6
雪の降り積もる“黒の森"を、ルーカルト・アグルが歩いていた。
膝下あたりまで積もる雪を、慣れた様子でかきわけながら、時折方位磁針で方角を確かめ、森の奥へ進んでいく。
視界が開ける。
眼の先で、暗い洞窟が口を開けていた。
洞窟に、闇が溜まっている。
その闇が、ただの闇ではなく黒竜の身体だと気付き、ルーカルトは思わず二、三度深呼吸をした。
どこかで枝に積もった雪が落ち、ルーカルトはぎょっとして飛び上がった。
遠雷のような音が、洞窟の中から聞こえた。
ゆるりと闇が動く。
漆黒の瞳が、後退りそうになったルーカルトをとらえる。
ただそこに“いる"だけで、これほどの威圧感を与える存在がいるのだと、ルーカルトはあらためて意識した。
黒竜の姿が消える。
竜がいた場所には、黒髪に黒い眼の
灰色のシャツに黒いズボン、という服装は以前と変わらない。
しかし以前とは違い、生気のなかった瞳には強い光が宿っていた。そのためか、前ほどその顔は人形じみていない。
ぱちんと指を鳴らし、レニが厚手のマントを羽織る。
「久し……くは、ないか」
レニがぼそりと呟く。
そのぶっきらぼうな語調は以前と変わらず、それにいくらかルーカルトは気を取り直した。
「顔を合わせるのは三週間ぶりですね。先々週、たしかあの騒動の前日に通話の水晶で連絡を取っていましたから、話をするのは二週間ぶりになりますが」
「そうだったか」
レニがくしゃりと黒髪をかきまわす。
「それで、何か用か?」
「ええ、実はあなたに、屋敷にお出でいただきたく。本来はこちらから出向くべきなのはわかっているのですが、あの騒動の後で、兄が倒れてしまったので」
「倒れた? 当主が?」
「はい、元々仕事を詰めすぎていたのと、“黄金の毒"の影響で。飲んではいなかったそうですが、兄とは相性が悪かったようです。命に別状はありませんでしたが、起き上がれるようになったのはついこの間、人とあってもいいと医師から許可が降りたのが一昨日です。兄自身はここに来たがっていたんですが、さすがにまだ無理ですので、あなたを屋敷に呼んでほしいと頼まれたんです」
「なるほど。そういうことなら行くとしようか」
屋敷への道すがら、ルーカルトから騒動の後日談を聞く。
メイソン・ドレーデンの所業は公となり、ミルテとの婚約も当然破棄。ドレーデン伯爵は家督を長男に譲って隠居し、あの夜から精神に変調をきたしたメイソンは、ドレーデン領の僻地に立つ修道院へ幽閉されたという。
「ミルテは?」
「心配していたほど落ちこんではいないようです。婚約がなくなったのも、実はほっとしている、とこっそり話してくれました」
そうか、とうなずいたレニが、口元に淡い微笑をのぼらせた。
屋敷に着くと、衛士たちの何人かが気まずそうにレニに目を向けた。
何かあったかと記憶を辿り、彼らが三年前、レニが地下牢に入れられたときに、尋問と見張りをしていた衛士だと思い出した。
思い出したものの、今更レニが何を思うわけでもなく、そのまま横を通り抜ける。
ルーカルトの案内で、イーストンの書斎に入る。
肘かけ椅子に深く腰かけていたイーストンは、二人が入ってきたのに気付いてぎこちない動作で立ち上がった。
イーストンの顔色はまだ悪く、ひとめで病み上がりと知れる。
すっかり恥じ入った様子で、面目ないと謝るイーストンを、レニは肩をすくめて制した。
「別に謝ることはないだろう。そもそもミルテを危険にさらしたのは私だ。謝罪されるいわれはない」
「いや……以前にひどく無礼なことを……」
小首をかしげたレニへ、三年前の件ですよ、とルーカルトがささやく。
「……ああ、あのことならもういいよ。僕の読み違いもあったしね」
同じレニの声だったが、先のぶっきらぼうな語調とはまるで違う、穏やかな、落ち着いた調子の声がイーストンに答えた。
「叔父上?」
ルーカルトの問いに、レニの口を借りたサマドがうなずく。
「座ってもいいかな」
かくかくとイーストンが首を縦にふり、サマドにソファを勧めた。
サマドが勧められたソファに腰かけ、ルーカルトも近くの椅子に座る。
「叔父上、『読み違い』と言うと?」
すぐに言葉が出てこないらしいイーストンのかわりに、ルーカルトが問いを重ねる。
「うん、僕が考えていたよりも、竜の力を使った忘却の呪いの効力が強かった――強すぎたんだ。僕に関わる記憶だけでなく、彼女の全ての記憶を奪ったうえ、“イレニディア"の名を認識することもできなくなるとは思わなかった。だからといって、こちらから話すこともできなかった。仮に話をして、イレニディアの記憶が戻ったら、何が起きるかわからなくて、それが怖かった」
