石造りの暖炉で、火が赤々と燃えている。

 暖炉の前でソファに深々と座り、ミルテは図書室から持ってきた本の頁を繰っていた。

 外では冷たい風が鋭い金切り声を上げて吹き荒び、それに弄ばれた雪華がはたはたと窓にぶつかる。

 レンは黙って窓辺に立ち、空模様を眺めていた。

 レンがミルテの護衛をつとめるようになってひと月。アグル伯爵領には本格的な冬が訪れていた。

 毎日のように悪天候が続き、寒さも厳しい。今年は特に冬に入るのが早く、例年よりもきつい冬になるのではないかとささやかれていた。

 読み終えた本をぱたりと閉じる。

「レン」

 呼びかけると、彼女はすぐに窓辺を離れた。

 このひと月で、ミルテはすっかりレンに馴染んでいた。

 レンのほうでも屋敷での生活に慣れたらしく、口数が少ないなりに他の衛士たちとも交流している。

 ミルテと話をするときも、以前ほど簡潔な、ぶっきらぼうな口調ではなくなり、口数もいくぶん増えていた。

 表情もはじめのころより柔らかくなり、笑みを浮かべることも多くなっていた。

 そういうときのレンからは、はじめて会ったときの人形のような印象は薄れていた。

 二人で図書室まで歩く途中、廊下でイーストンが難しい顔で窓の外を睨んでいるのに出会った。

 窓の外を見ているイーストンは、眉間に深いしわを刻んでいる。

「この天候が続けば――」

 窓枠に置いた手に、力がこもる。

「お父様、何かございましたの?」

 ミルテの声に、イーストンがはっとしてふり返った。

「ああ、空模様を見ていた。どうも今年は厳しい冬になりそうだし、この天候が続くようなら、またエルトに大きな被害が出かねない」

 エルト地域。

 アグル伯爵領の北端にあり、領内でも飛び抜けて雪が多い。

 数年前は大雪のために一部の村が孤立し、危うく餓死者が出るとことだったという。

「明日か……明後日には止むでしょう」

 レンがあっさりと返した言葉に、イーストンが眉を上げる。

「根拠は?」

「雪の降り具合と雲の様子で。野外で過ごすことも多かったので、ある程度天候は読めます」

 やや鋭い語調で訊ねたイーストンに、レンが淡々と答える。

「それが当たっていることを願うよ」

 どことなく皮肉めいたイーストンの言葉には答えず、レンは別のことを口に出した。

「……気にかけているのですね、領民を」

 何か含むところがあるようなレンの言い方に、イーストンがいよいよ眉を吊り上げた。

「領主として当然のことだ」

「そうですね」

 うなずいて同意したレンは、どことなく冷ややかにも優しげにも見えた。

 イーストンが執事に呼ばれ、足早に立ち去ってからも、レンは窓の外に眼をやっていた。

 しかしレンの碧眼は、雪ではなくどこか別の場所に注がれているようだった。

「レン?」

「はい」

 窓から眼を離し、ミルテに顔を向けたレンが小首をかしげ、ややあって、ああ、とうなずいた。

「失礼しました。参りましょうか」

「何か、気になることでもありましたか?」

「いえ、今のところは別に」

 レンが肩をすくめ、ミルテに続いて歩き出した。


 図書室に人の姿はなかった。

 奥の書棚に本を返す。

 この書棚は、隠し部屋の扉でもある。

 腰に巻いた小物入れにそっと手を差し入れ、小さな銀の鍵をつまむ。

 隠し部屋のことを、ミルテは誰にも離していなかった。

 胸にしまっておいたほうがいい、と判断したためである。

 それでも、どうしても話したいという衝動がこみ上げてくることがあった。ちょうど、今のように。

