18.鬼ごっこ

 翔太が大声を張り上げた。

 「カラクリは解かせない!」


 類も声を張った。

 「鏡の世界に一生いるべきなんだ!」


 理沙のためにも正気に戻ってほしい。類にとって最も大切なことを明彦が問いかけた。

 「リアルな理沙に逢いたくないのかよ!」


 いましがた声を荒立てた類は、その言葉を聞いて俯いた。そして、静かな口調で言った。

 「理沙といたいから鏡の世界に留まりたいんだ……」


 なぜだかわからないが、明彦には類が悲しそうに見えた。

 「……」

 (鏡の世界だと触れ合えない。それなのに、どうして?)


 「みんな!」道子は囁きに支配されている全員に向かって声を張り上げた。「お願いだよ、正気に戻って!」


 純希も負けじと声を張り上げた。

 「囁きに負けちゃ駄目だ!」


 明彦は、結菜に目をやった。まるで催眠術にでもかかっているかのように、目を見開き、こちらを凝視している。

 「結菜……」


 明彦は廊下に目をやり、ふたりに合図する。

 (教室から出たほうがいい)


 ここから逃げるべきだ。視線に気づいたふたりは頷く。

 

 教室から廊下にワープするんだな、と、理解したふたりは、意識を集中させ、火災報知機の赤ランプの光が目立つ廊下にワープした。


 赤は血の色だ。赤ランプを見たくなかった道子は、視線を逸らす。そのとき水飲み場の鏡が視界に入った。当然、自分たちの姿は映っていない。旅客機の中で鏡を見て以来、顔を見ていない。自分の頬に触れた。


 鏡から廊下に視線を戻して全力疾走した。

 「どうするの?」


 廊下にワープした一同も、すぐに追ってきた。単独で逃げるよりも、三人一緒のほうがよいだろうと判断した明彦が、小声で「理科室」と指示を出した。


 類が三人に向かって声を張り上げた。

 「待て! 絶対にどこにも逃がさない!」

 

 純希は後方を振り返り、類に言い返した。

 「狂いやがって! 上等だ! クソ野郎!」


 明彦は純希に顔を向けた。

 「ガキかお前は。挑発してどうするんだよ」


 「だって、あんなの類じゃない!」


 「でも類だ」合図を出す。「ワープするぞ」


 四人は瞬時に理科室にワープした。校内にはたくさん教室があるので、しばらくは見つからないはずだ。だが、このまま鬼ごっこを続けるわけにもいかない。一同を正気に戻す方法を考えなくてはならない。しかし、完全に囁きに支配されているため、簡単にはいかないだろう。


 重苦しいため息をついた道子は、理科室の象徴に目をやった。

 「人体模型って気持ち悪い」


 明彦は言う。

 「人間なんか肉を引き剥がせば骨と内臓だ」


 顔を強張らせる

 「状況がヤバいのに物騒なこと言わないでよ」


 「だって本当にそうだから」


 純希は言った。

 「あいつらが来るまでとりあえずここにいよう」


 道子は真剣な面持ちで言った。

 「それまでになんかいい手段を考えないとね」


 「なんかいい手段……」純希は明彦に目をやった。「どうよ、なんでも博士」


 明彦は提案した。

 「島にいるときとちがって、ヤバくなったらいつでもワープできるんだし、少し荒っぽくいってみる?」


 「荒っぽいのは得意だよ」純希は訊く。「それで? 手段は?」


 「三人で飛びかかってみる。向こうも本気だろうからこっちも本気でいく」


 「ヤバくなったときはどこにワープすればいい?」


 「音楽室でどう?」


 「わかった」


 道子は疲れた表情を浮かべた。

 「それにしても……疲れた……。仲間に襲われるだなんて考えもしなかった」


 純希は返事した。

 「俺も疲れたよ」


 「きょうはずっと歩くか走るかの繰り返しだよね」と言ったあと、申し訳なさそうに明彦と純希に顔を向けた。「あ、ごめん。ふたりのほうが歩いてるよね」


 明彦は言った。

 「一生分、歩いたかもな」


 純希は苦笑いする。

 「たしかに、一生分、歩いたな」


 明彦は、床に転がっているボールペンに腕を伸ばした。拾い上げようとしたが、やはり動かすことすらできない。鏡と学校に閉じ込められた世界にいるのだ。ここではどんな物も動かせない。


 (どうして俺たちはこんなことに……ネバーランドは俺たちに何をさせたいんだ……俺たちをあの島に永遠に閉じ込める気か?)


