真夜中のワルツ

島原大知

本編

第1章 真夜中のワルツ


「すみません、お会計お願いします」

午前2時過ぎ、コンビニの入り口が開く音が店内に響いた。

「はい、413円になります」

宮本美里はレジに立ち、客の持ってきた商品をスキャンしながら答える。スキャナーを通るたびに電子音が鳴り、それがいつもの深夜の静けさを引き立てた。

客が去り、再び閑散とした店内に、美里はふと我に返る。隣で雑誌を読んでいた同僚の鳴海翔太が、彼女を見ていた。

「ねえ、美里は生きてて楽しい?」

不意に翔太がそう言った。美里は手元の作業を止めて彼を見る。

「どういう意味?急にそんなこと言って」

「いやさ、美里って貧乏なのに必死に働いてるけど、そんな生活に夢や希望ってあるのかなって思って」

翔太の言葉は突然の雨のように、美里の心を乱した。確かに、母子家庭で育ち、学費を稼ぐためにバイトに明け暮れる日々。だが、美里はそれが嫌だとは思っていなかった。

「私は今の生活が嫌いじゃないわ。目標に向かって頑張るのは、それはそれで充実してると思うから」

美里は精一杯の言葉を返した。すると、翔太は少し寂しそうに微笑んだ。

「美里はそういうところ、昔から変わらないね。俺なんかいつも退屈で、何のために生きてるのか分からなくなる」

「翔太くんは裕福な家庭で、自由に好きなことできるんでしょ。それって素敵だと思う」

「いや、それが問題なんだよ。金はあるけど、俺の存在価値を認めてくれる人がいない。親とも疎遠だし、友達もろくにいない。ただ、日々をやり過ごしてるだけ」

不意に、冷たい風が店内に吹き込んだ。ドアが開く音に続いて、ヒールの音が響く。

「あ、紅音ちゃん、お疲れ様」

そこに現れたのは、もう一人の同僚、森川紅音だった。

「……お疲れ様」

いつものように無愛想な紅音。挨拶も聞き取れないほどの小声だ。

紅音は無言でバックヤードに向かい、制服に着替え始める。

美里は紅音の後ろ姿を見つめた。派手なメイクに金髪、ピアス。そのクールな雰囲気からは想像もつかない、古いバンドTシャツにダメージジーンズという出で立ち。そのギャップが、彼女の謎めいた印象を際立たせていた。

「紅音ちゃんも、いつも無口で何を考えてるか分からないよね」

翔太がふと呟いた。美里も同感だった。同じ大学で同じバイト先なのに、紅音のことは何も知らない。話したこともほとんどない。

そんな三者三様の、不思議な縁に導かれたような夜更けのひととき。

BGMの軽快なメロディが、なぜだかそぐわなく聞こえた。

「美里、さっき言いかけてた話の続きなんだけどさ……」

と、そこで再び翔太が口を開こうとしたところで、店内の電話が鳴り響いた。

美里は慌てて受話器を取る。

「はい、◯◯店でございます」

母の佳世子からだった。深夜の電話は珍しい。

「あ、美里。ごめんね、今日も遅くなって。でもね、ちょっといいニュースがあるの」

「どうしたの、お母さん」

「美里の学費、ボーナスが出たから、来月は少し多く入れられそうなの。それと、美里の誕生日も近いから、プレゼントも買わなきゃね」

美里の目に、涙が浮かんだ。

「ううん、お母さんが無理しなくていいよ。学費は自分で払えてるから。プレゼントも、お母さんの笑顔が一番ほしいの」

「美里……。私も美里のためにもっと頑張るからね」

電話を切った美里は、胸がいっぱいになるのを感じていた。

「お母さん?」

不意に背後から聞こえた翔太の声に、美里は飛び上がりそうになった。

「い、今のは……」

「ごめん、聞いちゃってさ。美里って、お母さんと仲良しなんだね」

「まあね。お母さん一人で私を育ててくれたから。尊敬してるの」

「俺も昔は、両親と仲良かったよ。一緒に旅行行ったり、よく遊んでもらったり。でもいつからか、そういうのがなくなった。愛情とか、家族の絆とか、そんなのはもうどこかに行っちゃったんだ」

