19.答え

 音楽室からジャングルへ意識を移動させた明彦と純希は、自分たちの体を確認した。

 

 (無事だ。何もされてない)


 安堵したふたりは、類が眠る方向に目をやった。だが、類の姿はなかった。どこに行ったのだろうか……と、顔を見合わせた。


 「いないんだけど……」純希が言った。「まさか狂って暴走したわけじゃないよな」


 「ここに肉体がないってことは、まちがいなく学校かジャングルのどこかにいるはずだ。類が消えたことを綾香たちにも報告しないといけない。でも、ここだと類がジャングルにいた場合、攻撃される可能性もあるから安心できない」周囲を見回し、背丈ほどの植物が生い茂った場所を指さす。「あそこに隠れよう」


 「そうだな、そうしよう」


 そちらへ歩を進めたふたりは、夜空を見上げた。満天の星々の中心に輝く満月がとても綺麗だ。いつも思う、空も星も月も太陽だって現実世界と変わらないのに……と。


 幾重にも重なる葉を掻き分けて茂みの中へ入っていくと、目の前に太くて大きな倒木が横たわっていた。浜辺で待機しているみんなのように、倒木をベンチの代わりにして腰を下ろした。


 「結菜たちは大丈夫なんだろうか?」明彦は心配する。「眠りに就かないと会えないって不便だよな」


 「現実世界だとラインひとつで済む。だけど、会えるだけマシ」


 と、純希はため息をついた。いままで鏡なんか気にしたことはなかったが、いまの自分の顔は疲れているだろうと思った。今夜は天気がよい。月明かりが水たまりに反射している。顔でも映らないだろうか……と、水面を覗き込んだ。月は映し出されているのに自分の顔は映し出されていない。


 水面を覗く。指先で水面を弾いてみた。水面に映る月が揺れ動く。この瞬間、慄然とした。

 「うそだろ……そんな馬鹿な……」


 「どうしたの?」


 水面を指さした。

 「見ろよ」


 水溜りを覗き込んだ。

 「今夜は満月だから水面に映ってる。でもふつうの水面だ」


 「ふつう? そうだ、ふつうだ。でもふつうじゃない」


 意味がわからない。

 「ふつうじゃないのに、ふつう? 理解できるように説明してくれ」


 「猿の死体を見たとき類の類を思い出せ。気持ち悪くなったから涼んでくる、と、言って茂みに入っていった。だけど、あのときもあいつの姿はなかった。意識が学校に移動するんじゃない。俺たち自身がすでに意識……つまり肉体がなかったとしたら……」と、言ったあと涙が込み上げた。


 「悪いけど、理解できない」


 あのとき ‟涼んでくる” と言った類は、茂みに入り、姿を隠している。茂みの中に入るときと言えば、たいていは排泄反応が起きたときだろう。


 「なぁ……俺らこの島に来てから一度か小便したか? してないよな?」


 「そんなのいちいち覚えてないよ。久々に口を開いたかと思ったらどうでもいい内容の話だな」


 「どうでもよくないよ。排泄って毎日のことじゃん」


 「出ない日だってある」


 「ないよ!」語気を強めた。「雨水も飲んでるし、椰子の実も食べてる」」


 「体内にすべて吸収されたんだよ」


 明彦の肩を掴んで揺さぶった。

 「お前、将来は医者だろ! しっかりしろよ! 俺たちはずっと排泄してないんだ! 異常だよ」


 「たくさん歩いたから摂取した水分は汗になったんだ。それに俺たちは、この島にいるかぎり十七歳で年齢が止まってる。きっと体の機能も止まってるんだ。それなら小便だって出ないよ」


 「そうだよ、俺たちは永遠に十七歳のままだ……」墓穴を掘った明彦を、真剣な面持ちで見据えた。「旅客機が墜落してから一度も小便も糞も排泄してないんだ。お前が言うように、体の機能そのものが停止したとすれば、当然、汗だってかくわけないよな? だけど俺たちは汗をかいていた」


 「ち、ちがう……」動揺した。「汗はかく。けど、不思議と排泄物は出ない」


 「炎天下を歩けば、汗をかくのは当たり前のことだ。だから汗をかいていると思い込んでいた。だけど排泄に関しては頭から抜けていたんだ。ずっと必死だったから、小便なんて気にも留めていなかった」