 そのとき―――男女に別れて三人を探していた、綾香と結菜が現れた。しばらく見つからないだろうと考えていたのだが、予想以上に早く見つかってしまった。三人は腰を上げた。


 囁きに支配された一同が一斉に理科室に現れた場合、太刀打ちできなければ音楽室にワープする予定だった。しかし、男子と別行動だったので不幸中の幸いだと思った。女子だけなら荒っぽい手段を使う必要はなさそうだ。


 「結菜!」明彦は結菜に訊いた。「正気に戻れ! 囁き声に支配されたら一生あの島だ!」


 身震いする結菜は、切羽詰まった表情を浮かべた。

 「明彦……カラクリは解かせない……」


 明彦は結菜を説得しようとした。早く正気を取り戻してほしい。

 「解かなきゃ現実世界には帰れないんだ! 新学期を迎えたいんじゃないのか! 結菜、しっかりしろ!」

 

 顔色を変える。

 「うるさい! この島の謎がわかれば、自分たちの身に起きたことがわかれば、絶対に後悔する!」


 明彦は訝しげな表情を浮かべた。


 やはり……潜在意識ではこの島の答えである共通点に気づいているのではないだろうか? この島にいれば永遠に十七歳だ。そんなこと望んでいない。結菜はこの島から出ることを恐れているように見えた。


 この囁き声はいったい何なんだ……取るべき言動と真逆のことを囁いているだけではないのかもしれない。

 

 「後悔なんかしない!」道子は叫んだ。「あたしはさっさとあの島から出たいの! 綾香も結菜だってそうでしょ!」


 綾香は目に涙を浮かべた。

 「あの島から出ちゃ駄目なの……道子ならわかるでしょ!」


 語気を強めて訊く。

 「わからない! 理由を言って!」


 綾香は道子に襲いかかった。綾香に押し倒された瞬間、転倒して床に頭を叩き付けられた。痛みを感じた直後、眩暈を感じ、勢いよく引き戻される感覚を覚えた。


 目を開ければそこは、月明かりに照らされた浜辺だった。みんなと一緒に横になったはずなのだが、誰もいない。自分ひとり。一体どういうことなのだろう……と、不安になった。


 何故、誰もいないのか……肉体から抜けた意識が学校の鏡の世界に移動する。肝心な肉体はどこにある。

 

 浜辺はどこを歩いても同じような景色が広がる。寝ているあいだに移動したのか……そんなはずない。なぜなら目の前に雨水が溜まった鍋があるから。


 道子は鍋を覗き込んだ。鍋に溜まった雨水の水面に疑問を感じた。水面を軽く叩いてみる。そこに投影された月が揺れ動く。水面を覗き込んでも、顔が映らない。学校の鏡と同じ。それを見た直後、近くに放置していたコップと容器を拾い上げて側面を確認してみた。


 この島のカラクリの答えがわかった瞬間、手が金色の光に包まれた。怖くなり、なんとか光を消そうとする。


 号泣していると、「道子」と、後方から懐かしい声が聞こえた。振り返ってみてみると、そこには大好きな人が立っていた。道子は、その人の許へと歩いて行った。


 浜辺から道子が消えたことを知る由もない明彦は、純希と共に綾香と結菜を説得するのに必死だった。道子の心配をしていなかった理由は、ここから消えたということは、浜辺の肉体に戻ったと考えていたからだ。


