アンプと弦!
「待って!」
背中に先輩の声が聴こえた。
でも、もうここに留まる資格がなくなったことを俺は十分理解してしまっている。
ギター。
ドラム。
ベース。
ピアノ。
管楽器の順に足を進める。
「失礼します」
振り返り、律儀に言って、丁寧にお辞儀をし、入口の取っ手に手をかける。
俺の日頃の習慣はいつも気持ちの良いものだった。
無意識に行えていたその全ては母さんに躾けられ、仕込まれた賜物だった
なのに、ここにきてそれが生まれて初めて悪いベクトルに働いた。
自分でしたその行動を、意味のないもののように感じてしまった。
「気持ち悪い」
本当に、本当に小さい音。それで言った。
取っ手にかけた手は動こうとせずに、まるで一時停止した映像のようだ。
そこにポンと丸い水滴が付く。
「…………」
声にならない声。何かしらの音にすらならない音。
ピリリリリッ!
ズボンの後ろポケットに入れていた携帯電話が勢いよく突然鳴る。あまりの場違いな機械音に、付随した振動すらも響いたように聴こえた。
反射的に入口の取っ手から手を離し、咄嗟に自分の尻にあてる。
音はその一度で切れた。着信がメールだったことに気づく。
その場で携帯電話を取り出し、メールの内容を確認する。
『その店にある一番安いアンプ。それと、弦買ってこい』
母さんからだった。
反射的に俺はまわりを見渡した。
どうしていつも母さんは俺の一挙手一投足を予測出来てしまうんだろう。
「なんだ、まだいたのか」
いかにもつまらなく言うそんな音が耳にとどく。
「あの、この店で一番安いアンプ。それと弦ください!」
その音に振り返り、気づいたときにはそう言っていた。
「あぁん? さっき言ったことをもう忘れたのか、お前」
「アンプと弦ね! 了解! さ、店長このお客様にアンプと弦を用意してさしあげて!」
「お前らはバカなのか? 聴いてなかったのか、俺は……」
「聴いてたわよ、もちろん。だから言ってるんじゃない、アンプと弦だって!」
先輩の言い分を聞くと男は「ちっ」と舌打ちをして一番奥に戻っていった。
「なんだぁ、天くんエレキギター持ってたのね!」
「?」
そんな顔にもなる。だって、今言った内容を俺は一切理解していない。
「でも急にどうしたの?」
「これ……」
先輩にさっき届いた母さんからのメールを見せる。
「なるほど……って、ガラケー!? 初めて見た!」
「そこに驚いてないで、この内容の意味教えてもらえますか?」
至極冷静に俺は先輩に聞く。
「ああ、うん。ごめんなさい。まずアンプだけど、さっき天くんが使っていたのはアンプの中でも大型のものなの」
「それって大小があって、だから高い安いがあるってことですか?」
「そう。で、弦は消耗品なの」
「はあ……」
アンプについてはなんとなく納得できた。
けれど、弦。これについてはなにも把握できていない。
なぜあんなに何本も必要なのか。
先輩のドラムと一緒になってギターを弾いたときにもそう思っていた。
消耗品となればなおさらだ。
「ほれ、一番安いアンプ。それと弦だ」
どう見ても接客する態度ではない雰囲気で言って、さっきの物とくらべてかなり小ぶりな黒い箱を俺の前に置いた。
「合わせて、二万八千円だ」
十分理解しているが、一応財布の中身を確認する。
……全然足りない。
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