「しかし、同化の魔術を使っていたのではなかったのですか?」
「使ってはいたけど、うまく働くかわからなくてね。何せ古い文献に残っていただけの魔術だったし、使われた記録もろくになかったから……。それにあのときは、黒竜の契約者だからと、王宮から目をつけられていて、自由に動き回ることも難しかったから、充分に調べることができなかったというのはあるけれど」
「『コドワ高地の戦い』の後から、ずっと森におられたのですか?」
ようやくイーストンが口を開いた。
「そうだよ。そもそもイレニディアの棲家だからね、あの森は」
「それにしても、黒竜が四十年もずっと森にいたことを、誰も気付かなかったとは……」
「――元々、サマドのような物好きでもなければ、竜が棲む森にわざわざ入る者はいないだろう。そのうえ、戦のときに狂って人を食い殺した竜など……頼まれても近付こうとは思うまい」
再び話し手がレニに戻り、淡々と言葉を続ける。
「護衛として、家へ来られたのはなぜです」
「ルーの紹介で」
イーストンがそれを聞いてちらりと弟に視線を投げかけ、ルーカルトが悪戯の現場を押さえられた子供のような顔になった。
「ミルテに専属の護衛は必要だったでしょう?」
「……それだけか?」
じろりと鋭く睨まれ、ルーカルトが首をすくめる。
「前にも一度言ったでしょう。メイソン・ドレーデンは信用できない、婚約には賛成できない、と。僕の言葉だけでは足りないかと思ったので、彼女から見たメイソンの人物像を聞こうかと」
にこにこと笑いながらのルーカルトの答えに、イーストンが小さくため息をつく。
暖炉の中で、薪が音を立てて崩れる。
「ルー、後で詳しく話を聞かせてもらうぞ」
厳しい兄の声に、ルーカルトが肩をすぼめる。
部屋に沈黙が落ちかけたとき、執事が医師の来訪を告げに来た。
「そろそろ帰ったほうがよさそうだな」
そう言ってレニが立ち上がったのをイーストンが引き止める。
「何か?」
「あなたにお返しするものがあります」
イーストンに眼で知らされ、ルーカルトが棚から細長い包みを持ってくる。
中から出てきたのは黒革の剣帯と、鞘に蔓の装飾がほどこされた、柄頭に隼の紋章が彫りこまれた長剣だった。
剣を見たレニが、珍しく目を見開く。
「以前、父からこの剣は叔父上のものだと聞きまして……それならあなたに返すべきだと思いましたので……今更かもしれませんが、どうかお受け取りください」
レニがしっかりと胸に剣を抱く。
その顔には、安堵の色が見て取れた。
「それと……娘があなたに会いたがっている。よければ、顔を見せてやってくれないか」
「ああ、わかった」
剣を腰に帯び、その懐かしい重さにレニが笑みを浮かべる。
医師と入れ違いに書斎を出、ミルテの部屋に向かう。
「レニ様が!?」
侍女からレニの来訪を告げられ、顔を輝かせたミルテがすぐにレニを部屋に招じ入れた。
「大変でしたね。変わりはありませんか?」
「はい、私は大丈夫です。レニ様こそ、お身体は大丈夫ですか?」
「ええ、今は何ともありません。ご心配なく」
にこりとしたレニに、ミルテは胸をなでおろしたらしい。
「それにしても、レニ様もお人が悪いですわ。“黒の森"で助けたのは自分だと、言ってくださればよかったのに」
侍女が用意した紅茶を飲みながら、ミルテが口を尖らせる。
「言えば感謝されるでしょう?」
メイソンの様子を探るために護衛に徹していた、という言葉を紅茶とともに飲み下し、レニは別の答えを返した。
ミルテがきょとんと青緑の眼をしばたたく。
「当然ですわ。だって助けていただいたのですもの」
「生憎――感謝されるのは苦手でして。それにあのときはあくまで護衛でしたから。あまり注目されたくはなかったんですよ」
もうひと口、綺麗な所作でレニが紅茶を含む。
感謝されるのが苦手、というのもレニにとっては事実だった。
黒竜として畏怖の対象にはなっていたが、何かをしても感謝されることはなかった。それゆえレニにとって、感謝とは自分から遠いものだった。
もしミルテに自分が助けたことを打ち明け、感謝されていたなら、きっとどうすればいいかわからなくなっていただろう。
それからしばらくのんびりと時間を過ごし、またいらしてくださいね、とミルテに送られて、レニは伯爵邸を出た。
雪を踏みながら、レニは森の中を洞窟へと歩いていった。
Dragon and Human 文月 郁 @Iku_Humi
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