 純希の心にゲートに対する不安要素はない。

 「最初はみんなカラクリを解くのに必死だった。俺は現実世界に帰りたい! お前らだって最初はそうだったじゃん! いきなりわけわかんないよ!」


 明彦も必死だ。

 「ふたりには将来の夢がある! その夢はここでは叶わない! 現実世界に戻らないと叶わないんだ! 永遠に島にいたいだなんて本心なわけない!」


 綾香と結菜は床にうずくまった。


 ゲートを通ってはならない―――


 島にいるべきだ―――


 鏡の世界にいなければ自分の存在が消滅する―――


 頭の中に囁き声が響いた直後、怯えて涙を流した。


 「怖い……嫌だ……」綾香は震える。「このままでいい……」


 「絶対、嫌だ……」結菜も身震いする。「ここにいたほうがいいの……」


 結菜の肩を抱きしめた明彦は、「大丈夫か? しっかりしろ」と懸命に声をかけた。


 純貴は綾香に話しかけた。

 「何も怖いことなんてないんだ」


 明彦の腕の中で震える結菜の頭の中に囁き声が響く。


 カラクリは解いてはならない―――


 自分の存在が消えてしまう―――


 明彦の存在は無視して―――


 自分の身だけを案じて―――


 「うるさい……」結菜は囁き声に抵抗しようとした。明彦や友人を傷つけてまで欲しいと思う幸せなんかない。頭の中に響く囁き声を掻き消そうとした。「黙ってよ……」


 「結菜! 心を強く持て!」


 耐え難い頭痛に頭が割れそうになる。抵抗しようとすればするほど頭痛がひどくなる。だが、次第に囁き声が聞こえなくなっていった。涙を流す結菜は、明彦を見上げた。


 「自分の存在が消滅してしまう……そう囁く声が聞こえていたの」

 

 明彦は囁きに打ち勝った結菜の手を力強く握った。思ったよりも早く正気に戻ってくれたので安堵する。

 「本来の結菜に戻ってくれてよかった」


 綾香も正気に戻った。純貴の腕の中で号泣した。

 「すごく怖かった。あたしも自分の存在が消滅すると言われていた」


 「俺たちの存在が消えるはずない」と綾香に言った純希は、明彦に顔を向けた。「女子は一件落着だな」


 「女子はな……類と翔太がヤバいんだよ。とくに類を押さえつけるのは容易じゃない。あいつ、かなりの馬鹿力だからな」


 「見ろよ、こっちには人数がいる。なんとかなる」


 「なんとかなる、その言葉を早くあいつの口から聞きたいよ。たとえゲートの中に恐怖を感じる要素があったとしても、ゲートを通らないと現実世界に戻れないんだ。多少の危険は覚悟のうえだよ。だから類たちにも正気に戻ってもらわないと先に進めない。何がなんでも説得しないとな」


 綾香は道子を心配する。

 「頭ぶつけてたけど、大丈夫かな。あとで謝ろう」


 明彦が返事する。

 「道子なら今頃浜辺だ。大丈夫」


 綾香は教室の壁時計に目をやった。反転した文字盤の数字は、もう見慣れた。

 「十時半……」

 (朝まで鬼ごっこは続くのかな?)


 純希は明彦に訊く。

 「どうする? ここで類たちが来るのを待つ? それとも場所を変える?」


 「音楽室でいいんじゃない? どうせワープするつもりだったし」


 「そうするか」純希は女子に言う。「じゃあ、音楽室にワープだ」


 立ち上がった一同は、意識を集中させて音楽室にワープした。世界に名を馳せる音楽家の肖像画が壁に飾られた光景はいつもどおりだ。だが、夜の音楽室に侵入したのは初めてだ。

 

