5
その日、アヴラン村の小屋で過ごしていたレンを、ルーカルトがストラード館へ呼び出した。
「どうです、何か困ったことはありませんか?」
ルーカルトのいつもの問いに、レンもいつもどおり、大丈夫、と短く答える。
「実は今日は、あなたに頼みたいことがありまして。姪の――ミルテの護衛に、アグル伯爵家に行ってもらえませんか?」
「伯爵家に? 私が?」
「はい、兄にはこの間打診をしておきました。式も近いことだし、一人くらいは姪専属の護衛がいたほうがいい。ちょうど、うってつけの人間を知っている、と」
「……三年前のことを忘れたか?」
呆れ顔でそう返したレンへ、まさか、とルーカルトが首をふる。
「もちろん覚えていますよ。でもその姿なら、まず気付かれることはないでしょう」
「目的はそれだけか?」
「鋭いですね」
ルーカルトが苦笑して肩をすくめる。
「姪の婚約者はメイソン・ドレーデンといって、ドレーデン伯爵家の次男なのですが、僕としてはどうも信用ならないんですよ、彼は。それに、少しよくない噂もありまして。どうやら素性の悪い輩との付き合いがあったり、伯爵家の次男坊だと隠してよく闇市に顔を出すんだそうです。ただ、はっきりとした証拠もない話なので、これを根拠に婚約を止めさせるわけにもいかず……そこでミルテの護衛がてら、顔を合わせたときにでも探りを入れてみてもらえませんか。僕も調べてみますが、僕一人だと姪可愛さに横槍を入れていると捉えられかねないですし、こういうことは複数の人間から証言されたほうが、信憑性が増しますから」
「つまり、間者になれ、と?」
「そこまで大層なものではありませんし、最優先は護衛ですけれどね。まあ、でも似たようなものですか。お願いできますか?」
「……護衛はともかく、情報収集にはあまり期待するな」
そう言って引き受けたレンに、よろしくお願いします、とルーカルトが頭を下げた。
――レン。
遠くから声が聞こえる。
――レン!
懐かしい男の声。
――起きろ、レニ!
耳元で怒鳴られたような錯覚に、レンはぱっと眼を開いた。
遠い夜空に、白い月が見える。
(夢……?)
少しずつ、意識がはっきりしてくる。
(撃たれて……落ちた、のか)
レンは雪の上に倒れていた。そのせいで全身が冷え切っている。
身体のあちこちが痛みを訴える。
左肩と腹、右の太腿がべっとりと血に染んでいた。
雪で冷やされているためか、出血はそれほどひどくはないが、止まってはいない。
雪の上に横たわるレンは、その姿をがらりと変えていた。
鳶色の髪に青い眼の
身体を起こすと、肩と腹に激痛が走った。
流れ出た血がぬるりと身体を伝う。
小さく呻き、両腕で身体を抱いてゆっくりと息をする。
一瞬、淡い光がレニの身体を包んだ。
――レニ、大丈夫かい?
(傷は塞いだが……血を流しすぎた。まともに動ける状態じゃない。もし動けたとしても……登れるような崖じゃない)
きり、と歯を鳴らす。
ミルテは無事だろうか。メイソンのあの様子からして、とても無事とは思えない。
メイソンのような男がミルテをどう扱うか、嫌でも察しがつく。
(このままだと……)
――そうだね。まずいことになるだろう。毒まで使うような奴だ。ミルテを手に入れた今、ためらいはしないだろう。どうにかして助けないと……。
(どうやって!)
