第1話 止まない雨
昼間だと言うのにも関わらず、幾つもの流星が明るく輝いているのが見える。そんな空の下で、ジェノは草原の真ん中に伸びる道の上を荷馬車に乗って移動していた。その馬車は年老いた男の商人のもので、その商人に話を聞きながら共に移動する事にしたのだ。
小窓越しに外の景色を覗いてみると、不意に吹き出した爽やかな風が心地よく感じられる。所々にある木々がざわめき、それがジェノの聴覚を刺激する。そして風で小窓にかかった布地がはためく。のどかで、雲一つない晴れ渡った空。馬車に揺られながら、ジェノはひとつ大きく息を吸った。
それからジェノが時折携帯食料を口の中に押し込んでいると、遠くに城壁がぼんやりと見えて来た。新たな街に辿り着く事と、移動中に魔物や魔族にも襲われなかった事への喜びを辛うじて抑えながら、ジェノは冷静に周囲の警戒を続けた。そこで馬を操っている商人が小窓から顔を出しているジェノに声をかける。
「旅人さん。見えますか? あれが目的地の街、ルシェロですよ」
微笑みながら落ち着いた声で話す商人に、ジェノは興味深そうな反応を示した。
「かなり立派な城壁だな。俺は行った事がないんですが、どういう街なんです?」
「水と密接に関わり合った街……というのが最も正しいですかね。あの場所ではあらゆる設備や生活の
「悠久の雨……」
商人は進行方向に視線を戻し、そのまま道の先を見つめる。
「要するに、無限に降り続ける雨の事です。あの地域では、どういうわけか雨が降り止まなくて、それで悠久の雨に関する研究が昔から続いているんだとか。この辺りは魔物もいなくて平和で、よく立ち寄りましたね。……ただ、以前向かった時は傘を持っていなくて大変な目に遭いましたよ」
苦笑した商人を横目に、ジェノはもう一度城壁の方を凝視する。先ほどよりも距離が近づいているためか、よりはっきりとその影を見ることができる。確かにその壁の上に分厚い雲がかかっており、城壁だけでなくその周辺にも雲が広げられているようにも見える。
それからさらにルシェロまでの距離が縮み、ジェノ達には城壁が雨で
そこで商人はジェノに荷台から降りられるように準備するよう合図を出した。城門まで辿り着くと、そこでは検問が行われている。これはルシェロに限った話ではないが、大抵どこの区域でも検問が行うことが義務化されている。魔物が人に擬態して襲いかかるという事例もあるため、門番達は必ず入念に確認しなくてはならない。
そこで余計な事をして不審に思われて進入を拒否されたり、時間を無駄にしたりしてしまうのは二人にとって非常に好ましくない。幸い商人はルシェロを頻繁に訪れているため、その紹介があればジェノも通れるだろうと商人は言った。
もうすぐ検問の時が来る。ジェノは雨の中で馬車から降りると、馬を労うつもりで軽く撫でた。何やら雑談をしている門番達の元へ近づくと、ボディチェックや荷物の確認などが行われた。特に問題はなく、通行許可が下されると、ジェノと商人は先へと進み、ルシェロの城壁の内部へと立ち入った。ジェノが銀貨が数枚入っている革袋を商人に手渡すと、商人はそれを懐にしまい込んでから、ジェノに傘を一本とパンや干し肉などが入った袋を差し出して愛想よく笑った。
「お疲れ様でした、旅人さん。しっかり休んでくださいね。それと、この傘と食料は差し上げます。久しぶりに他愛もない会話ができて、少し楽しくなれました。ありがとうございます」
「良いんですか? ありがとうございます。そちらこそお疲れ様でした」
