3
三年後――。
その日、伯爵令嬢ミルテ・アルマ・アグルは屋敷の図書室で本を読んでいた。
本は近頃流行の恋愛小説で、三日前、屋敷に顔を出した叔父、ルーカルトがひと月遅れの誕生祝、と贈ってくれたものだった。
先週参加したパーティで会った友人から、素晴らしい小説だと聞いていたので、この本をもらったときには、ミルテは喜びのあまりについ大きな声を上げそうになったほどだった。
読み終えた
その後、図書室の奥の本棚に本を収めようとして、ミルテは本棚の側板に小さな鍵穴を見つけた。
(どうしてこんなところに?)
首をかしげたミルテの頭に、さっとひらめくものがあった。
三年前、ミルテが“黒の森"で賊に襲われ、知らない女に助けられてから数日後。
すっかり熱も下がったミルテはその日、今日のように図書室のソファに座って本を読んでいた。
そのとき、部屋の奥から祖父のレジナルドと叔父のルーカルトがやってきた。
祖父の顔はまっさおで、唇の色まで失せていた。祖父を支えている叔父も、いつもの温和な微笑みはその顔になく、ひどく悲しげな表情を見せていた。
貴族のたしなみとして、家族や親戚の前ですら、自分の内心を面に出すことなど中々ない二人がここまではっきりと感情を出しているのを見たのははじめてだった。
「お祖父様……?」
ミルテがおずおずと声をかけると、二人はぎょっとして顔をあげた。どうやら二人は――すぐ眼に入るところにいたにもかかわらず――ミルテに気付かなかったらしい。叔父にいたっては息を呑んで飛び上がりかけたほどである。
「何かございましたか?」
「いや……何でもないよ。ところで身体はもう大丈夫なの、ミルテ?」
叔父はすぐにいつもの微笑を取り戻したが、その顔色はどことなく悪かった。
あのとき二人は、もしかしたらこの本棚の向こうを見たのではないか。
(あ……)
はっと何事か思いついたミルテは、急いで自分の部屋に戻った。
棚に置いていた陶製の小物入れから、小さな銀の鍵を取る。
この鍵は半年前、祖父のレジナルドが世を去る間際に、ミルテに託したものだった。
図書室に取って返して鍵穴に鍵を差しこむと、鍵はすんなりと鍵穴におさまった。
どきりと心臓が跳ねる。
細かく震える指で、鍵を回す。
かちり、と小さな音がした。
(開いた……?)
鼓動が早まる。
思わず周囲を見回し、人影がないことを確かめ、そっと本棚を押す。
音もなく、本棚が奥へ動いた。
息を呑み、ミルテは思わず両手で口を押さえた。
唾を飲みこみ、何度か深呼吸して気を落ち着かせる。
本棚の向こうの薄暗い空間には、小さな机と椅子が据えられている。
棚をさらに押すと、ようやく中の様子が見えた。
机の上には小さくなった蝋燭がまだ残っている燭台と、インクが乾ききったインク瓶、ペン先にインクがこびりついた羽根ペン、そして封の開いた手紙が乗っている。
宛先はなかったが、差出人の場所には『サマド・アグル』と署名があった。
サマド・アグル――祖父レジナルドの双子の弟であり、黒竜の契約者。
アグル家の者なら、その名を知らない者はいない。
そっと手紙を取り上げる。
好奇心と、少しの罪悪感が胸に沸く。
落ち着きかかっていた心臓が、再び激しく打ち出していた。
手紙を取り出そうとする指は、鍵を開けたときよりも震えていた。
手を震わせながら、便箋を開く。
青みがかった黒い文字が並んでいた。
『これを誰かが読んでいるのなら、そのときには僕は死んでいるだろう。もし無事に生きて戻れたら、僕はこれを焼き捨ててしまうつもりだから。
僕と■■■■■■は、コドワ高地の戦いに召集された。今日の夕刻には、彼女とともに屋敷を発つことになっている。
この戦いは、おそらく最も大規模なものになるだろう。これでウォールベルグとカルネア、双方の運命が決まるはずだ。
そして、僕はこの戦いで命を落とすだろう。
召集の通知が届いたときから感じていた予感が、今はとても強くなっている。
怖くないと言えば嘘になる。
正直に言って、とても怖い。
僕はまだ死にたくない。■■■■■■とこれからも過ごしたい。
この願いは、叶うだろうか。
叶ってほしいと思う。たとえ、何と引き換えにすることになっても。
幸い、僕は次男だ、家のことは気にしなくていい。元々アグル家は文官の家系だし、兄が召集されることはないだろう。
気にかかるのは■■■■■■のことだ。僕が死ねば、■■■■■■は錯乱するだろう。僕は彼女を狂える竜にはしたくない。
錯乱を防ぐ方法はある。古代魔術で僕の魂を■■■■■■と同化させることだ。
だが、この方法は成功するかどうかわからない。少なくとも僕が調べたかぎり、同化の魔術が使われたことはないからだ。
それに同化の魔術を使うということは、■■■■■■を永久に僕に縛り付けるということだ。
既に契約で縛っている彼女をさらに縛るのは、はたして正しいことなのか?