翔太の瞳が、深い悲しみに沈んでいく。

美里は言葉を失った。翔太の心の叫びが、手に取るように感じられた。

そんな、微妙に重苦しくなった空気を引き裂くように、いつの間にかレジに立っていた紅音が不意に口を開いた。

「ねえ、今日の雨、やけに音がしてない?」

「え……」

そう言われて耳を澄ませば、外から雨の音が聞こえる。いつの間にか、土砂降りになっていた。

「傘、持ってない……」

と、美里がつぶやくと、紅音は何かを差し出した。

「使って」

小さな折りたたみ傘だった。

「でも紅音ちゃんは?」

「私はいい。走れば濡れない」

そう言って、紅音は再びイヤホンを耳に入れ、レジに視線を落とす。

不思議な子だ。そう思いながらも、美里は彼女の優しさに微笑んだ。

「私ももう上がるから。一緒に行こっか」

そう言って、翔太が美里に傘を差し出す。

「うん、ありがとう」

傘を差し出された時、翔太の指が美里の手に触れた。

その温もりに、鳴り響く雨音。

まるで秒針の音が、夜の中に溶けていくようだった。

そして、コンビニの深夜に響くBGM。

いつもと変わらない日常の中で、少しずつ変化が生まれようとしていた。


第2章 孤独なサバイバー


深夜のコンビニに、ドアの開く音が鋭く響いた。

入ってきたのは、いつもの常連客だ。

「いらっしゃいませ」

美里が明るい声で挨拶する。客は無言で会釈し、お目当ての商品を手に取った。

一方その頃。

『♪~』

店内に、BGMの切ない旋律が流れる中、紅音はレジに立ち、ぼんやりと窓の外を見つめていた。

ふと、美里が話しかけてくる。

「ねえ紅音ちゃん。BGM、好き?いつも踊るように体を揺らしてるよね」

「……別に」

淡白な返事。だが、その表情は柔らかく、心地良さそうだ。

「紅音ちゃんて、ミステリアスな雰囲気だけど、音楽は好きなのかな」

そう言いながら、美里は紅音の様子を伺った。

「ミステリアス……?」

「あ、ごめん変なこと言って。でも紅音ちゃん、いつも無口だし、何を考えてるのか分からないんだよね」

紅音は小さく肩をすくめた。

「別に、何も考えてない。音楽は……ただ、雑音を遮断してくれる。嫌なことも、痛みも、全部忘れさせてくれる」

「そっか……」

美里は、複雑な表情を浮かべる。

一体彼女は、どんな思いを抱えているのだろう。

ふと、翔太がやってきて口を開いた。

「紅音って、家族とかどんな感じなの?」

「……別に、普通よ」

そう言って、紅音は再びイヤホンを耳に入れた。それ以上は話したくない、という素振りだ。

「なんか、いつも一人だよね。大学でも、誰とも喋ってるの見たことないし」

「翔太くん、紅音ちゃんのプライベートなこと聞くのはよくないよ」

美里が諌めると、翔太は苦笑した。

「俺も人のこと言えないけどさ。家に帰っても、誰も居ないのは寂しいよな。たまに、壁に話しかけたりするんだ。pathetic、だろ?」

「翔太くん……」

「ま、俺なんかどうでもいいんだけどさ。美里は家族と仲良しなんだろ?それって、すげー羨ましい」

美里は一瞬、目を伏せた。

「私も、翔太くんの言う通り、家族は大切にしてる。一人で私を育ててくれた母のことは、本当に尊敬してるし、感謝してる。だけど……」

言葉を切り、美里は深く息を吸った。

「お母さんにいつも心配かけてばかりで、私も学費を払えてない。アルバイトしてるのに、全然足りなくて……。このままじゃいけないのに、どうすればいいか分からなくて」

「美里……」

翔太の表情が曇る。

「俺も、将来どうしたいとか、夢も希望もない。適当に大学行って、適当にバイトして、そのうちどっか就職するんだろうな。つまんない人生だ」

重苦しい空気が、二人の間に流れた。

けれど、美里はすぐに笑顔を取り戻す。

「ごめん、変なこと言って。私、別に今の生活嫌いじゃないの。バイトも、勉強も、母のためって思えば頑張れる。きっと翔太くんも、本当はやりたいことがあるはずだよ」

「俺が、やりたいこと……」

翔太は、自嘲気味に笑った。

「昔はさ、ミュージシャンになりたかったんだ。バンド組んで、ギター練習したり、曲作ったり。夢中になってた。でも、高校の時に挫折して。才能ないって、思い知らされた」