そんな会話をして、あっさりとジェノは商人と別れた。ジェノは先ほどの商人から得た傘を差し、情報を色々と照らし合わせながら改めて街並みを確認してみた。幾つも並ぶ住居に、水車、用水路、放水路、そして雑木林に小川。また、近場にある雨に濡れた石の道路の上を馬車が何台も走っている。雨の影響で地面が周囲の光を曇った鏡の如く反射していて、人や車輪がそこを通る度に
それで身体や衣服を余分に濡らさないように注意しながら、ジェノはひとまず街を探索することにして歩き出した。
悠久の雨は名前の通り止むことのない永遠の雨だ。雲が晴れることなどあり得ず、それが止んだとて水に依存したルシェロに利益が繋がるとは思えない。それでも、折角の創の流星を眺めることができないのはジェノには残念に思えた。
「……ここは後回しにして来れば良かったのかなぁ」
そんな事をぼやきながら、空を見上げながら歩く。それに加えて、先程の商人にこの街の案内まで頼めば良かったとついでに後悔し始めた。自身の記憶が正しければ、流星はあと9日ほどだけ続く。ジェノは流星が終わる瞬間くらいはその目に焼き付けておきたいと考えている。つまり、それまでにルシェロでの調査を完全に終えられるように努力する事を余儀なくされる事を意味する。ジェノはその事実を再認知して肩を落とした。
ジェノは歩いている途中で、何度か店の店員や通行人に呼び止められた。おおよそ客引きのためだろうと思って無視した。
歩いている内に
こんなところにあるのは一体なぜだろう。そんな思いがジェノの好奇心を強めた。それに任せて酒場に入ると、褐色肌の男の店主がいた。ここに来たのは初めてだと伝えると、彼から商品や街のこと等を長々と聞かされる。それを一通り聞き流してから、ジェノは本題を切り出した。
「ところで何ですが、俺は魔力を探す旅をしているんです。この辺りで何か知ってる事はありますか? 例えば……魔力に目覚めた人の噂みたいな」
店主は熱心にその写真を見つめたあと、困ったような表情をしてジェノに告げる。
「いいや、聞いた事がないな。力になれなくてすまない。あぁそれと、折角来たならなんか飲んでいきな。酒以外も置いてあるぜ?」
店に入っておいて何も買わないのも良くないと思ったジェノは、言われるがままにカウンターの一席に座る。差し出されたメニューと料金の一覧を見て、少しの間思案した。
「……あ、サイダーは置いていないのか。じゃあ、シンプルなコーラを一杯だけ」
注文を決めると不意に顔を上げ、銅貨を3枚カウンターに置いた。
「マジか。いや、何でもない。今用意する」
妙に動揺したのがジェノの心に引っかかったが、余計な思考と判断してそれを一旦忘れる事にした。
コーラがなみなみと注がれ、そこに氷が5つほど入れられたグラスがジェノの前に運ばれる。その後、ジェノは一口だけそれを飲んだ後に店内を一度見回した。ジェノ以外に客はいない。ビリヤード台やダーツなどの軽い娯楽の他に、奥の方にはジュークボックスが置いてある。整備されていないのか、それを縁取るネオン管は光を灯していない。端の方の一部分が点滅しているだけだ。そして、一部分の照明が切れているのも窺える。光を残している照明や酒を保管している棚が室内の雰囲気を良くしているものの、どこか古びている印象を感じられる。
「ジュークボックスが気になるのか?」
「いえ。この店がどれくらい前から営業してるのか気になりました」
「創業した年って意味なら相当前だ。俺の親父が言うには大体……500年か」