「レン」

 はい、と答え、並ぶ背表紙を眺めていたレンがミルテに向き直る。

「この家に隠し部屋がある、と言ったら、信じますか?」

 ミルテがそう言った瞬間、周囲の温度が一気に下がった。

 すっとレンが眼を細める。

「レン……?」

「そういう話は、私のような者に話すことではないですよ、お嬢様」

 レンの口調はいつになく冷淡で、相手を突き放すような響きがあった。

 瞳に灯る光も氷のようで、ミルテは無意識に後退った。

 とん、と踵が壁にぶつかる。

 レンはその場に微動だにせず佇んでいる。

「レン……?」

 二人の目が合う。

 レンの瞳から険が取れ、ふっと冷気が消えた。

「失礼しました」

 姿勢を正し、レンが頭を下げた。

 それから部屋へ戻る途中、ミルテの思いつきで、二人は少し遠回りをしようと二階のロング・ギャラリーを通りかかった。

 ここは元々、冬場や長雨の時期に天気を気にせず歩くことができるようにと設けられた部屋だが、今は美術品を飾るギャラリーになっている。

「やあ、ミルテ。散歩かな?」

 ギャラリーにいた青年、メイソン・ドレーデンが明るい声とともに、ミルテに笑みを向ける。

 緑の眼が、じっとミルテに注がれる。

 自制してはいるようだったが、それでもメイソンの眼の光は鋭かった。

 この冬が過ぎ、春が来たら、ミルテはメイソンと式を挙げることになっている。

 その打ち合わせや新生活の準備のために、メイソンは一昨日から五人の衛士とともにアグル伯爵家に滞在していた。

 メイソンは週末まで屋敷に逗留することになっており、ミルテは心中密かにその日を待ちわびていた。

 人前ではこれまで同様、立派な青年貴族として振る舞っていたメイソンだが、周りの眼がないところではミルテに対して今まで以上に馴れ馴れしく接し、時には冗談のように思わせつつ、瞳をぎらつかせることもあった。

 それでもメイソンがそこで踏みとどまっているのは、ミルテのそばに常にレンがいるからだった。

 一見一人きりに見えても、レンはいつもミルテのそばに控えていた。

「いえ、もう部屋に戻るつもりです」

「しかし、さっき来たばかりだろう? もう少し一緒に過ごしてもいいんじゃないか?」

「お嬢様はお疲れですから、ご歓談なら後日あらためて」

 二人の間にさりげなく割りこんだレンへ、メイソンが険しい、敵意を含んだ眼を向けた。

 しかしレンはどこ吹く風といった様子で、メイソンなど歯牙にもかけていない。

「なら部屋まで送っていこう。護衛殿もそれなら問題はないだろう?」

 あてつけ混じりのメイソンの言葉をレンは聞き流したようで、何の反応も見せなかった。

 部屋までの道々、度々ミルテに絡もうとするメイソンを、レンはやんわりと遠ざけていた。

 ミルテは嫌悪感が面に出ないよう、懸命に表情を作ってメイソンに応え、メイソンはミルテに笑顔で話しかけつつ、レンに親の仇かのような視線を向けていた。

 部屋に戻り、メイソンの足音が聞こえなくなったのを確かめて、ミルテは大きく息を吐いた。

「それほどお嫌なら、今からでも婚約を断られてはいかがです」

 扉の近くに立ったレンがそう声をかける。

 ソファに座り、ミルテは小さくかぶりをふった。

「できないわ、そんなこと。もう決まったことですもの。今になって白紙にしたら互いの評判に疵をつけることになるし、家にとっても利になることですもの。私の感情だけで取りやめるわけにはいきまれんし、止めることはできません」

