2
「おい、起きろ!」
怒鳴り声が聞こえ、レニはうっすらと眼を開いた。
見慣れた洞窟の岩壁ではなく、太い木の格子とその向こうに立つ人影が見え、思わず眼をしばたたく。
「おい!」
再びの怒声。
ようやく今の状況を思い出し、レニはようよう身体を起こして立ち上がり、格子のそばまで近付いた。
格子を挟んで、三人の男がレニを見ている。
昨日も見たイーストンとクラレンス、そしてイーストンに面差しの似た老人。
レニの頭の中で、サマドが言葉にならない呻き声を立てるのと、レニを認めた老人が、眼を見開いて息を呑むのが同時だった。
「お前、レニ、生きていたのか!?」
愕然とする老人とは逆に、レニは小首をかしげ、不思議そうに老人を見ていた。
「私を……知っている、のか?」
老人をじっと見つめながら、レニはためらいがちに言葉を押し出した。
今の自分の記憶に、この老人はいない。
胸を噛むこの感情は、不安か、恐怖か。
胸の奥がざわつく。
口の中がからからに乾いている。
心臓が激しく脈打つ音が、はっきりと聞こえていた。
「私だ、レジナルド――サマドの兄だ」
レジナルド、と口の中で繰り返す。
老人の名を知っても、レニの頭の靄は晴れない。
(サマド)
呼んでみたが、サマドからの答えはない。
内心が顔に出ていたのか、レジナルドも怪訝な顔になる。
「どうなっている?」
「彼女は何も覚えていないと言うのですよ、父上」
イーストンが口を挟み、レニもこくりとうなずく。
「馬鹿な!」
レジナルドの大声が地下にこだまする。
その場にいた全員が、ぎょっとした様子でレジナルドに注目した。
「馬鹿な、お前が記憶を失くすはずがない! お前、は――」
激した調子で言いかけたレジナルドが、ぷつりと言葉を途切れさせた。
どうにか言葉を続けようとしたレジナルドだったが、口が動いているにも関わらず、声は一切出ていない。
レニはきょとんとレジナルドを見つめている。
「父上?」
顔色を変えたイーストンが、慌ててクラレンスに命じてレジナルドを去らせる。
「何をした」
イーストンがレニを睨みすえる。
視線で人が殺せるものなら、レニはこの瞬間に倒れて死んでいただろう。
「別に、何かしたつもりはないが……」
「嘘をつくな!」
今度はイーストンの怒号が地下に響いた。
日頃は声を荒げることなどまずないイーストンが激昂した様を目の当たりにして、衛士たちは言葉を失っていた。
感情に任せて腕を伸ばしたイーストンが、レニの胸倉を掴む。
レニの踵が浮く。
呆然としていた衛士たちに制され、イーストンはようやく手を離した。
よろけて尻餅をつき、レニは顔をしかめてイーストンを見上げた。
レニの冷めた瞳にじっと見つめられ、イーストンはいくらか自分を取り戻したらしい。
「君には“黒の森"への不法侵入と盗伐、それに殺人と窃盗の咎がある。殺人は娘を助けるためだったとしても、君の罪は許し難い。何か、申し開きはあるか」
「申し開き、と言われても……何も、心当たりはない」
首をひねるレニの前に、イーストンが長剣を突きつけた。
蔓の装飾がほどこされた鞘、隼の紋章が彫りこまれた柄頭。
レニが持っていた長剣である。
「この隼の紋章は我が家を示すもの――つまり、この剣は我が家のものだ。いつ盗んだ?」
はっきりと決めつける語調。
自分がどう否定しても、弁明しても、イーストンは聞き入れないだろう。
おそらく、イーストンの中では既に“正解"が決まっている。それに沿わない言葉なら、耳に届くことはない。
だからといって、心当たりのないことまで自分がやったということは、レニにはできなかった。
「知らない……覚えていない」
「それで言い逃れるつもりか? 君への罰は利き腕の切断。執行は明日の夕刻だ。覚悟をしておくように」
冷徹にそう告げ、イーストンが上着の裾をひるがえして去っていく。
地下に静寂が満ちる。
――まさか、ここで会うとは思わなかったな。それにしても……。
(サマド?)
――ああ、ごめんね、黙ってて。少し考えごとをしていたものだから。大丈夫かい、レニ?