ジェノがコーラを飲み干し、静かにグラスを置いた。そして一呼吸するだけの間を開けてから店主に軽い上目で視線を向けた。
「相当長いんだな。……そうだ。この街について、何か注意すべき事は? この街に来るのは初めてで、なんか守るべきマナーがあるなら教えて欲しいです。あと、できれば情報屋がいるのかとかも」
ジェノがそう訊いた時、店主はにやりと口角を上げた。
「へへっ、そいつは運が良かったな。それなら、俺と取引しないか? 丁度あんた以外に客もいない。誰にも聞かれる心配がないからな」
「……取引?」
ジェノは少し
「普段俺の方から話すことは滅多にないんだが、あんたは見る限り相当な実力のある旅人だ。探しものを探す旅って言うなら、街に定住するわけでもないだろう? ……だから勝手に信頼して言わせてもらうぜ。実は、俺は情報屋兼私立探偵もしてるんだ。それもちょっとダークな方のもな。つまり俺は普通の人間じゃ手に入らない情報を手に入れられる。そこでなら、お前の目的も何か手掛かりが掴めるかもしれない。俺に報酬を支払えば、その分だけ協力しよう。悪い話じゃないだろ?」
ジェノは沈黙し、そのまま店主の提案に乗るべきかを考えていた。店主は一見悪い人間には見えないが、店主の人物像も把握できていない。この街での常識も知らない状態で簡単に人を信じても、嘘の情報を流されて、騙されて終わるだけかもしれない。旅に必要な資金に関わる話ならば、尚更騙されるわけにはいかなかった。
旅人にとって、路銀を稼ぐ手段は限られている。余裕があるとはいえ、それを浪費するなどあってはならない事だとジェノは考えていた。
「まぁ信用できないと言うなら、報酬は情報が本当だと分かった後にしても構わないぜ。これならお互い裏切ってもダメージがない」
「俺が情報を持ち逃げする可能性だってあるでしょう?」
「そしたら殺すだけさ」
店主は表情を変えず、一言だけそうあっさりと言い放った。ジェノはその店主の様子に気圧されたが、表情を崩す事なく冷静を装おうとして答える。
「そ、そうですか。じゃあ一つだけ質問」
「何だ?」
「あなたが嘘を流さない保証は? できるだけ無駄な労力は使いたくない」
店主は少しの間だけ思案したあと、不敵な笑みを見せた。そしてコーラをもう一杯グラスに注ぎ、ジェノの前に差し出した。
「じゃ、一つだけ大サービス。無料でアドバイスをやるよ……『白い彼岸花』を探せ。これを信じるかはあんたに任せるとして、返答は3日後に聞かせてくれ」
ジェノは思わず顔を
「彼岸花? なんでそんな物の名前が?」
「探せばわかるさ。あんたみたいな旅人には助けになる」
ジェノは首を傾げた。そして差し出されたグラスを無視して立ち上がると、それを立ち去ろうとしていると解釈した店主がジェノを呼ぶ。ジェノは
「おいおい、そう焦るなよ。最後に互いの名前くらいは知っておこうぜ? ……俺はシモン。お前は?」
「……ジェノ」
「いい名前だ。次会う時は敬語は使わなくて良い。そっちの方が気が楽だろう」
名前を聞いたシモンは笑い、ジェノは発言の意図もわからないまま、別れる雰囲気を察して店を出た。シモンはグラスに入ったコーラをしばらく眺めた後、それを捨てた。黒っぽい液体の中にある炭酸が弾け、やがて完全に静まった。
* * *
ジェノは酒場を後にしてから宿を見つけ、そこからずっと周辺の様子を
白い彼岸花というのはそのままの意味なのだろうか。それとも何かの隠語なのか?