「そうでしたか。失礼しました」

「いえ、気にかけてくれているのですよね。ありがとうございます」

「……私としては、あなたが無事でいることも大切ですが、幸せであってほしいのです」

 レンが淡々と、しかし穏やかな語調で言葉を続ける。

 すぐに言葉が出なかったミルテを見、レンは少し頭を冷やしてきます、と部屋を出ていった。


 その夜、メイソン・ドレーデンは酒瓶とグラスを手に、イーストンのいる書斎を訪れた。

 書類仕事を片付けていたイーストンは、その手を止めてメイソンを迎えた。

「何か用かな?」

「はい、少しお話がありまして。お忙しいようでしたら出直します」

「そうだな……後一時間もすれば手が空くだろうから、それくらいにまた来てもらえるか?」

「わかりました。それでは後ほどうかがいます」

 それから一時間後、酒瓶を携えたメイソンと、浴室で湯を浴びてきたミルテがばったり顔を合わせた。

 付き添っていたレンが、ミルテを庇える位置へ動く。

 メイソンはにこにことミルテに声をかけ、どうした風の吹き回しか、レンにも愛想がよかった。

 別れ際、

「酒、ですか?」

 メイソンの持っていた瓶を注視していたレンが、不意に口を開いた。

「え――ええ、ドレーデン領で最近つくられるようになった酒で、ぜひご当主に差し上げたいと思ったのでね」

 会話はそれ以上続くことなく、そこで二人はメイソンと別れたのだが、レンはそれから難しい表情を崩さなかった。

「何か、心配事がありますか?」

 ミルテの部屋に戻ってからも何事か考えているレンに、ミルテが気遣わしげに声をかける。

「ええ、どうも胸騒ぎが。思い過ごしであればいいのですが、あの酒とメイソン様の態度が気にかかります」

「なら、お父様に会いに行きましょう」

 じっとレンの表情を見ていたミルテが、そうきっぱりと言って立ち上がった。


 あらためて書斎を訪れたメイソン・ドレーデンを、イーストンは快く出迎えた。

 勧められた革張りのソファに腰かけ、メイソンは、

「ドレーデン領でつくられるようになった酒です。どうぞ」

 薄いグラスに、綺麗な黄金色の酒を注ぐ。

 とろりとした酒が、グラスの底に重く溜まる。

「さあ」

 グラスの中で、酒が揺れる。

 つんと鼻に抜ける、けれどもどこか甘ったるい香りに、じん、と頭が痺れた。

「さあ、一杯どうぞ」

 メイソンの声が遠くから聞こえる。

 イーストンは勧められるまま、グラスをかたむけた。

 唇に、舌に、酒が触れる。

 ちりちりとした刺激が、舌を刺した。

 瞬間、書斎の扉が勢いよく開き、イーストンの手からグラスが消えた。

「な、何だ!?」

「話し中に失礼。イーストン・アグル! 私の声が聞こえるか!」

 グラスを片手に持ったレンが、ミルテとともに飛びこんできた。

 イーストンがぼんやりとレンを見返す。

「ま、まったく、無礼だな、君は。今この場で解任されたいのか?」

 メイソンに上ずった声でとがめられ、レンは鼻で笑った。

「さて、無礼はどちらかな。他人に“黄金の毒"など飲ませようとする人間が、礼儀正しいとはとても思えないがな」

 それまで余裕綽々といった態度だったメイソンが、レンの指摘にぴくりと頬を引きつらせた。

「そんな言いがかりを――」

「なら、その酒を今ここで飲んでみろ」

 メイソンが言葉に詰まる。

「だ、大体、“黄金の毒"など僕は知らない。なんだ、それは」

「“黄金の毒"――カランの種から精製される麻薬を混ぜた酒だ。人によってはその匂いだけでも正気が保てなくなり、飲めばたちまち虜となる。この匂いからして、相当な量を混ぜたな。カランは昔からドレーデン伯爵領で作られる香水の原料として栽培されている。そして麻薬も、領内の闇市で密かに流通している。それを知らないことはないだろう? よく闇市に顔を出しているらしいじゃないか。手に入れるのは、それほど骨が折れることではなかっただろうな?」

 整った顔を歪め、メイソンが懐から出した銀の呼子を吹き鳴らした。

 呼子を聞いて駆けつけたメイソンの衛士たちが二人を取り囲む。続いてアグル家の衛士も駆けてきた。

 メイソンの衛士たちは事情を承知しているらしく、二人の退路を絶っている。

「どうして、そんなことを……?」

 今にも消え入りそうな、ミルテの声。

 メイソンの唇が弧を描く。

「決まっているじゃないか。僕はあなたが欲しいんだ、ミルテ嬢。なんなら今、すぐにでも。春まで待つなんて……冗談じゃない」

 獣の眼が、ミルテを見つめる。

 思わずレンにすがったミルテを、レンは物も言わずに抱き上げた。

 くるりと後ろを向いたレンが、右手を軽くうちふる。

 背後にいたメイソンの衛士二人が勢いよく吹き飛び、壁に叩きつけられる。

 あっけにとられて凍りついた衛士たちには眼もくれず、レンは書斎を飛び出した。

 唖然としていたのはミルテも同じだった。

 似たような光景を、前にも見たことがあった。

 廊下を大股で駆けながら、レンが一度指を鳴らす。

 窓硝子の一枚が、派手な音を立てて枠ごと砕け散った。

 後ろから、メイソンや衛士の怒声が聞こえてくる。

「あ、あなた――」

「しっかり捕まって」

 言うや、レンが強く床を蹴った。

 窓枠の残骸に飛び乗ったレンは、ミルテを抱いたまま、空中に身を躍らせた。

 くるりと宙で回転し、足が地面につくや、レンは一散に走り出した。

 鳶色の髪をなびかせ、夜の中を疾駆する。

 屋敷の裏手から、“黒の森"へ続く小道をひた走る。

 追手が追いつくより先に、レンは森へ駆けこんだ。

 月光も充分に届かない森の中を走っているというのに、レンはつまずきさえしない。

 しかし――。

 どれほど走っただろうか、レンは舌打ちをして足を止めた。

 少し先には、暗い闇を溜めた崖がある。落ちればまず助からないだろう。

 背後から金属音が近付いてくる。

 今戻れば、ほぼ確実にはちあわせる。

 木立の隙間から、メイソンと衛士たちの姿が見えた。

 やがて追いついたメイソンが懐から出した拳銃をレンに向け、撃鉄を起こす。

「ミルテ嬢、あまり僕の手をわずらわせないでもらいたい。その護衛を殺されたくなければ、こちらに来てください」

 優しい声。

「……レン、下ろしてください」

 渋い顔で、レンがミルテを雪の上に下ろす。

 下唇を噛んで、ミルテがメイソンに歩み寄る。

 メイソンがその腕を掴んで、ぐいと引き寄せる。


 破裂音。


「レン!?」

 レンの身体に、点々と赤い花が咲く。

 ぐらり、とレンの身体がかしいだ。

 よろめき、崖から落ちるその瞬間、レンの青い瞳が漆黒に染まった。

 ごう、と音を立てて風が吹き、ざわざわと枝が鳴る。

「レン!」

 ミルテの悲痛な叫びが、風にさらわれ、闇の底へ吸いこまれていった。

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