(少し痛む)
――まったく。あれが当主で大丈夫かな。しかし、それはともかく君への処罰はどうにかして避けないとね。当主のあの様子じゃ、撤回は望めそうにないけれど……君が罰されるいわれはないんだからね。少し、考えてみるよ。
それっきり、サマドはまた黙ってしまった。
レニもごろりと横になり、そのままうとうとと眠りこんだ。
しばらくして、昼食だ、と呼びかけられて眼を覚ます。
地下牢には窓がない。時間を知ることができるものは、この食事だけだった。
毎食パンとスープで、満腹にはならないが空腹は紛れる。
食事のときにはさすがに手首の縄は解かれたが、かわりに食事の間じゅう、すぐそばで衛士に監視されている。
厳しい視線を感じながら、パンを噛み、スープで流しこむ。
食事が終わると、再び手を縛られる。
衛士たちはレニを見張りながら、時折ひそひそと何か話している。
ちらちらとこちらに向けられる眼から、自分のことが話題に上がっているのだろうと察する。
罰を言い渡されたレニだったが、恐怖心は欠片もなかった。
かといって楽観しているわけではない。ただただ現実感がまるでなかった。
さらに時間が過ぎ、夕食のパンとスープが運ばれてくる。
夕食を持ってきたのは、レニが見たことのない衛士だった。
明るい栗色の髪の、顔にまだどことなく少年の面影を残した青年である。
青年はさりげなく外からの視線を遮りながら手首の縄を解き、パンを手渡した。
パンと一緒に、別のものが指先に触れる。
思わず青年を見ると、彼は目顔でうなずいてみせた。
パンをくわえ、渡されたもの――小さくたたまれた紙片――を開く。
『彼に従え。必ず助ける。R』
短い走り書き。
(サマド。どう思う?)
――そうだね。信じていいと思う。
サマドがきっぱりと言い切る。
パンとスープを食べ終えたレニへ、青年が手の中に握りこめるほどの小瓶を差し出した。
中にはうっすらと青みがかった液体が入っている。
「飲んでください」
青年が低くささやく。
わずかな時間ためらって、レニはぐいとその液体をあおった。
喉が凍りつくかと思われるほど冷たい液体が、喉から腹へ落ちていく。
耳の奥で鼓動が響く。
手足が冷えていく。
出そうとした声が、喉に貼り付く。
大きくかしいだ身体が、誰かに抱きとめられた。
視界から色が薄れていく。
そのまま、ふつりと意識が途切れた。
どれほど時間が経っただろうか。
闇の底から、レニの意識は徐々に浮かび上がってきた。
遠くからかすかな物音が聞こえてくる。
夢と現の境を漂っていた意識が、現実へと引き寄せられる。
重い瞼を持ち上げる。
見覚えのない、木の天井。
身体の下には柔らかなものが敷かれている。
(ん……?)
意識がはっきりしてくる。
強張った身体をどうにか起こす。
縛られていた手首には今は縄がなく、丁寧に包帯が巻かれている。
辺りを見回し、どこかの部屋で寝かされていることを知る。
レニが寝かされているベッドのそばにはランプの乗ったサイドテーブルと丸椅子がある。
窓の外には、手入れされた庭が見える。
外に見えるのも知らない景色だった。
――地下牢からここまで運ばれたみたいだね。レニ、具合はどう? どこか痛むかい?
