Dragon and Human

文月 郁

 “黒の森"の開けた場所で、レニは灰色の毛布にくるまって眠っていた。

 鳥のさえずりを聞いて眼を覚ます。

 頭上に大きく空いた枝葉の隙間から、一点の雲もない、澄みきった青天井が見える。

 吹いてきた涼風が、ざざ、ざざ、と梢を揺らす。

 草の香が混じる空気を胸いっぱいに吸って静かに吐く。

 ひと呼吸ごとに自分がじわりと溶け、森の空気と同化していくような感覚。レニにとっては心地よいものだった。

 ふうう、と息を吐いていると、近くのやぶからがさりと音がした。

 横になったまま、顔だけを音のしたほうに向ける。

 藪の中からひょいと顔を出した野兎がレニを見るや、あっというまにどこかへ姿をくらました。

 喉の奥で小さく唸り、レニはのろのろと身体を起こした。

 両手を上げてぐうっと伸びをすると、肩に引っかかっていた毛布が草の上に滑り落ちた。

 レニは黒い、短い髪に黒い眼をした、色白の小柄な娘である。

 顔立ちは整っているほうだが、無表情の顔に生気はなく、瞳にも光はない。

 人の姿でありながら、どことなく人と思えないような、そんな印象を与える娘だった。

 髪はくしゃくしゃにもつれ、木の葉が絡まっている。

 着ているものは灰色のシャツに黒いズボン。服は少しくたびれているようだったが、不思議と汚れてはいなかった。

 レニのすぐそばには、焚火の跡が残っている。昨夜、捕まえた野兎を調理するために起こした焚火の跡だ。

 焚火の横には、黒革の剣帯におさめられた長剣が置いてある。

 鞘には蔓が巻き付いたような装飾がほどこされ、柄頭には隼をかたどった紋章が彫りこまれた、古そうな剣である。

 剣を腰に帯び、レニは毛布をたたみはじめた。

 レニが暮らしている“黒の森"は、ウォールベルグ王国北東部のアグル伯爵領にある。

 広く、深いこの森は、ウォールベルグ王国の建国前から存在し、森の奥には人を喰らう黒竜が棲んでいると言われている。

 鬱蒼とした森の中は昼でも薄暗く、木々に遮られ、真昼であっても黄昏時ほどの光量しかない。

 それに目印となるようなものがない森の中では、相当よく知っている場所でなければ容易に迷う。

 そのことを十分承知しているレニは、住処すみかとしている洞窟――かつて黒竜のねぐらと言われていた場所――から離れないようにしていた。

 たまには昨夜のように、外で過ごすこともあるが、それでも今いる場所が、レニの行動範囲の中で最も洞窟から遠い場所だった。

 たたんだ毛布に昨晩集めた薪の残りを乗せて包む。それを小脇に抱えて立ち上がったレニは、不意に胸騒ぎを覚えた。

 ざわざわと鳴る葉ずれの音がやたらと耳につく。

 かわりに、これまで聞こえていた鳥のさえずりはぴたりと止んでいた。

 まるで森全体がどこか落ち着かず、何かに怯えて息を潜めているような……。

――何だろう。おかしな輩でも入りこんだかな。

 レニの頭に、男の声が響く。

 若い男の声。訝しげな、首でもかしげているような口ぶりだった。

 レニは驚くそぶりもなく、声には出さずにその声に答える。

(だろうな。もし出くわしたら厄介だ)