「そんなことないよ。翔太くんの音楽、聴いてみたい」

美里の言葉に、翔太の表情が少し明るくなる。

「ありがとう、美里。君みたいな子が応援してくれるなら、もう一度頑張ってみようかな」

そう言って翔太は微笑んだ。

窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。

夜空に、月明かりが差し込む。

「あ、雨止んだ。そろそろ帰ろっか」

美里が傘を片付けながら言った。

「そうだな。紅音、先に上がっていいよ」

振り返った先に、紅音はもういなかった。

いつの間にか、彼女の姿が消えている。

「紅音ちゃん、もう帰ったのかな」

不思議な子だ。

そう思いながら、美里はレジの方を見やる。

するとそこには、1枚の紙切れが置かれていた。

『明日は、私がシフト変わってあげる。美里も、翔太も、ゆっくり休んで』

その言葉に、美里は思わず微笑んだ。

ミステリアスな紅音の、小さな優しさ。

きっと彼女も、みんなと同じように、誰かと繋がりたいと思っているのだろう。

心の中で、美里はそっと呟いた。

「私も、紅音ちゃんともっと仲良くなりたいな」

そう思いながら、美里はコンビニを後にした。

深夜の街に、希望の光を見つけたような気がした。


第3章 秒針の囁き


カランコロン、とドアベルの音が響く。

美里が慌てて振り返ると、母の佳世子が疲れた様子で入ってきた。

「あら、美里。まだ起きてたの?」

「お母さん、おかえりなさい。お腹空いてるでしょ?お夜食作ったの」

「ありがとう、美里。でも遅いから、もう寝なさい」

そう言いながらも、佳世子は嬉しそうに微笑む。

食卓に並ぶ、簡単な茶碗蒸しとサラダ。

手料理の温かさが、佳世子の心を和ませた。

「美里、最近忙しそうね。バイトに学校に、あんまり無理しちゃだめよ」

「大丈夫だよお母さん。私、今の生活楽しいもん。それに……」

美里は、言葉を探すように目を伏せる。

「お母さんだって、私のために毎日頑張ってくれてるじゃない。私も、お母さんを支えたいの」

「美里……」

佳世子の瞳が、涙で潤む。

「お母さんは、美里が無事に大学を卒業して、幸せになれたらそれでいいの。もっと自分の人生を大切にしなさい」

「お母さんの人生だって、大切だよ」

美里は、佳世子の手を握った。

「お母さんが笑顔でいてくれることが、私の一番の幸せ。だからお母さんも、もっと自分の時間を作って、楽しいことしようよ」

「美里、お母さんは……」

そこで佳世子は、言葉に詰まった。

言えない秘密を抱えているような、悲しげな表情を浮かべる。

美里は不思議に思ったが、追及することはしなかった。

きっと言えない事情があるのだろう。

今は、母を労わることが大切だ。

そっと佳世子を抱きしめると、美里は優しく微笑んだ。

「お母さん、愛してるよ」

「美里……私も、美里が大好き」


その週末、美里と翔太は駅前の喫茶店で待ち合わせていた。

小綺麗な店内に、コーヒーの香ばしい匂いが漂う。

カウンター席に座った美里の前に、翔太がやってくる。

「おまたせ、美里」

いつもと違う、爽やかな私服姿に、美里は少し驚いた。

「こんにちは翔太くん。私服、似合ってるね」

「そ、そうかな。君に着飾ったつもりはないんだけどな」

そう言いつつ、翔太は頬を赤らめる。

微笑ましい反応に、美里も和んだ。

コーヒーを飲みながら、二人は少しずつ打ち解けていく。

「この前は、色々と聞いてくれてありがとう。美里は優しいね」

「私は別に……。それより、翔太くんはギターまた始めたの?」

「ああ、久しぶりに弾いてみたんだ。やっぱり楽しいね。美里も聴きにおいでよ、今度」

「うん、ぜひ聴きたい!私、翔太くんの音楽好きだと思う」

二人の会話は弾み、時間はあっという間に過ぎていく。

幸せなひとときに、美里の心は晴れやかだった。

けれど……。

「そろそろ行かないと。今日は紅音ちゃんとシフト一緒なんだ」

時計を見て、美里が立ち上がる。

「そっか。紅音とも……仲良くしてあげてね」