(大丈夫)
身体はひどく強張っているが、それ以外に異常はない。
そろりとベッドから降りる。ぎこちない動きではあるが、手足はちゃんと動く。
扉が叩かれ、レニはぎくりとしてそちらを注視した。
「やあ、気分はどうですか?」
若い男が顔を出す。あの衛士の男だった。
明るいところではっきりと男の顔を見て、レニは男の面立ちがイーストンと似ていることに気が付いた。
「食事の用意ができていますから、こちらへどうぞ」
扉の隙間から、美味しそうな匂いが届く。
匂いに刺激されて、身体が空腹を訴える。
男に案内されて、隣の部屋に移る。
隣室は台所と食堂を兼ねているようだ。
テーブルの上には厚切りのトーストとベーコンエッグ、紅茶が並んでいる。
空腹も手伝って、皿はあっという間に空になった。
「ここは?」
二杯目の紅茶を飲みながら、男に訊ねてみる。
「アヴラン村……アグル伯爵領の西部にある村です。ああ、それと僕はルーカルト。ルーで結構です、レニさん」
「……ルー、あんたも、私を知っているのか?」
「父から、お名前だけはうかがっています」
「父?」
疑問ばかりが増えていく。
あからさまに不審げな色が顔に出ていたのだろう、それまで微笑していたルーカルトが、ふとその表情を真面目なものにした。
「レニさん。僕も父も、あなたを傷つけるつもりはありません」
真剣な声。
ルーカルトがその青い眼をじっとレニに注ぐ。
「これから、父のところへご案内します。どうぞ、こちらへ」
ルーカルトに続いて外に出る。
一頭立ての小馬車がすでに準備されていた。
レニが乗りこむのに手を貸し、その横に座ったルーカルトが手綱を握る。
走り出した馬車が村の中を通り、広場に面した大きな鉄製の門をくぐる。
門の向こうには門番小屋が建っており、並木道が遠くまで続いている。
木々は互いに枝を伸ばし、天然のトンネルを作っている。
さらさらと鳴る葉ずれの音が、“黒の森"を思い出させる。
「今は緑ですけれど、秋になったらいっせいにきれいな黄色に変わるんですよ」
ルーカルトがにこにこと声をかける。
レニはそう聞いて、興味深そうに頭上の梢を眺めていた。
並木道の終点にはまた鉄製の門があり、その向こうには牧草地が広がっている。
牧草地を抜けると、その先には木立が茂り、木々の間を曲がりくねった小道が続いている。
「疲れていませんか? もうじきですよ」
ルーカルトが笑いかけるのへ、レニは短く大丈夫、と答えた。
もうじき――というにはずいぶん長い時間、馬車は小道を進み、それから視界が開けた。
さらにしばらく道なりに馬車は走り、古い、いかめしい屋敷の前で止まった。
玄関の大扉は分厚い黒樫の板でできており、黒い鉄釘が打たれている。扉の高さはレニの背の倍以上はあるだろう。
「馬車を車庫に置いてきますので、中で待っていてください」
そう言い置いて、ルーカルトはどこかに馬車を走らせた。
大扉が低い軋みとともに開かれる。
広々とした玄関ホールには、扉を開けてくれた従僕と、こざっぱりとした身なりの初老の執事が立っている。
――懐かしいな。
(知っている場所か?)
――うん。ストラード館、昔、アグル伯爵家の邸宅だった館だよ。今では確か、別邸になっていたはずだけどね。
(伯爵家の!?)
――大丈夫だ、レニ。ルーも言っていたとおり、悪いようにはされないよ。
サマドは何か察しているらしく、落ち着きはらっている。
それに影響されたのか、戸惑っていたレニもいくらか落ち着きを取り戻した。
「旦那様にお知らせして参りますので、こちらでお待ちください」
一礼し、執事と従僕が去る。
一人残されたレニは、玄関ホールの壁に飾られた絵画をしげしげと眺めていた。
青いドレスをまとって長椅子に腰かける貴婦人。
大きな羽根飾りの付いた帽子をかぶった若い娘。
黒い甲冑を身に着けた騎士。
「そのあたりの肖像は、アグル家の先祖を描いたものだそうですよ」
入ってきたルーカルトが、レニの視線を辿って声をかける。
そこへ、
「旦那様がお会いになるそうです。こちらへおいでください」
執事の先導で玄関ホールから廊下に出、その奥の応接間まで来たとき、
――レニ、また口を借りるよ。
サマドがそっとささやく。
(わかった)
短くやりとりをするそばで、執事が扉を叩く。
「お入り」
覚えのある声が、部屋の中から聞こえてきた。
「お連れしました」
「ありがとう、コーフェル」
応接間で待っていたレジナルドにすすめられ、レニは彼の対面に腰かけた。
ルーカルトもレジナルドの横に座る。
レニの顔を見たレジナルドが眉を上げた。
それに気付いてレニの顔を見たルーカルトも眼を丸くする。
それまで無表情だったレニの顔には、穏やかな、優しい笑みが浮いていた。