 森の入口周辺ならまだしも、このあたりに人間が立ち入るなど、よほどのことがなければないことだ。

――そうだね。密猟者か何かかな。そうでなければ盗賊の類か……何にせよ、あまり性質たちのよくないのが入ってきたみたいだね。

 話しかけてくるこの声の主が何者か、レニは知らない。

 そればかりでなく、レニは自分自身のことも何ひとつとして知らなかった。

 レニが“黒の森"で暮らしはじめたのは、今から四十年前のことである。

 四十年前――王国歴一二七二年――といえば、かの『コドワ高地の戦い』が起こった年である。

 コドワ高地の戦いは、数年来続いていたウォールベルグ王国とカルネア皇国との戦争を終結させた戦いであり、両国間の戦いの中で、最も激しいものだった。

 それまでのファリアスの戦いとクラン川の戦いにおいて、カルネア皇国に大敗を喫していたウォールベルグ王国は、この戦いでも敗色濃厚とささやかれていた。

 この戦いで王国の命運が決まるだろう、と言う者も多くいた。

 国王モーリアスが率いる王国軍の兵は約八万。

 対して皇帝マーヴァンが率いる皇国軍はその数十二万。

 戦いは三日続き、数の上でも不利だった王国軍は奮戦したものの、じわじわとその数を減らしていた。

 三日目、ついにモーリアスは召集していた黒竜とその契約者を切り札として戦場に投入した。

 しかし、戦乱の中で契約者のサマド・アグルを喪った黒竜は狂乱し、敵味方の区別なく両軍の兵士を襲い、両国の軍を壊滅させ、そのまま何処かへ飛び去った。

 モーリアスとマーヴァンも黒竜によって殺害され、これがきっかけで二国間で和睦が結ばれることとなったが、戦場から飛び去った黒竜の行方はわからないままだった。

 もっとも、レニはこうしたことも何ひとつ知らなかった。

 四十年前、レニは今と全く同じ姿で洞窟の前に倒れていた。

 ここはどこなのか、自分は何者なのか、これまでに何があり、なぜ自分がここにいるのか。

 何もわからず、呆然と立ちつくしていたレニに声をかけたのが先の男だった。

 男からこの場所が“黒の森"であることと、自身の名が『レニ』だと教えられたが、男もこれまでに何があり、なぜ自分がここにいるのか、という問いには、言葉をはぐらかして答えなかった。

 くわえてレニは男の名も、自分との関係も、なぜ声をかけてくるのかも知らなかった。

 それでも、レニはこの男を信頼していた。男のことは何も知らないレニだったが、はじめて声を聞いたときから、この男は信頼できると直感していた。


 毛布を抱えたレニが、洞窟へ戻ろうとしたとき。

(ん?)

 風に乗って、かすかな音が耳に届いた。

 眼を閉じ、耳をすませる。

 怒声。

 下草を踏む足音。

(近付いているな)

 胸の内で呟く。

――少し、様子を見ようか。

 毛布を足元に置き、音のするほうへ注意を向ける。

 木々の間で、ちらちらと見慣れない色が揺れている。

 じっと眼をこらす。

 遠くに見えていたものが、徐々に近付いてきている。

(……人、か?)