翔太の言葉に、美里は小さく頷いた。

紅音の謎めいた素顔に、少しずつ近づきたい。

そんな思いを胸に、美里はコンビニへと向かうのだった。


コンビニに着くと、紅音はいつものようにレジに立っていた。

「紅音ちゃん、こんばんは」

美里の呼びかけに、紅音はゆっくりと目を上げる。

「……こんばんは」

いつになく、少し表情が柔らかい。

「シフト、変わってくれてありがとうね。助かったよ」

そう言って微笑む美里に、紅音は小さく頷いた。

「別に……。体調崩したりしたら、もっと大変だから」

「紅音ちゃんは優しいんだね。そういうところ、尊敬するなあ」

美里のまっすぐな言葉に、紅音は戸惑ったように目を泳がせる。

「私は、別に……」

でも、嫌そうな顔はしていない。

むしろ、少しだけ嬉しそうにも見えた。

そんな紅音の反応に、美里は微笑む。

「ねえ紅音ちゃん。今度、三人でご飯行かない?翔太くんも誘って」

「……別にいいけど」

ぼそりと呟いて、紅音は顔を背ける。

でも、確かに頷いてくれた。

小さな絆が、少しずつ深まっていく。

この奇妙な三角関係も、悪くないかもしれない。

そう感じた瞬間だった。

バックヤードのドアが開き、店長の三上が顔を出した。

「あ、宮本さん。ちょっといい?」

不穏な空気を感じて、美里は小さく息を呑む。

一体、何事だろう。

胸に不安を抱えながら、美里はバックヤードへと足を踏み入れた。

そこで、彼女を待ち受けていたものとは──。


第4章 運命の分岐点


バックヤードで待ち受けていたのは、予想外の光景だった。

「お母さん……?」

そこには、青ざめた顔の佳世子が立っていた。

「美里、ごめんなさい。お母さん、もう限界みたい……」

「どうしたの、お母さん!」

動揺する美里を、三上店長が落ち着かせるように言葉をかける。

「宮本さん、お母様が倒れられたんです。救急車で運ばれたんですが……」

「そんな……」

美里の脳裏に、mother'sの二文字がよぎる。

母の日に、感謝の言葉もろくに伝えられなかった。

いつか、ゆっくり話をしようと思っていたのに。

もう、間に合わないのかもしれない。

「お母さんのところに行かなきゃ」

そう言って、美里は慌てて店を飛び出した。

「美里、落ち着いて!私も一緒に行くよ」

後ろから、翔太の声が聞こえる。

振り返ると、そこには真剣な表情の翔太が立っていた。

「翔太くん……」

「何かあったら、力になりたい。君の味方だから」

その言葉に、美里は小さく頷く。

ありがとう、と言葉にならない感謝を込めて。

二人で病院へと急ぐ中、美里の頭は真っ白だった。

母を失うかもしれない。

そんな現実が、突然に襲いかかってくる。

心の中で、美里は必死に祈った。

お母さん、死なないで。

まだ、一緒に過ごしたい時間があるんだから――。


病院に着くと、美里は一目散に母の病室へと駆け込んだ。

ベッドに横たわる佳世子は、薄い布団に包まれ、眠るように目を閉じている。

「お母さん……!」

声を上げて駆け寄ろうとした時だった。

「美里ちゃん、ごめんなさい」

見覚えのある女性が、美里の前に立ちはだかった。

「藤堂さん……?」

母の親友で、以前から家に出入りしていた藤堂恭子だ。

「佳世子さんは、もうすぐ天国へ旅立つの。本当は、あなたには言わないはずだったんだけど……」

「どういうこと……?お母さん、何があったの!?」

声を振り絞る美里に、恭子は悲しそうに目を伏せた。

「佳世子さんは、ずっと病気だったの。あなたに心配かけまいと、黙って闘病を続けてきたんだけど……」

「そんな……嘘でしょ……」

美里の脳裏に、走馬灯のように母との思い出がよぎる。

いつも笑顔で、優しくて、強い母。

そんな母が、病に侵されていたなんて。

美里は、声も出せずに立ち尽くした。

「お母さん……」

ふと、佳世子がかすかに目を開ける。

「美里……ごめんね。お母さん、もう君の傍にいられなくなりそう……」

「お母さん、しっかりして!私、お母さんと一緒にいたい!」

涙が頬を伝う。

けれど佳世子は、静かに微笑むだけだ。