「助かったよ。ありがとう、兄さん」
開口一番、レニが――サマドがそう言うや、レジナルドが勢いよく腰を浮かせた。
驚愕のあまり、まなじりが裂けんばかりに目を見開いたレジナルドがさっと青ざめる。ルーカルトもぽかんと口を開けたまま凍りついていた。
「ストラード館に来たのも久しぶりだな。最後に来たのはいつだったっけ? 十……一か、二? 成人してからは来た覚えがないから、やっぱりそれくらいだったかな」
声はレニのものだが、その口調は彼女のぶっきらぼうなそれとはまったく違う。
微笑して言葉を続けるサマドをまじまじと見つめ、レジナルドがごくりと喉を上下させる。
「サマド……お前、なのか?」
恐る恐る、声を出したレジナルドの言葉を聞き、何か言おうとしたルーカルトが何も言えないまま、ぱくぱくと口を動かした。
「レニの口を借りている、今はね」
「い、いったいどうなっているんだ? レニは何も覚えていないと言うし、そもそもお前は――」
「兄さんが言いたいことはわかるよ。その前にひとつ確かめておきたいんだけど、“黒の森"にいた黒竜の名前、兄さんは覚えてる? 名前を言えるかい?」
「あ、ああ。黒竜の名前は――」
レジナルドが言葉を切り、ううむ、と低く唸った。
「黒竜の名は……なぜわからないんだ? 確かに知っている……知っていた、はずだ」
「君はどうかな、ルー」
「え……ええと……そういえば、黒竜の名は、一度も、聞いた覚えが……」
「そうか……ありがとう。そういうことか、読み違ったな。まさかここまでとは……」
「どういうことです?」
「説明するべきなのはわかっているけど、多分今は説明できない。ただ、兄さん、忘れているのが正しいんだ、とだけは言っておくよ。それ以上は、僕の口からは言えない。そうだな……兄さんは知ってるだろう、図書室の奥の小部屋、あそこに書き置きを残してある。それを読んでくれたら、僕が何をしたかわかってもらえると思う。それに、それがあれば僕が本当にサマドだと信じてもらえるかな?」
にっこりとサマドに笑いかけられ、油断なくサマドを注視していたルーカルトが苦笑する。
「僕からも聞いていいかな、兄さん。どうやって地下牢から村まで運んだの?」
「仮死薬だ。
「驚きましたけどね。よりによって仮死薬を手に入れて、本宅の地下牢にいる女に飲ませて村まで運び出せ、と言われたので。いくら僕が昔から無茶をやっていると言ったって、ずいぶん難題だと思いましたよ。幸い、思ったより早く薬は手に入りましたし、衛士の一人に見張りの交代を打診したら、二つ返事で代わってもらえましたから、実行するのは案外簡単でしたけどね」
「よく交代できたね?」
「その衛士君、最近恋人ができたそうでしてね。あっさり代わってもらえましたよ。それに僕が衛士に混ざるのは、これがはじめてじゃないですから。あ、兄には黙っててください。一応秘密でやってるんで」
眼をくるくるさせて、悪戯っぽく笑ったルーカルトに、サマドが思わず失笑する。
「それでレニさんが急死したということにして、こっそりと村まで運んだわけです。あの家、僕の家ってことになってますし、僕は前から昼でも夜でも馬車を出し入れしてますから、夜に馬車を乗り付けても、誰も不審には思いません。兄は何か察しているかもしれませんが、今のところ、特に追及はありませんね」
「そうか……いや、ありがとう。しかし兄さん、あれが当主で大丈夫かい」
サマドが鼻にしわを寄せる。
苦笑したレジナルドが、ようやく思い出したように茶を勧めた。
「領主としては立派にやっているようだが……そういうことが言いたいわけではないのだろうな」
「百歩譲って、状況的にレニを捕らえるのは仕方がないとして、だ。暴力と、自分の思う正解以外を認めない姿勢はどうかと思うよ。第一、レニはお嬢さんを助けたってのに」
「ああ、ミルテはあれから寝こんでしまっていてな。話ができるまで待てばよかったのは確かだが」
「まあ、寝こむのも無理はないか。そういえば、レニがここに来たことは知られていないかい?」
「大丈夫です。馬車には目眩ましの魔術をかけてありますから、村に来たときも、ここへ来たときも、誰も気付いていないはずです」
「周到だね。なら心配する必要はないか。しかし当分はどこかに隠れておくべきかな。死人がうろついていたら、今度は首を切られかねない」
「そういうことなら、見た目だけ変えてしばらくここにいないか。ここなら屋敷のほうで何かあればすぐに気付ける」
「兄さんが構わないならね。いいかい、レニ?」
(わかった)
淡々とレニが答える。
サマドからそれを伝え聞いて、レジナルドが深く頭を下げた。
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