 少女と、人相の悪い、見るからにごろつきと思われる男が三人、こちらに走ってきていた。

「た、助けてください!」

 少女が悲鳴混じりの叫び声をあげる。

――レニ、

 男が先を続ける前に、レニは動いていた。

 少女を背に庇い、男たちの前に出る。

 考えて動いたわけではなかった。反射的に身体が動いていた。

「おい、なんだ、お前は」

 三人のうちの一人、大ぶりのナイフを手にした男がぎろりとレニを睨みつけ、低い声で凄む。

 強面の男だ。他の二人も、お世辞にも柔和な顔とは言い難いが、この男が一番威圧感がある。ナイフがなくとも、その眼光だけでたいていの相手は縮みあがるだろう。

 だが、レニの顔には一欠片の恐怖もあらわれていない。

 鼻先にぎらつくナイフを突きつけられても、レニの無表情は変わらなかった。

「なんだ、こいつ?」

「その後ろにいる子を、こっちに渡してくれないかな?」

 別の男が作り笑いを顔に貼り付け、猫なで声を出す。

 薄皮の向こうに鋭い刃を隠した、無理矢理に出した甘い声にぞくりと背筋が粟立つ。

 ちらりと少女を見ると、少女は大きくかぶりをふった。

「嫌だと言ったら?」

 喉元にナイフが触れる。

 ちり、と痛みが走る。

「いいから渡せ」

 どすのきいた声。

 男の全身から、威圧が発されている。この手の脅しには慣れているのだろう。

 レニが小さく口を開いた。

 赤い舌が、つう、と下唇をなぞる。

 男の注意がそこに向いた瞬間、レニはさっと手をうちふった。

 その途端、男たち三人が揃って吹き飛んだ。

 地面に頭から叩きつけられた男たちは、ぴくりとも動かない。

 三人の口の端からこぼれた血が、草を赤く濡らしている。

 男たちを腕を組んで見下ろしたレニは、毒蛇の死骸でも見るかのように鼻にしわを寄せていた。

「あ……」

 背後から蚊の鳴くような、か細い声がした。

 少女の存在を思い出し、レニは少女に向き直った。

 少女は十五歳くらいだろう。

 薄青色のドレスを着て、絹の靴下をはいている。靴は見当たらない。

 首からさげた銀のアミュレットが、陽光を反射してきらりと光る。

 靴下はあちこち破れ裂け、土や草の汁、血で汚れている。ドレスの裾も、血こそ付いていないが似たような惨状だった。

 細い金糸のような髪が、乱れて顔にかかっている。

 頬は紅潮し、肩が大きく上下している。

 レニを見上げる青緑の瞳が、ふっと虚ろになった。

 ふらりとくずおれる少女を抱きとめる。

 その拍子に、アミュレットに反射した陽光がレニの眼を射た。

 顔を背けたときに姿勢を崩しかけ、慌てて体勢を整える。

 そのとき、レニはアミュレットに何かの紋様が刻まれているのに気が付いた。

――風精のアミュレットだね。なるほど、この子がここまで走ってこられたわけだ。

(どういうこと?)

――風の精霊の加護がこもったアミュレット。これがあったからこの子はここまで逃げてこられたんだ。そうでなかったら、このお嬢様はとっくに捕まっていたよ。

(そう)

 森には元の音が戻りはじめている。

 鳥のさえずりも聞こえだしていた。

 ここで立ちつくしているわけにもいかない、とにかく少女を洞窟にでも連れて行こうとしたとき、

「動くな!」

 足音とともに、強い声が響いた。

 あたりが再び静かになる。

 肩に隼をかたどった紋章が入った制服を着た男が五人、少女が来たのと同じ方向から駆けてきた。

 五人とも帯剣し、いつでも抜剣できるよう剣に手をかけて、レニに射るような視線を向けている。

 五人分の殺気が肌に刺さる。

 先頭の男がレニを見、足元の毛布、倒れている三人の骸へ視線を動かす。

「お前は何者だ?」

 男が声を尖らせて誰何する。

「……レニ」

 軽く咳払いをして、レニが短くそれに答える。

 普段、滅多に声を出さないせいか、レニの声は掠れていた。

 こんな声だっただろうか、と自分でも思う。

「こいつらを殺したのはお前か?」

 死骸を示され、レニはこくりとうなずいた。

 誰何してきた男に近寄り、無言で抱いていた少女を差し出す。

 男が慌てて少女を受け取る。

「とにかく、屋敷まで来てもらうぞ」

 四人の男に囲まれる。

――仕方がない。レニ、今は従おう。

(わかった)

