5.

「今夜、ここをとうと思っています」


 昼食を終えたところで、ミザはブランに声をかけた。

 二人ともリビングのテーブルを挟んで向かい合う形で座っている。ルコルだけが立ち上がって食器の片づけをはじめる。だが、動きながらも二人の会話を聞き逃さないよう耳に集中をしていた。


「おお、そういえばもう二日経ったんじゃったな。なんだかあっという間じゃったわい」

「あらためて、ありがとうございます。ブランさんが声をかけてくださらなかったら、今ごろ私たちは野宿をしていましたから」

「ほっほっほ。礼を言うのはワシの方じゃよ。お前さんらが来てくれたおかげで家も綺麗になったからのう。何より風呂は快適じゃったわい。久しぶりにゆっくりと熱い風呂を堪能できたのでな」

「そう言っていただけるとうちの弟子もがんばった甲斐があります。ねえルコル」

「え。あ、はい」


 話を振られ、ルコルは片づけを切り上げるとテーブルのそばへと戻ってくる。それを確認してから、ミザはひと呼吸おいて、本題を切り出した。


「ブランさん。最後にひとつ、いいですか?」

「ん? なんじゃ?」

「ルコルが言ったように、私たちは魔法使いです。この村に来たのも、人が心の内に抱いている想いに応えることが目的なんです」


 丸メガネに指を押し当てながら言う。その奥にある黒い瞳で、目の前の老人をじっと見る。


「ですから、話してはくれませんか? あなたが本当に望んでいることを。もちろん、どんな途方のない願いでもかまいせん。私たちは、魔法使いですから」


 そうミザが問いかけるのを、かたわらでルコルは緊張の混ざった面持ちで見守っていた。この場はミザに任せる、そういう手はずになっていたからだ。


「お嬢ちゃんだけでなくお前さんからも言ってもらえるとは、ワシは果報者じゃわい」


 何度も見た朗らかな笑顔を浮かべながら、老人は答える。


「じゃが、本当にこれといってないんじゃよ。さっきも言ったように、いろいろやってもろうて心から感謝しておるんじゃ。まさかワシの気持ちを疑っておるわけではないじゃろ?」

「ええ、もちろんです」

「ならワシのことは気にせんでええ。むしろこんなに色々してもろうて、他の村の連中に自慢したいくらいじゃ」


 満足そうに何度か頷きながら。きっと彼は本心で言っているんだろう。嘘偽りのない気持ちだ。


「……そうですか。ですが、それがすべてではないんじゃないですか?」

「どういうことかのう?」

「人というものは本心で話していても、すべてをさらけ出しているわけではありませんから。私も、覚えがあります」


 ミザは視線をはずし、どこか遠くを見る。本心で話すことと、すべてを話すことは違う。人はいろんな感情が、想いが入り混じって重なり合ってできている。

 ルコルはぎゅ、と両手を握った。ここからミザが話す内容は昨晩聞いている。だが、本当にその通りにいくかどうか。ルコルは自分の鼓動が速くなるのがわかった。


「ふむ。つまりワシがまだ何か隠しておる心がある、と」

「はい」

「なるほどのう。たしかに人という生きものはそうじゃな。それで、お前さんはそれはなんじゃと思っておるのかのう?」

「そうですね。たとえば――


 ――奥さまのこと、とか」


 瞬間、リビング内の時間が止まったようにルコルは感じた。

 同時に、初めてブランの表情に乱れが生じたように見えた。


「もしや、先立たれた奥さまのことが、ずっと心につかえているのでは、と思いまして」


 ミザがゆっくりと言葉を続ける。

 対して、ブランのトーンは少しばかり乱れているようだった。


「……たしかにワシは妻とずっと前に死別しておる。お前さんらを家に招いた時にも言った。じゃが、なぜそれをワシが未練に感じておると、そう考えるのじゃ?」

「明確な根拠はありません。ただ、この家の中に、それとルコルから聞いた話でいくつか引っかかるところがありましたので」

「引っかかる、とな?」

「ええ」


 そう答えて、ぐるりと部屋の中を見回すように首を動かした。


「まずはこのリビング。息子さんの写真はいくつも飾ってあるのに……奥さまが写っている写真は一枚も見当たりません」


 ブランも釣られるようにして、写真が飾られた壁の方に目を動かす。たしかに写真は何枚もあるのに、そのフレームにおさめられているのはすべて、ブランとその息子たちだけ。


「私にはこれが、まるで毎日生活する中で奥さまのことを意識しないようにしているみたいに思えました」

「…………」

「そしてもうひとつは、ルコルが掃除しようとしていたのを断ったという、二階の奥の部屋です。ルコルが家中を掃除してくれたにもかかわらず、あなたはそこだけはかたくなに開けることすら遠慮していた」


 ミザが説明するのを、ブランは黙って聞いている。もちろんルコルも。


「もしかしてそこが、奥さまが使われていた部屋なのではないですか?」


 そこに、奥さまの写真や生前使われていたものを仕舞って、固く扉を閉ざしているのではないのですか、と。静かに問うた。ルコルもまた言葉を発することなく固唾かたずを飲んでいる。ブランは、じっと目をつむっていた。