そんな疑問がジェノの頭を横切る。どれだけ考えても疑問だけが浮かび、解決の道筋までは紐付けられそうになかったため、それ以上思案するのを諦めた。
「……もうすぐ日没かな」
ルシェロは常に雨が降り続けている影響で日中も薄暗いのだが、日没が近づくと他の区域に比べて異常なほど暗くなる。夕方でも遠くに見えるはずの夕陽は城壁によって遮断され、結果的に夕暮れに差し掛かる前には街灯などに明かりが灯さなければいけないほどになる。
そして、ジェノの周辺は街灯に光が点き始めた。ルシェロでの時間感覚がわからないジェノとしては何となくで察知したことだが、概ねその予測は合っていた。
しかし、それ以前にジェノには疑問に思う事があった。それは、シモンに明日までに返事を返さなければならないことだ。
詳細を聞く事なく、たった3日でその意味を理解できるという事か。それとも単に素早く返答が欲しかっただけなのか。あるいは、また別の意図が含まれているのか。
何にしても、その白い彼岸花を探し出さなくては話が進まない。ジェノは雨とそれを横薙ぎにする風を煩わしく思いながらもゆっくりと歩を進めた。
少し進んだところで川に辿り着いた。こういった川は大抵雨によって増水しているはずなのだが、どういう仕組みなのか特に深い川が形成されているわけでは無いようだった。高架下を通ってずっと奥まで伸びており、水位が低いためか地面が若干透けて見えている。
ジェノは高架下まで降りていった。そして川や高架橋に水位調節の機関が無いか探してみたが特にそれらしきものは見当たらない。思い返してみると、高架橋の上から見た川は城壁まで伸びているのが
ジェノは傘を閉じ、試しに少し川に手を突っ込んだ。見た目通りすぐそこに見える地面に手が付く。川の水は冷たく、氷の中に手を入れた気分になった。
(見た目と違って本当は深い……なんてことはないか。それにしても暗いな。幽霊でも出てきそうな——そんなわけないか)
辺りは先ほどよりもさらに暗くなる。流石にこれ以上油を売っているわけにはいかないと思ったジェノが顔を上げると、その目に異様な光景が飛び込んできた。
少女が立っていた。ジェノはその少女に対して、不思議で不可解な印象を持った。少女は小柄で、真っ白な髪は腰まで伸びている。髪の先端からは雫が滴り、その横顔には赤い瞳があり、その表情はどこか寂しさを感じさせる。ジェノはその姿に見覚えがある気がして、一瞬だけ呼吸を忘れてしまった。
そして何よりの違和感をジェノは
その純白と形容できる容姿は異常さと同時に何処か美しさを感じさせる。ジェノはそれから目を離すことができなかった。少女の表情からは敵意も感じられないし、こちらに気付いている様子もない。立ち去るべきか声をかけてみるかで迷っていた。もっとも、普段のジェノであれば迷いなく話しかける方を選ぶのだが、今回の場合はそう簡単に判断する事はできなかった。少なくとも、異質な何かを放っているのは間違いない。
(……まさか、本当に幽霊、なんて事はないよな?)
その思考がジェノの頭を
ジェノは思い切って少女に声をかける決断をした。完全な暗闇の中、降り続けている雨が心做しか強くなり始める。水面に映っている波紋の数が急激に増えていく。
自然とジェノが叫ぶような声になる。こうでもしなくては相手に届かない。
「そこで何をしているんだ!?」
声をかけられてもなお少女は身体の向きをジェノに合わせているだけで、特に動作を示すこともない。ただ、一定の距離を保っているだけだ。
「雨も強くなって来てる……そんな所にいたら危ないぞ! ほら、上がれるか!?」
ジェノができるだけ川岸の端の方から少女に向けて手を伸ばす。少女は
互いの手を掴む。ジェノは想定以上に軽い力で少女を岸まで引き上げられたのだが、その軽さに違和感を持つほどの思考の余裕は残っていなかった。
