインの身体の内部と周りに、細かな何かが流れていくような感覚を覚え始める。

「……何かが流れるような、——不気味な何かが……」

「む、掴むまでが早いな。……検知に関しては既に才能があるのか? とにかくその流れが魔力だ。次は放出の基本を教えよう。やり方は聞けば簡単だろうが、実践は難しい。何しろ放出は自身の体内にある魔力の流れを操作する技術が必要だからな。イメージとしては、身体の内部にある流れをき止めて放出させたい方向へと無理やり押し出す感じか。これも目を閉じた方がやりやすいだろうな。慣れれば——」

 ヴェイルがレインが持つ水晶よりも一回り大きい水晶を取り出し、それを掴んだ。そして水晶がヴェイルの魔力と反応して青く輝き始める。その眩しいまでの光は数秒の間にさらに明度が増す。そして最終的には、魔力を注ぎ始めてから10秒と経過しない内に、その光と共に水晶が軽い爆発音と共に炸裂した。

 塵一つ残さずに消滅した水晶とその閃光の迫力に腰を抜かしているレインに対し、ヴェイルは落ち着いた様子で言う。

「こんな事ができる。今回の目標はこれだ。今みたいに塵一つ残さない程度までとは言わないが、その水晶を破裂させる程度には放出できるようになれ」

「……魔力量を測定するための水晶ではなかったのですか?」

「いや。魔力量自体はさっき流れを確認させた時に計った。その水晶は初心者の魔力放出の練習用に作られている。破裂させるのが前提だ」

 気を取り直したレインが水晶を掴み、目を閉じて深く呼吸をする。魔力の流れ自体は簡単に見極められるが、その操作に手こずってしまう。レインが苦戦している中で、ヴェイルは思案する。

(レインだったか。この子の魔力量は常軌を逸している……恐らく流れの探知までが尋常じゃなく早かったのはその影響だろう。魔法はイメージの世界——今はそれしか魔力がないと考えているのだろうが、いずれ自身の潜在能力に気が付けばより強大な存在になり得る)

 ヴェイルのその考えは危機感として己の頭に訴えているのか、それとも将来の魔法使いとしての有望さ……言い換えれば、希望のような存在として訴えているのか、ヴェイルには判断が付かなかった。

「……難しいな。本当に私にできるかな」

 レインが弱音を吐く。水晶に魔力を全く注げていなかったようだ。ヴェイルはそれを見て思考を切り上げ、助言をする事にした。

「魔法で大事なのはイメージだ。できないと思えばできなくなるし、難しいと思えばその分難しくなる。大丈夫、自分ならできると信じてやってみろ」

 レインが再び呼吸を整えて落ち着く。自分にならできると一度だけ考えた後、再び挑戦を始める。10秒ほど経過した時、一瞬だけ水晶が白く光り、ヴェイルが反応した。

 レインが集中し続ける。じっくりと時間をかけ、ゆっくりとその小さい白い光がより強く輝き始める。2分ほど経過して、レインは水晶を落としてしまった。レインの呼吸が荒くなっている。指が震え、激しい運動をしたわけでもないのにも関わらず、息が切れている。さらにはその額に汗が流れ始めた。

「惜しかったな。だがよく頑張った。一度、ゆっくり息を吸って吐くんだ」

 レインは地面に両手をつき、完全に立てる状態ではなかった。ヴェイルの労いにも答える事ができないほどだ。

「集中するのも良い事だが呼吸を忘れるな。初心者がこれをする時にやりがちなんだが、魔力の操作に夢中になりすぎて酸欠になる人間が多くいる。今回は気付けたようで何よりだったが、身体の状態には気を配れ。最悪酸欠状態に気付かずに気絶する可能性もある」

 その様子を家の窓から覗いていたジェノとシモンがぽかんとした様子で互いを見つめ合った。同時に視線をレインとヴェイルに戻した後、再び互いの顔を見た。

「……なぁ、ジェノ」

「何だ?」

「魔法の習得って、あんなんなるほど辛いのか?」

「俺は知らないけど、多分そうなんだろうな……」

 ジェノとシモンには距離が離れているので、レインとヴェイルが何をしているのかは全くわからない。会話でさえ聞こえない。ジェノ達からすれば、ヴェイルが何かを話した2分後に突然レインが倒れたように見えたのだ。

 しかしシモンはヴェイルが騙すような人間ではないと信じている。そのため窓から飛び出して様子を見に行くなどという真似はしなかった。ジェノもシモンが動かないのを見て、心のどこかで検討していたヴェイルとの対峙は考えていなかった事にした。

 ジェノがシモンに適当に思いついた話題を振る。

「俺らはどうする? レインとヴェイルだけあんな真面目で、俺らがくつろいでるのって何か不公平じゃないか?」

「言われてみりゃあそうだな……でも真面目にする事って何かあったか?」

「……見張り?」

 シモンが軽く笑った。

「バカ言え。俺らの顔は奴らに知られてるんだぜ? 見張りなんてしたら逆に奴らに気付かれて、敵を呼び寄せると思うんだよな。それに今までなんだかんだ襲われなかったし、そこまでの警戒はいらないんじゃないか?」