しかし悩んだところで、今更、竜との契約は破棄できない。
こんなことになるのなら、僕は■■■■■■と契約するべきではなかった。彼女がこれまで会ってきた人間と同じように、つかのまの友として生きるべきだった。
竜と契約すれば、人は竜の力と寿命を得、竜は人との繋がりを得る。
だからこそ、どちらかの死で契約が絶たれたならば、人は竜の力を御しきれずに死に、竜は奪われた繋がりを求めて狂乱する。
それを知りながら、僕は■■■■■■との契約を望んだ。
竜の力が欲しかったわけじゃない。ただ純粋に、■■■■■■と共にいたかった。
もし、コドワ高地の戦いで僕が死んだら、■■■■■■には忘却の呪いもかけようと思う。そのための準備はもう整えている。
竜の力を使っても、本来物事を忘れることはない竜に、忘却の呪いが効くかどうかはわからない。
けれど、もし同化の魔術が上手くいかなかったとしても、せめて彼女が僕のことを忘れてしまえるように。僕と出会ってからのことを忘れられるように。
それが僕の、契約者としての最後の仕事にならないことを祈る。
サマド・アグル
追伸
兄さん、先に逝ってしまって、ごめん。』
手紙はおおかた整った字で書かれていたが、ところどころ、書き手の激した調子を示すようにひどく乱れ、インクが滲んでいる部分があった。
そして奇妙なことに、手紙の一部分は字が乱れているわけでもないのにどうしても読めないところがあった。
まるで、そこだけ別の言語で書かれているかのように。
二度、三度、文章を読み返す。
サマド・アグルの顔を、ミルテは以前一度だけ肖像画で見たことがあった。
サマドは栗色の髪の、線の細い顔立ちの青年だった。
濃い青い眼には生き生きとした光が宿り、今にも口笛を吹いて歌い出しそうな雰囲気だったことを覚えている。
レジナルドがどちらかと言えば屋内で過ごすことを好んでいたのに対し、サマドはよほどの荒天でなければ外に出かけ、ある程度成長してからは“黒の森"にも一人で入っていたという。
黒竜と出逢ったのも、そうして森を散策していたときだったらしい。
丁寧に手紙を封筒に戻し、元の通りに机に置いて鍵をかける。
「お嬢様、旦那様がお呼びです」
呼びに来たメイドに答え、ミルテはその後に続いて応接間に向かった。
応接間には父のイーストン・アグルとドレーデン伯爵家の次男、メイソン・ドレーデンがいた。
部屋に入ってきたミルテを見、メイソンが礼儀正しく挨拶をして無沙汰を詫びる。
ミルテも笑んで挨拶を返したが、その顔にあらわれた微笑みはどことなく強張っていた。
この春から、ミルテとメイソンの間には縁談が持ち上がっていた。
メイソンがアグル家に婿入りする形で話が進み、来年の春には式を挙げることになっていた。
しかしミルテは、どうもこの縁談には乗り気になれなかった。
はたから見れば、メイソン・ドレーデンは結婚相手として申し分ない。
やや癖のあるくすんだ金髪、優しい光をたたえた緑の瞳、鼻筋はすっきりとして高く、唇は紅を塗ったように朱い。
同年代の青年貴族の中で、メイソンは指折りの美貌の持ち主だった。
他人への態度も常に丁寧で、周囲への気配りも忘れない。
何かあればこうして屋敷まで挨拶に来、時には旅先の珍しい土産物を持ってくることもある。
この年頃の青年貴族としては、非の打ちどころがないと言われていたメイソンだったが、ミルテと二人きりになると、彼はまるで物でも見るかのような眼つきでじろりと彼女を見ることがよくあった。
その、獣のような欲に塗れたメイソンの眼つきがミルテは嫌いだった。
しかし結婚は既に決まったことであり、正当な理由なく、感情だけで婚約破棄などできるわけはない。
ミルテにとっては幸いだったことに、メイソンはこの後用があるらしく、名残惜しそうに帰っていった。