 「必死だったから?」声を荒立てた。「過去形じゃん! いまだって必死だよ!」


 目に涙を浮かべた。

 「明彦、気持ちはわかる」


 「気持ちはわかる? 純希に何がわかるんだよ! そうだ、俺は将来は医者だ! 兄貴よりも優秀な医者になるんだ!」


 「明彦! もう無理だ! もう無理なんだ!」


 「くっそ!」自分の頭を何度も叩く。「囁きが! 聞こえろよ! 囁き、聞こえろ!」


 頭を叩き続ける明彦の手首を掴んだ。

 「よせ……明彦……」


 泣きながら訊いた。

 「どうして……どうして純希はそんなに冷静でいれるんだよ……」


 「冷静なんかじゃないよ。俺だって怖い。でも……言っただろ、うちの会社が倒産したときに現実しか見なくなったって。本当は最初っから潜在意識のどこかで、カラクリの答えがわかっていたのかもしれない。そして、ここがどこなのかも。

 俺にも未来があった。明るい未来が……いまのバイトが楽しくて、やりがいもあって、俺のことを認めてくれる店長がいて幸せだったから、この現実を受け入れられずにいた。現実世界に帰れるものなら帰りたかった……」


 そのとき、ふたりの手が金色に光り始めた。驚いたふたりは咄嗟に立ち上がり、光を消そうとして両手をこすり合わせた。すると、光は一時的に収まった。


 「逃れられない……自然の摂理……」明彦は水溜りを覗き込んだ。それと同時に、水面に涙が滴り落ちた。「どうして肉体がないのに涙が出るんだろう……」


 「わからない……」


 「すべてがひとつに繋がった。こんな残酷な答え……知りたくなかった……」


 「おそらく類は学校だ」


 「みんなは解けたんだろうか?」


 「浜辺に行ってみよう。いまの俺たちなら、この島のどこにでもワープできる」


 「そうだな」


 ふたりは浜辺の方向へ意識を集中させた。すぐに、浜辺で待機する一同のすすり泣く声が聞こえたので瞼を開けた。


 突然、目の前に現れたふたりに驚いた一同は、目を見開いた。


 純希が三人に訊く。

 「その様子だとカラクリが解けたんだね」


 綾香が言った。

 「ここでもワープが可能なんだ。そうだよね……可能に決まってる……」


 「道子は?」


 「いない……きっと道子も答えがわかったんだよ」


 明彦が足元に転がるコップを拾い上げた。その直後、コップの側面を見て驚愕する。


 コップに目をやった純希も息を呑んだ。


 そこには誰もが知るキャラクター、スヌーピーがプリントされていたのだ。


 容器には英語の成分表示が記載されたラベルが貼られていた。このラベルに見覚えがある……。恐る恐る容器を拾い上げた瞬間、あまりの衝撃に動揺した。コストコやインターネットで購入できるアメリカ発祥のスキンケアブランドであるCetaphil(セタフィル)と商品名が記載されたステッカーが貼られていた。


 結菜が説明する。

 「理沙も使っていたし、雑誌でも何度も見かけた。コストコでも何度も。だから見覚えがあった」


 その後、静まり返った空間に波音だけが響く。


 明彦は泣きながら綾香に言った。

 「綾香……頼みがある……」


 綾香は、明彦の真剣な面持ちに、ただならぬものを感じた。

 「頼み?」


 「全員で類にカラクリの答えを説明しても逆上するだけだ。つきあいが長い綾香なら、類の性格を熟知している。だから……」


 「わかったよ」明彦の言いたいことを理解した。「あたしが説得してみせる」


 申し訳なさそうな表情で言った。

 「重責を押し付けてごめん……」


 「いいの……謝らないで……」涙を零した。「できればみんなと一緒にゲートを通りたいけど……あたしには難しいかもしれない」


 「まさか……墜落現場に行くつもりなのか?」


 「それが一番、てっとり早いから」と言ってから訊いた。「明彦たちはどこに?」


 「墜落現場を見てから、学校で待機してる」


 「みんな揃って学校で会えたら嬉しい。だって、あたしたちの思い出の場所だから。できれば学校からゲートを通りたい。時間が許してくれればいいんだけど……」


 「俺たちも綾香と一緒がいい。学校で再開できるって信じてる」


 「もし、無理だったら一足先にゲートの中で待ってる」


 「わかった」


 純希は校内に行こうとした。

 「今夜は学校で休もう。類は理沙のところだ。今夜が最後だから二人きりにしてあげよう。あいつは囁きに取り憑かれているけど、墜落現場に連れて行かないとどうにもならない」


