前進
ゆっくり目を開けた。
ほのかな頭痛。
両腕。とくに左手。そのさらに先っぽ、手首。さらに先、指全部。
一番疲れていると思っていた脚はそれなりにだるかったが、こうして先輩との約束を守るために起きようとしている状況になって初めてそれが違っていたと気付かされた。
壁掛け時計に目線だけを向けると、六時過ぎ。
そのことに静かに驚く。
家に着いたのが二時過ぎ。
それから風呂に入って、眠った時には多分、間違いなく、三時は絶対に過ぎていたはずだ。
普段、学校がある時でもこんな時間に目が覚めることはないのに、あまりにも自然にこうして起きてしまったことになぜか微笑む。
ユラユラと、はっきりしない足取りと意識をおして洗面所に向かう。
途中であまりもの空腹に気づく。
「まだ起きてないか」
冷蔵庫を開けると、たまごと、おっ! っと声を出してしまうほど、風間家には珍しいベーコンを取り出し、それを焼く。
トースターに食パンを二枚入れ、水道水を入れた電子ケトルのボタンを押し、小さめの俺専用のマグカップに使い捨ての紙フィルターを掛け、買いだめしてあるお気に入りの粉コーヒーをその中に入れる。
半生のスクランブルエッグ。
カリカリベーコン。
焼き加減の調整ボタン全開まで上げたトースト。
それらを二人前。
パチンという音がして電源が切れたケトルのお湯でドリップする。
そんな一連の動作を、これでもかとゆっくり。だからこそ、精度をいつもよりも数段上げて行う。
「私の分もよろしく」
母さんがいかにも眠たそうに俺にいってきた。
「おはよう」
声だけで十分どんな状態か理解する。
「おはよう。連休今日までだろ? どうするんだ?」
「昼に出かける」
「先輩とか?」
「……そう」
「ふーん。ところで天。ギターどうした?」
「昨日知り合った楽器屋に預けてきた。俺じゃ分からないけど、なんか色々とガタきてたみたいだし」
「治してもらうのか。ってお前、金は?」
「バイトでもしてなんとかする」
「……」
「なに?」
そこで今日初めて母さんの顔を見る。
「いいや、別に……なんでもない」
そういうと、母さんは洗面所に向かって歩いていってしまった。
俺はそこに僅かな笑い声が含まれていることに気づく。
「そうだ母さん」
「なんだ?」
リビングに運んだ朝食を向かい合わせになって食べながら聞く。
「アンプと弦買ってこいって言っておいてお金全然足らなかったんだけど」
「ん? でも治してもらえるんだろ?」
「ああ、それ違う」
「なにが」
「レスポール治してくれるのは、アンプと弦買った……買ってないけど、そことは別の楽器屋」
「はあ!? なんだそのこんがらがった状況」
「今日は、アンプと弦買おうとした……あ!」
「ぶっ! なんだ急に!?」
「アンプ、置いてきたままだ」
「どこに?」
「治してもらうとこに。まだ代金払ってないのに、どうしよう」
「今日そこに行くのか?」
「うん……」
「しょうがない。出してやる!」
「まじで!」
「ただし! 立て替えだ。バイト代が入ったら返せ。分かった?」
「分かった。ありがと」
「しししっ、どういたしまして!」
「そろそろ出るよ」
「まだ早いんじゃないのか?」
俺と母さんは朝食をいつもの倍の時間を掛けて食べ終え、朝のニュースに無責任に適当な文句を言って、少しだけ部活の話をした。
「先輩より先に着いてたいから」
言いながら俺はこの前見た先輩のあの顔を思い出していた。
「月並みだが――青春だねぇ」
「なら言うなよ」
俺は靴紐をキュッときつく結び、立ち上がって振り返る。
「行ってきます」
「ああ、行って来い!」
玄関のドアノブに手を掛け回すと、クッキリとした痛みを改めて感じる。
外に一歩踏み出そうとすると、モッタリと脚が動く。
まだ疲れているのが実感できた。
それらがとても気持ちいい。
空はあいにくの曇り空。
いつもの空だった。
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