「美里、お母さんはね、君が生まれた時、この世界で一番幸せだったの。君は、お母さんの誇りなんだよ」

「お母さん……」

「だから、お母さんがいなくなっても、前を向いて生きていってね。君には、無限の可能性があるんだから」

そう言って、佳世子は美里の頬を優しく撫でた。

その手は、いつもより冷たく感じられた。

「お母さんが天国に行っても、ずっと君のことを見守ってるからね……」

「お母さん、お願い、死なないで……!」

美里は佳世子の手を握り締め、必死に訴える。

けれど、返事はない。

ただ、穏やかな表情で目を閉じたまま。

まるで、安らかな眠りについたかのように。

「お母さん……お母さん……!」

美里の絶叫が、病室に木霊した。

肩を震わせて泣き崩れる美里を、翔太がそっと抱き寄せる。

「美里、気持ちはよく分かる。でも、しっかりしなきゃ。お母さんも、君に生きていて欲しいはずだ」

「翔太くん……」

翔太の胸に顔を埋め、美里は子供のように泣いた。

母を失った喪失感。

先の見えない不安。

全てを受け止めてくれる翔太の温もりに、美里は救われる思いがした。

「ありがとう……私、頑張るよ。お母さんの分まで、生きていくんだ」

そう言葉にすることで、美里は新たな決意を胸に刻んだ。

たとえ母がいなくなっても、心の中で生き続ける。

母の教えを胸に、これからも前を向いて歩んでいこう。

そう誓った美里だったが――。


「私、店長に話があるの」

数日後、美里は深夜のコンビニで、翔太にそう告げた。

「話って……もしかして、バイト辞める気なの?」

翔太の言葉に、美里は小さく頷く。

「ごめんね、急に言って。でも私、もっとしっかり勉強して、いい大学に編入したいの。母のためにも」

「そっか……寂しくなるな。けど、美里の決心を応援するよ」

そう言って、翔太は美里の背中を優しく押した。

ありがとうの笑顔を翔太に向けて、美里は店長のもとへと向かう。

けれど、その時だった。

突然、店内に警報が鳴り響いたのだ。

「な、なに……!?」

「強盗だ! 動くな!」

黒ずくめの男が、ナイフを振りかざして店内に飛び込んでくる。

「金を出せ! 早くしろ!」

興奮した様子で、男はレジに詰め寄った。

そこには、ポツンと佇む紅音の姿があった。

「紅音ちゃん、危ない!」

美里が叫ぶ。

その時、不思議なことが起きた。

紅音は、ゆっくりと目を閉じたかと思うと──

ふわりと、ダンスを踊るように動き出したのだ。

「な……!?」

男が硬直する。

その隙に、紅音は華麗なステップでナイフをかわし、男の急所を正確に蹴り上げた。

「ぐはっ!」

絶叫とともに、男はうずくまる。

紅音の柔らかな動きは、まるでバレエを踊っているかのようだった。

「すごい……紅音ちゃん、どうしてそんな……」

動揺する美里に、紅音はかすかに微笑んだ。

「私、昔バレエを習ってたの。それだけよ」

そう言って、紅音はさらりと髪をかき上げる。

いつもの無表情な紅音が、一瞬だけ生き生きと輝いて見えた。

「ありがとう、紅音ちゃん。助かったよ」

そう言いながら、美里は紅音の手を握った。

「……別に。当然のことをしただけ」

そっけない言葉とは裏腹に、紅音の手は温かかった。

窓の外では、秒針の音が静かに夜を刻んでいく。

運命の歯車が、少しずつ動き出したのかもしれない。

三人の若者たちの人生が、新たな方向に動き始めようとしていた――。


第5章 新たな始まり


事件から数日後、コンビニは元の平穏を取り戻していた。

美里と翔太は、深夜のシフトを終えようとしていた。

「……今日で最後だね」

レジに立つ美里に、翔太が寂しそうに声をかける。

「うん。今までありがとう。楽しかったよ、翔太くんと一緒に働けて」

「俺もだよ。美里といると、安心するんだ。不思議だね」

そう言って、翔太は頬を掻いた。

少し照れくさそうな、初々しい表情。

それを見て、美里は小さく微笑む。

「私も、翔太くんに支えられてたと思う。本当に感謝してる」

「お礼なんていいよ。それより……これからも、友達でいてくれる?」

「もちろん。いつでも会いに来てね」