「とはいえ、さっきも言ったようにこれは私の推測でしかありません。思い違いをしている可能性も否定しません。……もしこの話で不快な思いをさせたのなら、申し訳ありません。私たちはすぐにでもここから出ていきますので」


 ルコルはわずかばかりつま先立ちになる。「そんなわけがない、まったくもって違う」と言われた時にすぐに動いて、この家を去ることができるように。


 だけど、ブランは「ふう」と長い息を吐くだけだった。口元の白いひげがやわらかに揺れた。


「ミザさんと言ったかな。お前さんの言う通りじゃよ」


 そして、そう首肯した。ミザの推測は、当たっていたのだ。


「しかしよくわかったものじゃ。ワシは妻の話を一度しただけじゃというのに……もしや、それも魔法とやらかのう?」

「いえ。ただの観察ですよ」

「観察とな」

「旅をしていると、どうしても細かいことまで気になる性分しょうぶんになってしまいますので」

「……なるほどのう。物静かでのんびりした方じゃと思っておったが、ワシのことをきちんと見ておったわけじゃな」


 そう言うと老人はルコルの方を向いて、


「すまんがコーヒーを一杯もらえんか?」

「は、はい」ルコルはコクコクと何度か頷き、準備をする。


「じゃがひとつだけ、間違いがある」

「なんでしょう」

「写真じゃ。写真は飾っていないのではなく……ないんじゃよ。妻と撮った写真がな」


 ブランはそう吐露した。

 数分経って、湯気と香りが立ちのぼるカップをブランの前に置いた。彼は自分を落ち着かせるようにゆっくりと香りを吸い込み、少しだけコーヒーを口に含んでから、


「もう、十五年も前のことじゃ」


 ブランは語り始めた。壁にかけられた写真に目をやりながら。

 だが、語る人物の姿はそこにはない。


「その頃はワシもまだ現役で、毎日仕事に明け暮れておった。

 前にも言ったように、ワシはこの村で数少ない大工じゃ。ちょうどその頃は新たに家を作りたいという人がたくさんいてのう。それはもう朝から晩まで働いたものじゃ。時には日が沈んでからも仕事をして、帰った時には家族が寝ていることばかりじゃった。


 じゃから、気づくことができんかったのじゃ。……妻が、リーゼの身体が、病でむしばまれておったことに」


 リーゼ。それがブランの妻の名前なのだろう。自分が仕事に明け暮れていたせいで、一緒に写った写真一枚も残すことができなかった、と。


 次第に重たくなっていくブランの表情に、ルコルは胸のあたりがきゅっとなる。だけど聞かなければならない。それが、彼の心の内を暴いた者の責任だ。


「きっと長いこと無理をしておったのじゃろう。つらく、苦しかったはずなのに妻は気丈に家事をこなし、まだ小さかった息子たちの世話をして、毎日笑ってワシを仕事に送り出してくれておった。元気な姿を信じ切って、心配することなぞ一度もせず、ただ仕事ばかりをしておった。


 ……結局ワシが気づいたのは、妻が倒れ、そしてこの世を去った後じゃった」


 いつしかブランは顔を落としていた。表情を見ることはできない。だがコーヒーの黒い水面に映るそれはきっと沈み、痛みを伴っているだろう。


「あとはミザさんの言う通りじゃ。うしなった悲しみに耐えることができずに、妻と関わりのあるものをすべて、妻が使っていた部屋に押し込んだ。見えないよう、見ないよう……考えないように。……弱く、自分勝手な行いということはわかっておった。じゃが、そうするしかなかったのじゃ」


 そこでブランの言葉は終わった。吐き出すものを、すべて吐き出したのだ。


「本当は何か、奥さまに伝えたいことが、あるんですよね」

「……ああ。ワシは、ずっと謝りたいと思っておる。それから、感謝も。墓前では口にしたが、それはただの懺悔ざんげにしかなっておらん気がして、ずっと心に残っておるのじゃ」

「……ありがとうございます。私たちに話してくださって。話すとつらい過去を、想いを、さらけ出してくださって」


 たしかにこんな話、会ったばかりの旅人に話すものではない。ブランが心の内に秘めていたものを、無遠慮にも暴いてしまったのかもしれない。

 だが――それはルコルたちがただの・・・旅人であれば、の話だ。


「ブランさん」


 魔法使いが、老人の名を呼ぶ。そう、彼の目の前にいるのはただの旅人ではない。彼の想いに応えることができる、魔法使いなのだ。


「私たちに、お手伝いをさせてください」

「手伝い、とな?」

「ええ。最初にも言ったとおり、私たち魔法使いがここに来たのは人の想いに応えるためです」


 言うと、長く下を向いていたブランの顔が上げる。少しばかり不思議そうにして。

 そして、魔法使いは用意しておいた台詞を続ける。


「奥さまへのその想い。伝える機会を用意させてはくれませんか?」

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