――……君の呪いを解くよ、レニ。本来の君なら、きっとミルテを助けられる。
レニが問い返すより先に、頭の中に声が響く。
歌にも似た詠唱。
高く、低く、一度平坦な調子になり、再び高い調子になる。
レニの頭にずっとかかっていた靄が少しずつ晴れていく。
ひとつ、またひとつ、記憶が甦る。
いつしか、レニは眼を閉じていた。
ぐるぐると、頭の中で過去が巡る。
詠唱が終わると同時に、記憶の奔流はぴたりとおさまった。
ゆっくりと開かれた黒い瞳には、これまでにはなかった強い光が宿っている。
過去に何があったのか、そして自分が何者か。今では何もかも、確かなものとなっていた。
(サマド)
――僕はここにいるよ、レニ――イレニディア。
(それでいい、我が契約者)
ふ、と唇に笑みをのぼらせる。
傷の痛みと目眩をこらえて立ち、両手を組んで、ぐ、と上に伸ばす。
ぐう、とレニの背が伸びた。
体躯が二倍、三倍と膨れあがる。
短い黒髪の間から角が生え、歯が鋭く尖って牙となる。
尻から尾がするすると伸び、全身が滑らかな黒い鱗に覆われていく。
そして、その背を突き破るように一対の翼が生え、ここに現れた漆黒の竜は、夜空を仰いで咆哮を上げた。
それに答えるように、ざわざわと木々が鳴る。
翼を広げた竜が、夜空に飛び立つ。
月光が黒鱗の上を滑る。
森の向こうに、屋敷が見えた。
森からミルテを連れて戻ってきたメイソンをまず迎えたのは、衛士長のクラレンスだった。
「メイソン殿、少しお訊ねしたいことが――」
「下がれ」
横柄に言い放ったメイソンの周りを彼の衛士が取り囲み、クラレンスを威圧する。
思わずたじろいだクラレンスの横を、メイソンが堂々と通り抜ける。
まだ放心しているミルテを、メイソンは寝室に連れこんだ。
緑の瞳が欲望でぎらつき、口から荒い呼吸音が聞こえる。
ミルテはメイソンに対しても何の反応も見せなかった。
青緑の瞳は虚ろで、眼前にいるメイソンすら眼に入っていないらしい。
一度ごくりと唾を呑み、メイソンがもどかしそうに上着を脱ぎ捨てる。
メイソンの手が、ミルテのドレスの肩紐に伸びる。
それでも、ミルテは一切抵抗しなかった。
するりと肩紐が解ける。
そのとき、鼓膜が破れるかと思われるほどの轟音とともに、寝室の窓が砕け散った。
「な、何だ!? 竜!? おい、誰か――」
叫んだメイソンが、呼子を吹き鳴らす。
まもなく、寝室の扉が激しく叩かれた。
メイソンが慌てて扉を開け、衛士たちがなだれこんでくる。
衛士たちと、異変に気付いて走ってきたクラレンスが、外の黒竜を認めて一様に言葉を失った。
「こ、殺せ! その竜を殺せ!」
「誰を殺すと?」
軽い着地音とともに、苦笑を含んだ女の声がした。
窓の外にいた竜は消え、窓辺には黒髪に黒い瞳、灰色のシャツに黒いズボンをはいた女が立っていた。
小さな音を立てて、女の足音で硝子が踏み砕かれる。
「あ――」
まだぼんやりしていたミルテが、女を認めて弱々しい驚きの声を上げた。
「お前、三年前の――」
クラレンスも声を漏らす。
女――レニはふと苦笑し、詠唱も動作もなくその姿を変えた。
鳶色の髪に青い瞳、生成りのシャツに灰色の上着、黒いズボン、腰の双剣。
「レン!」
「遅くなりました、お嬢様」
ミルテに向けて、レンが優しい微笑を見せる。
「ご無事ですか?」
うなずき、レンに駆け寄ろうとしたミルテの腕を、メイソンががっしりと掴む。
すっと目を細めたレンが、ひょいと指を動かした。
メイソンの身体がふわりと浮き上がり、天井にはりつく。
メイソンから逃れたミルテがレンに走り寄る。
「レン! よかった、無事で……!」
「ええ、私も間に合ってよかったです」
そっとミルテの肩を抱き、レンは再びその姿をレニに戻した。
そこへ、
「どう、いう、騒ぎ、だ――」
青をとおりこして土気色の顔をしたイーストンが現れ、部屋の中をひと目見て絶句する。
「待て、君、は――」
レニがちらりとイーストンを見やる。