 そのとき、窓際に置かれているピアノが鳴った。室内に響いた音に驚いた四人は、一斉にそちらへ目をやった。すると、ピアノの手前に類と翔太が立っていたのだ。


 類たちから逃れるために音楽室を選択したはずが、まさか鉢合わせするとは誤算だった。鋭い目つきでこちらを睨んでいるふたりを正気に戻すための作戦を立てたかった。


 「カラクリを解くな」類が言う。「消滅したくない。あの島に一生いたほうがいい。いるべきだ」


 翔太が言った。

 「危険だ。消滅する。俺たちの世界が消えてしまう」


 消滅―――綾香と結菜も同じことを言っていた。類も、自分の体が消滅してしまうことへの恐れをいだいているようだ。


 「ここだと理沙に触れられない。いいのかよ、それで」明彦は真剣に類に問いかけた。「理沙に逢いたいんだろ?」


 類は唇を結んだ。

 「……」


 翔太は綾香と結菜に目を向けた。

 「そっちについちゃったの? 俺たちといたほうがいいのに……」


 結菜は言い返した。

 「そっちとかこっちとか、みんな友達だよ! 仲間じゃん! あたしもさっきまで囁きに支配されていた。光流、恐怖心を捨てて!」


 「恐怖心を捨てるのは、命を捨てるのと同じ選択だ」


 「命を捨てるって……何言ってるの? 真逆の考えを囁いてくるの。自分の声だから混乱するけど、相手にしないで」

 

 綾香は翔太に言った。

 「道子はいまひとりで浜辺にいる。翔太が守ってあげて。道子のことが好きなんでしょ? だったらしっかりしてよ」


 囁きがすべてを混乱させる。なぜ、感情や現状を無視した真逆の言葉を囁いてくるのか。囁きの理由と意味を知りたい。これはこの島から脱出できなくするための罠なのだろうか。


 翔太は頭痛に顔を歪めた。


 カラクリは解くな―――


 恐ろしいことが起きる―――


 魂が消滅するぞ―――


 翔太は必死で囁き声に抵抗しようとした。


 (なんなんだよ、この囁きは。なんで自分の声なんだよ? 負けるわけにいかない!)


 「大丈夫?」結菜は必死だ。「しっかりして!」


 「全然、大丈夫じゃない……」翔太は息を切らしながら結菜を見上げた。「引っ叩かれた頬が痛いから……大丈夫じゃない……けっこう重症かも」


 ようやくいつもの翔太に戻った。四人は安堵した。

 

 結菜は胸をなで下ろす。

 「ビンタしてごめん」


 「いいんだ。おかげで正気を取り戻した」

 

 翔太が正気を取り戻したので、明彦たちはひとまず安心した。つぎは類だ、と周囲を見回した。だがその姿が見当たらない。


 翔太に気を取られているうちに、どこかへ逃げられてしまったようだ。


 「どこに行ったんだよ!」純希は後悔する。「目を離さなきゃよかった!」


 「そうだ……」明彦は顔色を変える。「俺たちは類と一緒に眠ってる。校内にいるとはかぎらないし、俺らの肉体は大丈夫なんだろうか?」


 綾香は明彦と純希に顔を向ける。

 「いったん戻ったほうがよくない?」


 「いまのあいつは類であって類じゃない」純希は青褪める。「何をするかわからない。たしかにヤバい」


 明彦が言った。

 「殺すとまではいかなくても拘束なら可能だ」


 「拘束……紐がなくちゃできないけど……」純希は顔を強張らせる。「でもさ……俺らを土に埋めるのは可能だよな」


 「目覚めた瞬間、地面から首だけ出た状態だったら怖いんだけど……」


 「冗談だろ? そんな怖いこと言うなよ」


 「冗談を言ったつもりないよ。本気で言った」


 綾香はふたりに言う。

 「あたしたちもいったん戻るよ」


 明彦は壁時計に目をやった。あと三十分で零時だ。

 「零時にここで落ち合おう」


 「わかった」


 いまの類は別人だ。囁きに支配されているので、完全に正気を失っている。明彦と純希は自分の身を守るために、肉体に意識を移動させた。

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