 ジェノが小さく唸り、やや上を向いた。

「まぁ、そう……なのか? 襲撃に気付けないのもアレだと思うんだけど」

 ジェノは嫌な想像をしたが、それは考えない事にした。それでもちらちらとそれを思い出してしまうので、難しい顔をしてしまった。シモンもジェノの表情の変化には気付いたが、言及はしなかった。

 その一方、窓から見える中庭ではレインがようやく立ち上がった。想定よりも少ない時間で立ち上がったその姿に、ヴェイルが感嘆の声を漏らした。

「もう立ち上がるのか。息も整っている……流石だな。今度は呼吸を忘れるなよ」

 レインは頷き、水晶を再び掴む。水晶が溜め込んでいた光は既に失われていたが、レインは諦めるつもりはないらしい。ヴェイルは不敵な笑みを浮かべた。

 レインはその後も何度も失敗を重ねた。呼吸に意識を向けすぎた結果、水晶が魔力を自然に放出して振り出しに戻ったり、先ほどと同じように過集中によって酸欠を引き起こしたりした。挑戦回数はこれで9回目になる。

 レインが地面にうつ伏せになって倒れる。回数を重ねる度に過呼吸を引き起こした際の苦痛が大きく増している。これ以上の続行は危険だと判断したヴェイルが慌ててレインに駆け寄る。

「待て。これ以上続けるとこれからの訓練に支障が出る。一旦休憩しろ」

 レインが顔を下に向けている。それでも呼吸の荒さとその間に咳き込むその状態を見ればレインの苦痛を容易に想像できる。

 ヴェイルが窓から身を乗り出すようにしてその様子を見ていた2人を呼んだ。呼ばれた事に気が付いてからすぐに窓から飛び出し、ヴェイルの元へ走った。

「何があったんですか?」

「訓練をさせていたんだがちょっと限界が来たみたいだ。一度寝かせてやってくれ」

「……分かりました」

 ジェノがレインの身体を仰向けに回転させて抱き上げ、室内まで駆け足で戻っていった。その横で、ヴェイルの言葉にシモンが驚愕のあまり口を開けている。

「マジでそんなになるのかよ!? 序の口でこれとか、本番どうなるんだよ」

 シモンの言葉に対し、ヴェイルは面倒そうな表情で答える。言葉を返す前に、深く溜め息を吐いた。

「辛いのはコレだけさ。魔力の操作にさえ慣れてしまえば、後はここまで酷い有様になる事は絶対に無い」

 シモンは頭の裏を軽く掻きながら、ヴェイルに問う。

「お前、レインに対して何か考えてないか?」

「……別に。何故そう思う?」

「なんか珍しい雰囲気を纏ってたからな。俺の語彙力だと言葉にできないが」

 ヴェイルが眉をひそめる。シモンがそういう事を察せる人間であるとは思っていなかったようだ。同時にヴェイルの懸念の根本的な部位を直接突かれてしまったのを、何故か嫌に感じた。

「何も怪しい事はない。将来強くなると感じただけだ」

「そうか? ……無駄に喋らせてすまなかったな」

 何となくそれ以上の理由がある可能性をシモンは心のどこかで追いかけていたが、問い詰めるな、とシモンの勘に告げられた気がして話を切り上げ、別の話題を持ち上げる。

「あ。そういえば。俺が何で金貨10枚出すかっていう話なんだけど、お前最後まで聞かずに引き受けたろ」

「他に何かあったのか」

「ああいう話は最後まで聞いてから引き受ける癖つけた方がいいぜ。痛い目見るぞ」

「何が言いたい?」

「まぁ、なんだ。俺ら3人の護衛と宿代含めて金貨10枚にしようと思ってた」

「……つまり、泊まる気なのか?」

 ヴェイルが露骨に嫌そうな雰囲気を声に含ませた。シモンがやれやれ、とでも言いたげに苦笑した。そしてその苦笑はその通りだ、という意味も含まれていた。しっかりとその意図を受け取ったヴェイルが頭を掻く。

「……ああ、それは俺の落ち度だ。受けるかは自己責任だし、その条件で引き受けた以上はやり遂げるしかないんだな。いい教訓を得た。騙されたとか言う気はないから、どうか気を悪くしないでくれ」

「……これまで何度その教訓を突きつけられたんだろうな?」

「学ぶのは大嫌いなんだ」

 シモンの嫌味が混じった指摘を受けて、ヴェイルは苦笑した。


  * * *


 ジェノはリビングにあったソファにレインを寝かすと、商人が渡してくれた未使用の水入りボトルを出す。

「水、飲む?」

 レインは天井を見つめているのか、もしくは何も見ていないのか、仰向けになったまま呆けている。ジェノが顔の前で手を振ってみたところで、ようやく我に返ってジェノを見た。相当疲れているのだろうか、ジェノを見つめる目でさえもどこかうつろなものを感じさせる。