「その様子だと、“黄金の毒"の影響はそれほどでもなかったか。とはいえ毒が抜けるまでは休んでいたほうがいい。説明なら後でもできる。そこの奸悪な男を片付けた後で、な」
メイソンがどさりと床に落ちる。
うめいたメイソンがよろよろと起き上がり、拳銃を取り上げる。
銃口をレニに向けたメイソンが、撃鉄を起こす。
レニは冷笑を浮かべ、身体ごとメイソンに向き直った。
「撃てるものなら撃ってみるがいい。先のようにはいかないだろうがな」
銃声。
ミルテが悲鳴を上げ――途中でそれが途切れる。
レニの鼻先で、弾丸が静止していた。
ころころと弾丸がレニの足元に転がる。
弾丸を踏み、つかつかとレニがメイソンに近付く。
レニの前にメイソンの衛士が立ち塞がる。
レニが軽く手をふり、衛士たちが紙のように左右へ吹き飛んだ。
「く、来るな、来るな――」
わめくメイソンを見下ろすレニの顔に、表情はない。
かがんだレニがメイソンの首を右手で掴む。
メイソンの首に、レニの細い指が食いこんでいた。
メイソンの身体が、レニの片腕一本で持ち上がる。
レニの手を引き剥がそうと、メイソンがその腕に爪を立て、めちゃくちゃに引っ掻く。
幾筋も血が流れるが、レニの手は小揺るぎもしない。
どうにか息を吸おうと、メイソンが必死にあえぐ。
衛士たちが騒いでいるが、今のレニはメイソンを人質にとっているも同然だ。
「た、たす、け……」
メイソンの眼に涙が浮かぶ。
周囲の温度がすとんと下がる。
レニが冷ややかに、侮蔑さえこめてメイソンを一瞥する。
黒い瞳の奥には、憎悪の炎がちらちらと揺れていた。
「メ、メイソン様を離せ、女!」
メイソンの衛士の一人が声を震わせながらも叫び、剣を抜いてレニに突きつける。
「私に指図をするな、人間!」
レニが吼え、同時にその衛士が嫌というほど壁に叩きつけられる。
「ひとはいつも私を気にかけない。なら――私が、ひとを気にかける必要も、ないな?」
あえて区切りながら、ゆっくりと、淡々と言葉を吐き出す。
ひゅうっとメイソンが喉を鳴らす。
レニがさらに手の力を強めた。
メイソンがいよいよ顔を赤くし、レ二の腕を両手で掴んで深く爪を立てる。
レニは顔をしかめたものの、メイソンの首を掴む力はゆるめなかった。
このまま誰も止めなければ、メイソンはじきに死ぬだろう。
「ミルテ様、いけません!」
クラレンスの制止も聞かず、ミルテはレニに駆け寄っていた。
「や、やめて、ください」
弱々しくなりそうな声をふりしぼり、レニの右腕に手をかける。
衛士のように吹き飛ばされるのでは、という思いが頭をよぎったが、覚悟していた怒声も衝撃もなかった。
レニがじっとミルテを見ていた。
「お願いします。メイソン様を殺さないでください。確かにメイソン様はひどいことをされたと思います。お父様にしたことも、あなたにしたことも、私にしようとしたことも……。でも私は、メイソン様の死を願っているわけではないのです」
沈黙。
ミルテを見つめるレニの眼から、憎悪の炎は薄れていた。
レニがメイソンの首から手を離す。
再び床に転がったメイソンが、身体を折って激しく咳きこむ。
「失せろ。次にその顔を見せたなら、そのときは命はないと思え」
ひいい、と壊れた笛のような悲鳴を上げ、メイソンが幼児のように泣きわめく。
自分の衛士たちに両脇から抱えられ、メイソンがふらふらと出ていく。
「ありがとう、ございます」
「いえ」
「君、いや、あなた、は――」
ふらつき、クラレンスに支えられたイーストンが掠れ声を出す。
「おそらくは思っているとおりだが、伯爵。今は話せる状態ではないだろう。毒が抜けるまで休んでいろ。私は逃げも隠れもしない」
そう言い置いて、レニが割れた窓から身を躍らせる。
あ、とミルテが声を上げると同時に、漆黒の竜が翼を広げ、夜空へ飛び去っていった。
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