メイソンと入れ違いに、執事が新たな客の来訪を告げに来た。
「誰だ?」
「ルーカルト様の紹介でうかがったと。こちらを読んでいただければわかる、とのことです」
執事から渡された手紙を読み、ああ、とイーストンがうなずく。
「ルーカルトに頼んでいたミルテの護衛だな。通してくれ。ミルテ、お前もここにいなさい」
「はい」
まもなく応接間に入ってきたのは、腰に双剣を留めた小柄な女だった。
長い鳶色の髪を後頭部で束ね、吊り目がちの青い眼、小さな鼻、朱い唇はきつく引き結ばれている。
生成りのシャツの上から灰色の上着を羽織り、黒い細身のズボンをはいている。
一礼し、顔を上げた女の顔に感情はうかがえない。
人形のような端正な顔立ちだが、あまりに整っているので、一瞬本当に人間かと錯覚する。
「レンといいます。ルーカルト様の紹介でうかがいました。お嬢様の護衛の旨もうかがっております」
落ち着いた、淡々とした語調だった。
「それなら話が早い。来春まで娘の護衛をしてもらいたい。結婚を控えているので、余計な面倒が起こらないように」
レンがミルテへ緩やかに視線を移す。
凪いだ水面のような、感情がまったくうかがえない、生気の感じられない眼だった。
正面からその眼を見て、ミルテの記憶に引っかかるものがあった。
「承知しました。よろしくお願いいたします」
朱唇を笑みの形にして、レンは二人に頭を下げた。
「レン様、以前にどこかでお会いしたことはございませんか?」
その後、自室に戻ってから、ミルテは思い切ってレンにそう訊ねた。
ミルテに勧められ、対面に腰かけたレンが小さく唸る。
「レンで結構です。心当たりは……特に」
レンが短く、簡潔に答える。
言ってしまってからレンは肩をすくめ、特にありません、と言い直した。
その様子に、思わずくすくすと笑ったミルテを見、レンが眼をまたたく。
「楽にしてくださいな。お茶はいかがですか?」
「いただきます」
レンがぎこちなくカップを取り上げる。
紅茶をふくみ、レンの固い表情が少し和らいだようだ。
「クッキーもどうぞ」
「ありがとう、ございます。ところで先ほどのお話ですが、何かそう思われるようなことがありましたか?」
「ええ、三年前のことなのですけれど、“黒の森"はご存知ですか?」
「はい」
「その“黒の森"で、賊に襲われたことがありましたの」
レンが耳をぴくりとさせた。
カップを持つ指先は、力が入って白くなっている。
「幸い、たまたま森にいた方に助けていただきまして、あなたがどことなくその方に似ていて、それで思い出したのです」
「その方は……ええと、何も言わなかったのですか? 名前とか、そういったものは」
レンが小首をかしげる。
「ええ、私はその後すぐに倒れてしまって、それから何日か伏せっていたので、何も聞けずじまいになってしまって。その方も、屋敷には来られたそうなのですけれど、結局何も言わずにすぐに去ってしまわれたのだそうです。どうにか探し出してお礼をしたいと、今でも思っているのですけれど……」
ミルテが驚いたことに、これを聞いたレンの顔には、温かな微笑がさざ波のように広がった。
その微笑みは、これまでのレンの冷ややかな印象を一変させるほど優しいものだった。
「何かおかしかったですか?」
「いえ、別に。失礼しました」
すぐに無表情に戻ったレンが頭を下げる。
「残念ですが、心当たりはありませんね」
「そう、ですよね。すみません、こんなことを話してしまって」
「いいえ、お気になさらず」
レンの語調はやはり淡々としていたが、青い瞳には穏やかな光がちらりと見えた。
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