 少女を渡したからか、殺気は少し和らいだようだが、男たちからの警戒が緩んだ様子はない。

 レニが少しでも彼らにとって怪しげなふるまいをしたなら、即座に白刃がふるわれるだろう。

 歩け、と背を小突かれ、レニは小さくよろめきながら歩き出した。


 その夜、領地の巡回を終え、久しぶりに屋敷に戻ってきたアグル伯爵家当主、イーストン・アーチボルド・アグルは衛士長のクラレンス・トナンから留守中の報告を聞いていた。

 イーストンは三十代後半にさしかかったくらいの年頃で、金の髪を撫でつけ、上着の釦をきっちりと留めている。

 クラレンスもイーストンとそう変わらない年齢で、茶色い髪を短く刈り、茶色い瞳に厳しい光をたたえている。その顔つきも険しかった。

 “黒の森"でレニを見つけて誰何したのもこのクラレンスだった。

 クラレンスの報告を聞きながら、イーストンがぴくりと眉を動かす。

「なるほど、“黒の森"の近くで賊に襲われたのか。当分、警備を厳しくしておかなければならないな。ミルテはどうしている?」

「森から戻られてから熱を出されて……。幸い命に別状はなく、今はアニエス様が付き添っておられます」

「そうか……森にいたその女は何者だ?」

「名はレニと言うそうですが、それ以外のことは何も知らぬと言うばかりで、名前も本名かどうか……。ずっと“黒の森"で暮らしていたそうですが、何かご存知ですか?」

 レニ、と聞いたイーストンが、再び眉を動かしたのを見て、クラレンスが訊ねる。

「いや……他には?」

「こちらをご覧ください。その女が持っていたものです」

 クラレンスが長剣を見せる。

 柄頭に彫りこまれた隼の紋章を認め、イーストンが眉を寄せる。

「その女はどこに?」

「念のため、地下牢に入れてあります」

「案内してくれ。直接問い質してみるとしよう」

「承知しました」


 換気が行き届かない地下の空気は、埃っぽく澱んでいる。

 戦時につくられ、今では使われていない地下牢の中で、レニは奥の壁にもたれて座っていた。

 手首は縛られ、右頬は赤く腫れ、口元には乾いた血が付いている。

「来い!」

 クラレンスに呼びつけられ、レニはぎこちなく立ち上がり、木の格子のそばへ歩み寄った。

 少し首を煽り、イーストンとクラレンスを見上げる。

「アグル家当主、イーストン・アグルだ」

 イーストンがそう名乗ったのを聞くや、レニの顔つきが一変した。

 生気のなかった瞳に、それまでなかった強い光が宿り、無表情だった顔つきがきりりと引き締まる。

 レニの赤い唇が、皮肉を含んで弧を描いた。

「娘の恩人に対してこの仕打ちは、いくら何でもひどいんじゃないのかい? アグル家の当代がこれじゃ、先が思いやられるね」

 ぴりりと空気が緊張する。

 静かな響きをともなって発された言葉には、激した調子は感じられない。

 しかし言葉にこめられた怒りは、じわじわと伝わってきた。

「手荒な真似があったことは詫びよう。しかし君はなぜ"黒の森"にいたのだね? 森で何をしていた?」

「なぜも何も、住んでいただけだよ」

「君は何者だね?」

「この子はレニだよ。もう名乗っていたと思うけどね」

「……今話している君は違うだろう。君は誰だね」

 イーストンがあくまでも落ち着いた語調でそう訊ねる。

 一瞬の間があった。

「……サマド」

 その名を聞いて、イーストンがはっきりと不審の色を顔にあらわし、衛士たちも訝しげに顔を見合わせた。

「ふざけるのは止めたまえ。サマドだと? 彼はコドワ高地の戦いで――」

「黙れ!」

 レニが――サマドが血相を変えた。

 クラレンスが手にしていた角灯が、異様な音とともに爆ぜる。

 割れた角灯からこぼれた油に火が燃え移る。

 衛士たちが慌てて火を消している間に、イーストンは懐から拳銃を引き出した。

「ここで死にたくないなら、それ以上は止めたまえ。君への処罰は改めて伝える。覚悟をしておくんだな」

 冷ややかに、怒りをこめてイーストンが言い放つ。

 まもなく、彼は固い足音を響かせながら去っていった。


 イーストンが去った後、レニは再び奥の壁に背を預けて座りこんでいた。

 その顔は無表情に戻り、瞳の光も消えていた。

 格子の外からこちらへ敵意の眼差しをよこす衛士たちなど、まるで眼中にない様子である。

――ごめん、まずいことをしたかもしれない。

(……はじめて、怒ったな)

――そりゃ、怒るよ。顔はまだ痛むかい、レニ?

(いや、もう痛まない。サマドと言うんだな、名前)

 サマド、と舌の上でその名を転がす。

 レニにとってはやはり覚えのない名だが、なぜか安心する名だった。

――隠していたわけじゃないよ。聞かれたらいつでも答えるつもりだったんだけど、レニってば、何も聞いてこないんだもの。

(わかっている。聞こうと思わなかっただけだ)

――君らしいね。

 サマドの声が、くすりと笑うような響きを帯びる。

(サマド、コドワ高地の戦いって?」

 イーストンの言葉を思い出し、そう訊ねる。

 そのとき、ちり、と奇妙な不安がレニの胸を灼いた。

 それを知ってはいけない、と、そんな気がした。

――昔のことだよ。君は気にしなくていい。

(……そうか。私は、知らないことが多すぎるな)

 いくら過去の記憶を手繰っても、頭に靄がかかったようにぼんやりするばかりで記憶は何ひとつ――とっかかりさえ――浮かんでこない。

 下唇を噛む。

――あまり、気に病まないで、レニ。

 サマドが優しくささやく。

 しばらくして、衛士が運んできたパンとスープで夕食を終えると、レニはその場で丸くなって目を閉じた。 

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