 全員が一斉に学校へワープした。倉庫の前の廊下に立つ一同。明彦は倉庫の中へワープした。するとそこには理沙と楽しそうにやりとりする類の姿があった。


 しかし、類とは対照的に理沙はいまにも倒れそうだ。鏡にもたれている。類には何も見えていない。真実を理解しなければ、現実は見えない。いまの類には漂流物も無地に見えるだろう。


 明彦は話しかけた。

 「類……」


 囁き声が聞こえている。だが、理沙が目の前にいるので穏やかだ。

 「さっきはごめん」


 「いいんだ。今夜はゆっくりしていい。明日は九時に出発だ」


 「九時? そんなにのんびりしてていいの?」


 「それまで理沙と過ごすといい」と言ったあと、悲しみを湛えた目をした。「今夜が最後だから……」


 明彦の言葉を否定する。

 「何言ってるんだよ、俺たちは永遠だ」


 明彦は鏡に文字を書く。


 《大丈夫?》


 衰弱した理沙は鏡の文字を見て、頷く。


 大丈夫ではなさそうだ。限界だろう。


 「俺たちはみんなと廊下で遊んでる」と、廊下にワープした。


 廊下に降り立つと綾香が類の様子を訊いてきた。


 「どうだった?」


 「類よりも理沙がヤバい。だいぶ弱ってる。熱中症だと思っていたけど、そればかりじゃない。類に生気を吸い取られているような気がする」


 「小夜子になりつつあるってこと?」


 「うん」


 結菜は真剣な眼差しで綾香を見る。

 「類を魔物に……死神にさせないで……」


 「大丈夫」力強く返事した。「絶対に類とゲートを通る。あいつを死神にさせたりしない」


 すべてを綾香に託すしかない。

 「信じてるから」


 「信じて」一呼吸置いたあと、綾香は一同に言った。「校内を歩こうか」


 翔太は周囲を見回した。

 「勉強は置いて行かれたけど、この学校が大好きだった」


 綾香もうなずく。

 「あたしもだよ」


 明彦が言った。虐めを受けていた中学校時代からは考えられないような楽しい学校生活だった。

 「すべての思い出はここから始まった」


 純希が涙を拭った。

 「俺たちの心はいつもここにある。どこにいようと、ここに……」


 綾香は笑みを浮かべた。

 「夜の学校を楽しもう。鏡の世界も今夜で終わりだから―――」


 一同はさまざまな想いを巡らせて、ゆっくりと廊下を歩き始めた。




・・・・・




 そのころ、倉庫にいる類は理沙のとやりとりをしていた。


 「ちゃんと島から脱出できそうなの? 心配だよ」


 類は鏡に息を吐きかけ、不安げな理沙に伝える。

 《大丈夫》


 「それならいいけど」


 《少し休んだら?》


 「どうして?」


 《寝顔が見たいから》


 「お休みのキスして」


 《いいよ》


 微笑みを浮かべた理沙は甘いおねだりをして、鏡に両手をつけて唇を押し当てた。類は理沙の手のひらに、自分の手のひらを重ねたあと、愛しい唇にキスをする。


 理沙は床に横になった。

 「お休みなさい」


 類は鏡に息を吐きかける。

 《おやすみ》


 理沙は、まばたきひとつせずに鏡を見つめた。

 「なんだか……眠たくないの……ぜんぜん……最近……眠たくないの……」


 もう一度、類は鏡に息を吐きかけた。

 《会話しようか?》


 「うん。そのほうが落ち着くかな」理沙は背を起こした。「類が帰ってくるまでは頑張らないとね」


 《ありがとう》


 「早く逢いたいな」


 逢いたいのに逢えないもどかしさ。こんな状況だからこそ、ふたりの愛と絆がより一層深まるのを感じていた。早く理沙を抱きしめたい。


 《愛してるよ》

 

 「あたしも愛してる」


 誰よりも愛してる―――永遠に理沙とともに―――


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