少女は引き上げられてすぐに崩れるように倒れ込む。ジェノが反射的に少女の身体を支える。その時、少女がかたかた震えていることに気付いた。少女は震えながら、そしてその目でジェノを捉えながら、呟くように何か言葉を発した。その頃には雨が豪雨に近い強さにまでなっていたためか、それを上手く聞き取る事はできなかった。さらに、雨の影響で川が増水し、足元に水が迫っている。
「歩けるか!? この雨量じゃここは危ない!」
懸命に呼びかけるも、少女はぐったりとして動かない。辛うじてジェノの衣服の袖を
高架橋の上まで来れば、街灯が道を照らしてくれる。そこまで上り、ジェノは
とはいえ、ずぶ濡れの状態でいるわけにもいかない。時間帯は夜。気温はさらに低くなっている。当然このままでは凍えてしまうだろう。少女はよほど衰弱し切っているのか、目を覚ます気配もない。安堵している暇はなく、早い内に手を打たなければならない。ジェノもそれをすぐに自覚して走り出した。
「ごめんな。少し寒いかもしれないけど、もう少し我慢してくれ」
意識の有無も分からない。それでも少しの励ましにならないかと、ジェノは少女にできるだけ声をかけながら、街を駆ける。そして探索中に見つけ、予約を取っていた宿屋に飛び込んだ。
受付嬢がジェノの姿を見た直後、その表情を驚愕に染める。
「お帰りなさ——え? その子は……」
「いきなりだけど、借りる部屋、一つ追加できますか?」
「は、はい。只今空室を調べますね」
受付嬢が名簿と書類を見比べた後、印のついた地図をジェノに見せた。印の場所は、ジェノの部屋である107号室の隣にある3部屋だった。
「1階では108、109、110号室の3部屋が空いています」
「じゃあ、とりあえず108号室を借りさせてください。料金は今払います」
ジェノは左手で、指定されている金額分の硬貨を受付に置いた。
「わかりました、鍵はこちらです。……お部屋までお手伝い致しましょうか?」
差し出された鍵を手に取り、重い足取りで部屋まで歩こうとするジェノを心配に思ったのだろうか、受付嬢がジェノに提案をしたが、ジェノは首を横に振って答えた。
「いえ、大丈夫です。自分で何とかします」
「……畏まりました」
余計な世話だ、などと逆に迷惑をかけるわけにもいかない。それに加えて客に深入りしないように上司から言われている。内心ではまだ手を貸したい思いがあるものの、それを抑えた受付嬢はそれ以上何も言わなかった。
* * *
少女が目を覚ました。覚ました、と言ってもまだ意識が
なんとなく、少女はこの少年がここまで運んだのだろうと思った。特に危険性も感じられず、身体も言うことを聞かないので今はこの状況に身を任せる事にした。そして横になった身体と自身の髪が触れ合う時にふと気付く。
(髪……あまり濡れてない……)
どうやら髪だけではなく、ほぼ全身に付着していた水滴を拭ったらしい。ジェノは少女が目を覚ました事に気づいていないのか、そのまま立ち去ろうと部屋から立ち去ろうと、身体の向きを変えた。それを見た少女は思わず、精一杯の声でジェノを呼び止めた。
「……——待って」
ジェノが振り返る。か細い声であったが、しっかり届いたようだ。どうかしたか、とでも言いたげな顔をしているジェノを前に、少女は言いたい事を忘れてしまった。口を半開きにしたままで、声だけを絞り出せずにいる。ジェノが少女が横たわるベッドの横まで歩いた。そのままの表情で、その要件が何かを聞かされるまで待った。
少女は何も言わなかった。言えなかったと言う方が正しいだろうか。ジェノの瞬きの速度が速くなり、沈黙が流れる。やがて少女の呼吸が寝息に変わったところでジェノは立ち上がった。何なのかが理解できずに困惑しながらも、同じ部屋にずっといるわけにもいかないと思ったジェノは部屋を立ち去り、鍵をかけてから自室に戻った。
* * *
ジェノが目を覚まし、日光を浴びようとしてカーテンを開ける。それは決して良いとは言えない程の空模様だった。永久に雨が降り続けている街、と言う事を完全に忘れていた。空から無限に降り続ける雫を見ながら、深く溜め息を吐いた。
(そういえば、この街じゃあずっと雨なんだよな。起きる時間帯は同じなはずなのにこんなに暗いものか。調子が狂う……)