二人の目が合う。

言葉にならない思いが、静かに通じ合っているようだった。

そこに、いつの間にか紅音が近づいてきた。

「美里……私、話があるの」

「紅音ちゃん……?」

美里が問いかけると、紅音は一度深く息を吸った。

「私、アイドルになりたいの。歌って、踊って、みんなを笑顔にしたい。だから……応援して欲しいの」

「え……!」

突然の告白に、美里は目を丸くする。

「いつか、ステージの上で美里や翔太にも会いたい。私、本気でやるから」

真剣な眼差しで、紅音は美里の目を見つめた。

その瞳には、強い決意の炎が宿っている。

美里は驚きながらも、紅音の手を握り返した。

「紅音ちゃん、すごいね。アイドルになるなんて……私、全力で応援するよ」

「私も応援する。紅音の踊り、すごく綺麗だったもん。絶対夢叶うよ」

翔太も力強く頷く。

三人は、固い握手を交わした。

「ありがとう……!私、頑張るから……!」

紅音の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

初めて見せる、感情豊かな表情。

それを見て、美里も翔太も微笑むのだった。


それから半年後――。

美里は、図書館で勉強をしていた。

編入試験に向けて、毎日猛勉強の日々だ。

時々、母の死を思い出して泣きそうになる。

けれど、負けない。

母のためにも、自分の人生を精一杯生きると決めたのだから。

ふと顔を上げると、そこには見覚えのある後ろ姿があった。

「……翔太くん?」

声をかけると、振り返った彼は驚いた顔をした。

「美里?偶然だね」

久しぶりの再会に、二人とも嬉しそうだ。

「翔太くんも勉強中?」

「ああ、就職活動の準備でさ。夢叶えるのは大変だよ」

照れくさそうに笑う翔太。

それを見て、美里も微笑んだ。

「そうだね。私も頑張ってるよ。きっと紅音ちゃんも、練習を頑張ってるはずだし」

「ああ、この前雑誌で見たよ。紅音の写真」

「え、本当に!?すごいね、デビューできたんだ……!」

二人で喜びを分かち合う。

遠くにいても、絆は変わらない。

そう感じられる、何気ない日常の一コマだった。

「ねえ翔太くん。今度、紅音ちゃんのライブに一緒に行かない?きっと感動すると思うんだ」

「うん、絶対行こう。俺たちの紅音、応援しなくちゃ」

優しい翔太の笑顔。

微笑み返しながら、美里は空を見上げた。

「お母さん、見てる?私、今とっても幸せなの。だから安心してね」

心の中で呟くと、凛とした風が頬を撫でた。

まるで母が微笑んでいるような、そんな気がした。

窓の外では、秋の陽射しが燦々と降り注いでいる。

色とりどりの紅葉が、美里の心を軽やかにしていく。

「さて、私はそろそろ行くね。また今度、ゆっくり話そう」

「うん。体に気をつけて。無理しないでね」

翔太に手を振り、美里は図書館を後にした。

大きく空を見上げ、深呼吸をする。

「よし……!」

希望に満ちた明日を思い描きながら、美里は颯爽と歩み始めた。

輝かしい未来が、そこに待っている。

自分らしく生きること。

新しい一歩を踏み出す勇気。

母から教わった、かけがえのない宝物だ。

胸に秘めた思いを抱きしめながら、美里は青空の下を歩いていく。

どんな困難も、仲間と一緒なら乗り越えられる。

そんな確信に満ちた、凛とした表情だった。

遠くで、秒針の音が希望の音色を奏でているようだった。

新しい物語が、今始まろうとしている――。

「私は、私の人生の主人公になる」

そう誓った美里は、希望に満ちた瞳でまっすぐ前を見据えた。

悲しみも、喜びも、全て受け止めて。

ありのままの自分を愛することから、新しい一歩が始まる。

そしてきっと。

いつの日か、みんなで笑顔で、再会できる日が来るはずだ。

心の奥で、美里はそう信じていた。


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真夜中のワルツ 島原大知 @SHIMAHARA_DAICHI

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