「……ねぇ、ジェノ。私ならできると思う?」

「うん、できる」

 ジェノが即答した。レインが安心したように微笑む。それでも顔から疲弊が抜け切った様子は窺えなかった。ジェノは溜め息を吐き、ソファの横にある椅子に腰掛けた。

「この短時間で、随分と疲れたみたいだな」

 そう呟き、窓越しにヴェイルを見る。ヴェイルはシモンと何かを話し続けているようで、2人の表情は真剣だった。少なくともどうでも良い話題ではないらしかった。

「ねぇ、ジェノ」

「何だ?」

「……魔族って、嫌いなんだよね?」

「……そうだな。どうしたんだ?」

「ちょっと気になっただけ。……どうして嫌いなの?」

 ジェノは小さく唸った。そして、渋々、といった様子でそれに答える。

「妹がいたんだよ。でも、殺された。だから憎いんだ。魔族も、魔物も」

 想定よりも重く深い理由だった。レインはどう反応すべきなのか分からなかった。言葉に迷い続けるが、最適であろう言葉が何一つとして見つからない。ジェノもこんな事を簡単に言うべきではなかったと心の中で後悔した。

「……まぁ深くは気にしないで。疲れただろう? ちょっとだけでも良いから、今はちゃんと寝ておこう。午後にも訓練があるんだよな? ……俺も眠くなってきたし」

 ジェノはそう言うと、机に突っ伏してそのまま眠った。レインもしばらくは眠れなかったが、まもなく疲労による睡魔に負けて眠りに落ちた。

 正午を過ぎた頃、レインが目を覚ました。ソファに横たわる身体を慌てて起こし、辺りを見回す。レインのすぐ目の前に、机に突っ伏しているジェノがいる。その体勢で寝ているのか、ジェノの背中が呼吸に合わせてゆっくりと上下しているのが窺える。レインがジェノの肩を軽くゆする。ジェノは身体を起こさずに、顔だけを上げてレインを見た。寝ぼけているのか、ジェノは無言で何度も瞬きをしている。

「ジェノ。私、行ってくる」

 レインの言葉でジェノが二度寝しようとした身体を起こし、一度だけ大きく伸びをした後に言う。

「わかった。頑張れよ」

 簡潔な言葉での激励を受けたレインは小さく頷いた。そして最初にヴェイルに案内された道筋を辿って再び中庭に立つ。ヴェイルがレインを見て水晶を手渡した。

「いいか。多少は良くなったようだが、絶対に無理をするな。もしさっきと同じような症状が起きたら、今日はすぐに中止だ」

 レインが頷いて水晶玉を手に取った。

 レインが再び目を閉じ、呼吸に集中する。先ほどと同じように、魔力の流れが感じられるようになる。そして自身の内部を流れる魔力に意識を向ける。レインがここで、一度だけ深い呼吸を挟んだ。次は呼吸を忘れないように意識を自身の呼吸音に向けながら、自分の内部を流れる魔力の流れを止める。それを水晶を持つ右手に流すようにイメージする。再び水晶が白く輝き出す。焦らずにまた一つ深呼吸を挟み、再び水晶に流し始める。水晶の輝きがさらに強くなる。やがて水晶にヒビが入る。小さなヒビはやがて亀裂に変わり、閃光を吐き出す。そしてレインが目を開いた瞬間、快音と共に水晶が炸裂した。

 その勢いで体勢を崩し、尻もちをついてしまったレインが驚愕の表情を浮かべて弾けた水晶の破片を見た。白い閃光は一瞬の内に薄暗い空模様と同化して消えた。ヴェイルもその横で目を見開いていた。

「……やった」

 そう一言だけ言うと、レインがヴェイルの方を見る。ヴェイルはレインを見たまま何かを考えていた。レインの視線に気付くなり、それを中断した。

「コツを掴んだようだな。放出スピードも悪くない。休憩にするから、息を整えておくんだ。君が望むのであれば、もう少ししたらまた次の指導を始めるが……ああ、わかった。やるんだな」

 レインは迷う事なく頷いた。その意図はヴェイルにはすぐに伝わり、レインの訓練に使う手法を考え始めたところ、レインがヴェイルに頭を下げた。

「……ありがとうございました、ヴェイルさん」

「ああ」

 レインが窓から覗いているジェノとシモンの元へ走っていく。ヴェイルが思い出したようにレインを呼び止めた。レインが何かわからずに振り返る。ヴェイルは一つ息を吐いてから、どこか懇願しているように言った。

「……次からは先生と呼んでくれ。頼む」

 レインが首を傾げた後に大きく頷き、再び走り始める。ヴェイルはどこか腑に落ちない様子でそれを見送った。

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