ジェノの記憶の片隅からあの少女の顔が引っ張り出され、それと同時にジェノの意識が完全に覚醒し始める。部屋の契約をしたのはジェノなので鍵を持っているのもジェノだ。部屋の様子ぐらいならいつでも見に行けるが、そのまま突撃するのは抵抗感がある。身支度を済ませ、鍵の確認だけする事にした。
ドアにジェノの拳が3回、一定の調子で108号室の扉に軽く音を鳴らす。何の反応もなく、鍵もかかっていない。もう部屋から出て行ったのかとジェノは思った。
(もういないか。弱ってるように見えたし、ちゃんと無事だったら良いんだけど)
鍵を返そうと方向転換しようとした瞬間に、扉が開く。軽くぶつかりそうになったので、思わず飛び退いた。
「え?」
率直に思い浮かんだままの反応が口に出てしまった。少女が目を擦りながら部屋から出てきた。我に帰ったジェノはそんな少女の顔を見て反射的に謝罪した。
「うわぁごめんなさい! いると思わなかった!」
少女が拍子抜けな表情を浮かべる。その感情は驚きと安心が混ざった何かだった。
「……何で謝るの?」
ジェノの謝罪に対して、少女が疑問を投げかけた。ジェノは逆らえない空気を感じていたため、そのまま正直に答えようとした。
「……いや。何だろう、起こしたと思って」
ジェノは自分でも何故その返答をしたのかが分からなかった。実際には、答えようとしてもそれらしい理由が思い浮かばなかったので、適当に考えた理由を後付けしただけだ。
「昨日はどこにいたの?」
「その……誰かも知らない野郎と同じ空間で夜を越したいと思う女の子なんていないだろうと思って、別の部屋を借りて、そこで寝ていたんだ」
「……そう」
少女の声はどこか暗い。特に怒りや敵対心といった雰囲気は感じられないが、それは互いに安心できる要素として捉えることはできない。少女はジェノに不信感を感じているらしかった。無理もないだろう。ジェノは何かを話そうとしたが、この様子ではいきなり少女を元いた場所に返すために色々と聞き出しても答えてはくれないだろうと考えて、最初に思い浮かんだいくつかの疑問は全て切り捨てた。
そうしたところ、良い言葉が思いつかなくなった。ジェノが困っていると、レインの腹が鳴った。互いに顔を赤くしたところで、ジェノが恐る恐るで尋ねた。
「……朝飯、食いに行こうか?」
少女は小さく頷いた。
この宿には食堂がある。その料金は宿泊料に含まれているので、ジェノ達は何の問題もなく利用できる。そこまで移動したところ、奥に見える厨房では既に何人もの料理人が宿泊客の朝食を
ただ長く見惚れていても仕方がないので、我に返るなりすぐに食券を手にして列に並ぶ。ジェノの背後に、少女も続いて並んだ。食事を受け取り、席に着いてからジェノは少女に問いかける。気まずい沈黙に耐え続けることはできなかったようだ。
「ところで……名前、聞いてなかったよな。なんて言うんだ?」
少女はジェノの向かい側の座席に座り、ぽつりと呟くように答える。
「レイン」
「俺はジェノ。なんか、こんな事言うのは何か違う気がするけど、よろしく」
「ジェノ……うん、よろしく」
ジェノが苦笑気味に微笑みかけ、レインも釣られて微笑んだ。
「……レインは、あんな場所で何をしていたんだ?」
レインは答えようとしない。少し気難しい顔をして、俯き気味に黙っている。まだレインは自分について話せる状態ではないらしい。
「話したくないのなら、話さなくても良いんだ。……でも、これだけ答えてくれないかな。今、帰る意思はあるか?」
俯き気味なまま、レインは首を横に振った。言葉を発する気配はない。同時にジェノの事を深く警戒している様子でもない。ジェノはそれに関してどう捉えるべきか、少し考えていた。レインが今ジェノに抱いている評価は、不信感に振り切れているという事ではないのだろう。しかしそう簡単に話せるような関係性でもないという事なのだろうか。思案を続けていたジェノは困った表情をした。
「……ごめんなさい」
突然、レインが謝罪した。その理由が理解できなかったジェノは食事の手を止め、目を見開いた状態でレインを見つめていた。
「え? 謝る事じゃないだろう?」
「……ごめんなさい」
「えっと、まあ。そう、深くは気にしないで」
レインは暗い表情をしていた。食欲も全くないのか、食器に手を触れる事もしなかった。何度か様子を伺うように、ジェノを一瞬だけ上目遣いで見るだけだ。
レイン自身にも、ジェノに対する恐怖心がまだ残っている。しかしレインを危険に晒すような事はしていない。信用しても良いのか、それとも裏では騙そうとしているのか、レイン自身では考えをまとめられなかった。だが、帰る意思はないと伝えてしまった。仮にこの先行動を共にするならば、遅かれ早かれ言わなければならない事になる。
「それなら、これからどうしたいんだ?」
「……わからない。ごめんなさい」
「わからないって……?」
「考えてるけど、わからない……。何も思い浮かばない」
「そうか。それなら、ちょっと落ち着くまで待ってるから。もし考えがまとまったら言ってくれるか?」
「……ごめんなさい」
またレインが謝罪の言葉を放った。ジェノは俯いて、小さく頭を掻いた。
「大丈夫だ。俺らは他人だろう? そんな謝らなくたって、何も悪い事は思わない。だから怯えなくても良い」
その言葉を聞いたレインがジェノを不思議そうに見た。その眼差しからはまだ怯えが抜け切ってはいないようだった。ほんの少しの勇気を振り絞って、レインは重たい口をジェノに向けて開いた。
「……怖くないの?」
「え?」
「私の事を知らない。他人だとも言った。知らないのに、怖くないの?」
「……どうだろう? 自分でも基準がよくわかっていないけれど、少なくともレインみたいな女の子が危険なはずがないって思ってる。……とは言っても、ただの思い込みだけど。違ったか? 本当はとんでもない悪名を背負ってるとか?」
「……それは」
レインがまた再び俯き、黙り込む。ジェノを見る目が、恐る恐るで人の機嫌を
「違う……」
妙に怯えているような様子を見せ、言葉を若干詰まらせた事をジェノは不思議に思ったが、その思案は1つの仮説に落ち着いた。食事の手を止め、ジェノはその仮説が正しいのかを知るために確認をした。
「俺は知らないのは別に怖くないって思っていたけど……レインは俺が怖いのか?」
「……ごめんなさい」
「そうだったのか。……俺はそう思い込んでいて、それを無意識の内に押し付けていたんだな。ごめんな」
軽く驚いたような顔をしてレインが顔を上げる。何かを言おうとしたのか、驚いているのか、口を半開きにした状態で動きを止めていた。想定していない言葉に、何を感じているのか自分自身でも把握できない。同時に、それは長らく感じていなかったものであるような気がした。レインの頭の中に複雑な思いが巡っていく。次第に、その呼吸から落ち着きが失われていく。
「大丈夫か?」
「……どうして?」
突然発せられたその言葉にジェノは目を見開き、思わず首を傾げた。
「ジェノは変わってる。どうして私を助けようとするの?」
「さあ。もうその理由は覚えていないな」
「……え」
「俺って、昔からそうなんだけど……そうするって決めて少し時間が経ったら、動機とかそういうのはどうでも良くて全部忘れちゃうんだ。だから、覚えてない」
ジェノは普通の調子でそう言ったが、実際には別の理由があった。それに関してはレインに対して話す気にもなれなかったので、ジェノは覚えていない事にした。
「……ふふ。なおさら、もっと変わってるな」
レインは微笑んだ。ジェノはレインが心から笑う顔を初めて見た。先ほど見せたような見様見真似の笑いではない、本当の笑み。その姿はジェノの中で、何かの記憶を呼び出した。
「アリス……」
ジェノが無意識にその名を読んだ時、レインの表情から微笑みが消え去る。小首を傾げているレインは、重たい感情をジェノから感じたので、それ以上追及しようとはしなかった。
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